第01話 はじまり


ちりばめられた星を従えて、月が悠然と空に輝く夜だった。
 吐息のようにやさしい風が敷きつめられた玉砂利をなでて、庭の一角に咲いた梔子くちなしの花がさわさわと揺れた。じっとりと肌にまとわりつく初夏の空気に、蜜のように甘い匂いが溶けこむ。
 むせ返るようなその甘美な香りは、窓をすりぬけて、匂いを強めながら床にふせるカデュラス国王にじわりじわりと忍びよる。いま、死に取りつかれた神が、最期のときを迎えようとしていた。

 ――アユル。

 王は、混濁する意識のなかで息子を呼んだ。
 枯れ枝のようにやせ細った王の腕が、そばでじっと座っている王子に伸びる。ぎょくを抱くように大切に育てた。息子は手をとって、父との別れを惜しんで涙してくれよう。彼の胸には、そんな期待があったのかもしれない。けれど、至高の身とは残酷なもの。愛や絆が織りなす幸福を手にすることはできない。王の腕が敷布の上に落ちて、脈を診た侍医じいが首を横に振る。

 カデュラス歴一六〇五年七月、カデュラス国王マハールが崩御した。

 ダガラ城の朱門しゅもんから、二頭の馬が勢いよく飛びだした。
 仕官して三年ほどの若者が手綱を握る。一人は小柄で少年のような男で、もう一人はひょろりとした華奢な男だ。

 夜半の王都に、ひづめの音が高らかに響く。二人は宰相さいしょうから直々にあずかった書簡をたずさえて、月明かりに照らされた大通りを脇目もふらずに駆けぬける。そして、王都から国境へ向かう岐路を二手にわかれた。一人は東へ、もう一人は西へ。

 死後一日を経て、マハールの遺体が王の居所である清殿せいでんから運びだされた。黒い礼服を着た屈強な十数人の武官が、マハールを乗せた鳳輦ほうれんをかつぐ。武官たちは、そのまま清殿前の庭で王子の到着を待った。

 あちらこちらから、女人たちの嗚咽おえつと鼻をすする音が聞こえてくる。玉砂利の上で、もぐら塚のようにうずくまって悲しみに暮れているのは、黒い喪色のうちぎを着たマハールの妃と王宮に仕える女官だ。

 しばらくして、白装束の青年が侍従を連れてこちらへ向かってきた。ざくざくと玉砂利を踏みしめる音に、庭がしんと静まりかえる。そして、泣きはらした女人たちの目が、食い入るように白皙はくせきの青年を追った。

 青年は武官の一人と言葉を交わしたあと、マハールに寄り添うように鳳輦のすぐそばに立った。
 太陽の光に白装束の光沢がなめらかに波打ち、背に刺繍された小さな王家の紋章がきらりと輝く。白装束の正絹と紋章に使われている金糸は、王家直轄の由緒ある工房から納められる逸品。そして、これらを身につけることができるのは、カデュラス国王と王位を継承する王子だけだ。

 アユル・タニティーア・カデュラは、天をあおいで目を細めた。
 空にはぎらぎらとした灼熱の太陽がのぼり、肌を突き刺すような強烈な陽射しが地にそそぐ。マハールは、王妃の他に十八人の妃を持った。しかし、子をのこしたのは王妃だけだった。

 夏の風が庭を吹きぬけて、アユルの白装束が軽やかな羽根のようにふわりと風になびく。女人たちは、泣くのも忘れてアユルの立ち姿に見入った。つやつやと黒く光る玉砂利を踏むすらりとした体躯は、とても清々しくて、地に舞いおりた天人さながらだ。マハールにはなかった気品、凛とした王の威厳。そういうものが、風にひるがえる表着うわぎの裾からでも漂ってくる。

「出発しろ」

 アユルは、先頭の武官に目配せして命令した。
 乱世の大陸を平定したのは、カデュラスの若き初代王だった。気が遠くなるほど大昔の話だ。

 初代王は、人々にとって希望の光だった。いつ終わるともしれない戦乱から救いだして、おだやかな暮らしを与えてくれる唯一だった。初代王の統治下で、人々は大地を耕した。焦げと死の臭いがしみついた土地は緑にうるおって、暗雲におおわれた空は澄んだ青になった。やがて初代王は神格化され、大陸は恒久の平和を手に入れた。

 初代王の直系子孫であるカデュラス国王は、今でもあまねく大陸を支配し、神と崇められている。命がつきても、その尊さは失われない。これから神陽殿しんようでんで行われるホマの儀式で、マハールは魂と体を引き離されて永遠に朽ちない神となる。

 葬列は、王宮の北の端にある神陽殿へ向かって粛々しゅくしゅくと進んだ。武官のひたいや鼻の下には玉の汗が浮かび、あごからぽたりとしずくが落ちる。途中、アユルは何気なく鳳輦をのぞいた。王に影がささないよう、四方の御簾みすはあげられている。今日はやけに風が強い。風にあおられた布がめくれて、マハールの顔が半分ほど見えていた。

「止まれ」

 武官を止めて、アユルはマハールの顔にかけられた布をきれいに整える。肉の削げたほほと土色の肌。マハールの顔は、生前のそれとはすっかり変わり果てていた。それから神陽殿に着くまで、同じように何度か立ち止まった。

 王家専属の侍医たちが、神陽殿で葬列の到着を待っていた。武官が神陽殿の前で鳳輦をおろして、マハールの遺体を殿内に移す。その間、アユルは炎天下で地面にひれ伏して、父への礼をつくさなければならなかった。

「王子様、ホマの儀式を始めます。中にお入りください」

 若い侍医が、そばに膝をついて言った。アユルは立ちあがると、一度空を見上げて、それからゆっくりとした足取りで神陽殿に入った。

「それでは王子様」

 侍医の長が手燭てしょくを渡す。
 アユルは、マハールの枕元に立膝をついて手燭の火をろうそくに移した。黄金に輝く器の中で、王家の紋章である桔梗ききょうをかたどったろうそくが、じじっと濁った音をたてる。
 死んだ王の枕元に焚かれる火は、死者を極楽の世界へ導くとむらいではなく、輪廻りんねを絶つためのものだ。万が一、王が家畜などに生まれ変わってしまったなら、神の威厳もへったくれもあったものではない。転生できないように、王の体から魂を誘いだして焼いてしまうのだ。
 火が自然に消えるのを待つ。息がつまるような時間だった。やがて炎が一瞬、強く輝いて黒煙をくゆらせる。

「始めろ」

 アユルが低声で言った。
 魂を失ったマハールの体に、侍医が腐敗を防ぐ処置をほどこす。王位を継ぐ王子は、神陽殿にとどまって、儀式の一部始終を見届けなければならない。

 ***

 大陸最西端の国キリスヤーナのカリノス宮殿では、盛大な祝宴が開かれていた。ラシュリル・リュゼ・キリス王女が、十八歳の誕生日を迎えたのだ。
 晩餐が終わって、若者たちはダンスに興じている。何人かの貴族の子息が、ラシュリルにダンスを申しこむ。しかし、彼女は一向に応じる気配がない。それを見かねたハウエル・ナダエ・キリスは、妹をたきつけようと声をかけた。

「主役の王女様。誘いを断って、すみっこで何をしているんだい? ああ、お目当ての相手がいるんだね。ここから見えるのは……、近衛隊の将校様かな?」

 兄の言葉に、ラシュリルが目を大きくしてうっすらと頬を染める。
 きれいな二重に縁取られた目にふっくらとした唇。ドレスが強調するしなやかな体。多少のあどけなさは残っているけれど、すっかり大人のあでやかさが宿っている。男たちの視線を感じていないのか、妹は色恋にまったくと言っていいほど関心を示さない。それが、ハウエルの悩みの種だ。

「ち、違うわよ、お兄さま」
「僕は兄としてキリスヤーナ国王として、君がそういう青年を紹介してくれる日を待ちわびているんだけどなぁ」
「わたし、そんな……。みんなの話を聞くだけで胸がいっぱいなの」
「もう十八だ。気になる人くらいいるだろう?」
「いないわ。本当よ、お兄さま」
「まあ、そういうことにしておくよ。でも今夜は、君のためにみんな集まってるんだ。一曲踊ってきなさい」

 ハウエルが茶化すように片目をつむると、ラシュリルは恥ずかしそうに視線をさげた。ハウエルが、ほらと背中を押す。いやよ、と顔を真っ赤にして首を横に振るラシュリルの後頭部で、ひとつに結われた黒髪が馬の尻尾のように激しく揺れた。

「まったく、今日の主役なのに君ときたら。いつもの元気で活発な王女様はどこだい?」
「ひやかさないで。わたし、こういうのは苦手なの」
「はぁ……、しかたがない。僕が、奥手な王女様の相手をしよう」
「もう、お兄さま!」

 ハウエルが、頬をふくらませるラシュリルの手を引いてダンスの輪に入る。ハウエルのくるりとした柔らかな金色の髪が照明にきらめく。ラシュリルは、兄の顔を見上げてほほえんだ。仲の良い兄妹に、貴族たちが温かなまなざしをむける。
 そして二人が、最初のステップを踏みだそうとしたときだった。大広間の扉が開いて、老齢のアイデルが慌てた様子で駆けこんできた。

「ハウエル様、カデュラスより使者が!」
「カデュラスから?」
「はい。カデュラス国王陛下が崩御なされたそうでございます。とにかく、お急ぎください!」

 翌日、カリノス宮殿の大広間には、朝早くから大勢の貴族たちが集まった。噂好きの彼らは、早速、カデュラス国王の話題で盛りあがっている。ラシュリルは、いつものように貴族たちと挨拶を交わして席についた。すると、すぐに四人の令嬢が寄ってきた。彼女たちは物心ついたときから一緒にいる、いわゆる幼馴染みだ。

「ねえ、知ってる?」

 席に着くや否や、侯爵令嬢が意味ありげに笑ってみんなの顔を見まわす。ラシュリルたちは、テーブルにひじをついて身を乗りだした。これは、彼女の「ねぇ、知ってる?」に対する条件反射であり、彼女の話を聞く基本姿勢だ。彼女たちの鮮やかなドレスのおかげで、丸テーブルが大輪の花に見える。

「カデュラスの新王さまよ」
「その方がどうかしたの?」

 侯爵令嬢の餌に食らいついたのは、十五歳の子爵令嬢だった。いい気になった侯爵令嬢が、得意げな表情で話を始める。

「ハウエルさまと同じくらいのお年だとか」
「二十三、四歳ってこと? お若いのね」
「真っ黒な御髪おぐしに漆黒の瞳。背が高くて、面立ちは女性と見違えるほど美しいのですって!」
「この世で一番身分が高くて、そのうえ美しいだなんて……。ああ、想像するだけで胸がどきどきするわ。お会いしてみたい」
「無理よ。ハウエルさまでもそうそうお目にかかれない方なのよ。わたくしたちが御姿を拝見する機会なんて一生ないわ」
「キリスヤーナへお越しくださらないかしら」
「知っているでしょう? カデュラスの国王陛下が国をお離れになることなんてないの。それに新王さまは、病弱でダガラのお城を出たことがないらしいわ。そのせいか、まだご結婚もされてないそうよ」

 ここは、カデュラスから遠く離れた地。それに、貴族たちの暇つぶしのような噂というのは、往々にして事実とは異なって、もれなく尾ひれはひれがついている。
 ラシュリルは上の空で相槌あいづちをうちながら、新王ではなく、カデュラスの地に思いをはせる。一度も見たことのない国。空はなに色で、どんな花が咲いているのだろう。そこに暮らす人々は、活気に満ちて意気揚々としているのだろうか。考えるだけで胸が高鳴る。

「お兄さまにお願いしてみようかしら」
「何か言った、ラシュリル?」
「ううん、何でもないの。わたし、失礼するわね」

 新王の即位式に、キリスヤーナ国王である兄は必ず参列する。それに同行できれば……。
 ご婦人方は、それぞれの話に夢中でこちらに関心がない。ラシュリルは席を立つと、天敵から逃れる草食動物のように身を低くして大広間を抜けだした。
 廊下に、よく知った衛兵が立っていた。ご苦労さま、と声をかけてハウエルの部屋に続く廊下へ曲がる。そして、誰もいないことを確認すると、ドレスの裾をたくしあげて走りだした。とても年頃の令嬢とは思えないその身のこなしを、伯爵夫人が笑いをこらえて見ていたとも知らずに。