第02話 王女様の嘘


「ちょっと一休みしよう」

 ハウエルは、ペンを置いて背伸びをする。
 カデュラスの使者は、二日後に帰国するそうだ。それまでに、追悼と新王即位の祝辞をしるした書簡と即位式に参列する者の名簿をそろえなくてはならない。
 カデュラスへの忠誠を示すことこそ、属国の君主に課せられた最大の使命。書簡に並べる言葉を選ぶ作業は、実に根気を要する。

 ふと暖炉の方を見ると、妻のマリージェが本を読んでいた。マリージェは、椅子の背もたれに体をあずけてゆっくりとページをめくっている。時々、本から離れた片手がテーブルに伸びてティーカップをつかむ。ああ、何てきれいなんだろう。ハウエルは、うっとりとして鼻の下を伸ばす。そのときだった。

「お兄さま!」

 ラシュリルが、身を乗りだしてハウエルの視界を遮った。ハウエルは、情けなく「ぎゃあ」と叫んで飛びあがる。

「ねぇ、お兄さま。お願い!」
「びっくりしたな、もう。いつの間に来たんだ……」
「あら、ちゃんとノックしたわ。そんなことよりも、お兄さま。わたしをカデュラスに連れて行ってくださらない?」
「また突拍子のないことを……。ほら、向こうでマリージェと紅茶でも飲んで落ち着くといいよ。僕は仕事をしなきゃ」
「一生のお願いよ、お兄さま」
「一生のお願いって……。どうしてカデュラスに行きたいの?」
「新王さまのお姿をひと目見てみたいの」
「本当に?」

 ハウエルの怪訝けげんな表情に、ラシュリルはどきりとする。

「わたし、変なことを言ったかしら」
「昨夜の奥手な王女様とは別人だな、と思ってね」
「そっ、それとこれとは別よ」
「へぇ、そう」
「本当よ。みんなが噂しているのを聞いて、新王さまに興味がわいたの」
「だからって……」
「ねぇ、お兄さま!」

 すぐそばで、アイデルがあきれた顔をして書簡が出来あがるのを待っている。彼は、先王の代から四十年近くキリスヤーナ国王の側近を務めている温和な紳士だ。マリージェが、肩をすくめてアイデルに目配せした。

「ハウエル様。どうぞ、書簡を書きあげてくださいませ。早くいたしませんと、名簿の処理が間に合いません」
「わかってるよ、アイデル。書く。書くから、このわがままな妹をどうにかしてくれないか」
「アイデルに泣きついたって無駄です。お兄さまがいいって言ってくださるまで、そばを離れませんからね!」
「……あのね、ラシュリル。カデュラスはとても遠いんだよ。それに、王族の君を連れて行くとなると、即位式にも出てもらわなきゃいけなくなる」
「ええ、新王さまを拝見したいのだもの。お兄さまと一緒に参列します」
「簡単に言わないで。即位式は遊びじゃないんだ。お転婆な君が粗相でもしてごらん。僕は……」

 ハウエルが神妙な顔をして、右手の親指をナイフに見立てて首を切る真似をしてみせる。その仕草に、ラシュリルは一瞬、ごくりと生唾を飲んだ。しかし、こんな脅しにひるんでは、せっかくの機会を逃してしまう。

「じゃあ、おしとやかにするわ。それなら問題はないでしょう?」
「何だって? 君がおしとやかにするだって?」

 ハウエルは目を細めて、あからさまな疑いを妹に向けた。
 兄妹の間を、拮抗きっこうの沈黙が支配する。ハウエルは過去に一度、カデュラスまでの旅を経験していた。先代が譲位を決めて、襲位の許しを得るためにマハールに謁見えっけんしたときだった。

 国をこえて、ひたすら山道をたどる長旅。男の身でこそなんとか耐えられたけれど、宮殿での平穏な暮らししか知らない妹には酷だろう。

「だめなものはだめだ。君はマリージェと留守番を頼むよ」
「お願い、お兄さま。わたしをカデュラスに連れて行って」
「ラシュ……」

 腕をつかまれて、困り果てたハウエルがラシュリルの顔を見る。ラシュリルはにっこりと笑っていた。彼女の笑みは、ほがらかで少しのかげりもない。あたたかで優しい光だ。ハウエルは、短い息をはいて肩の力を抜く。

「お隣のサリタカル王国との国境近くからはずっと険しい山道だよ。何日か野宿もしなくちゃいけない。カデュラスはさらにその先。最低でも二十五、六日はかかる。耐えられる?」
「……お兄さま」
「それから、王女らしく振る舞えるようにならないとね。僕たちは、カデュラス国王陛下に拝謁するんだ。何かあれば、僕の首だけじゃなくてこの国もどうなるかわからない。できる?」
「わたし、努力するわ」
「出発までひと月ほどある。名簿には名前を載せておくけど、ひと月後に僕が合格と言わなければ、君はマリージェと留守番だよ」
「あ、ありがとうございます、お兄さま!」

 ラシュリルはハウエルに抱きついて、嬉しそうに小走りで部屋を出て行った。ハウエルは、やれやれと頭をかく。道中のことは、不自由のないよう自ら手配すればいい。それで、屈託くったくのない笑顔を失わずに済むのなら――。

「とうとう根負けなさいましたね」
「うん。結局、僕はラシュリルに弱いんだ」

 マリージェが、嬉しそうに含み笑いをしてティーカップに口をつける。
 ハウエルは再びペンを握った。
 大陸が恒久の平和を手に入れたのは初代カデュラス国王の偉業であり、キリス家が存続できたのは初代王の温情である。だから、初代王の血と遺志を継ぐカデュラス国王に敬意をはらい、忠誠をつくさなければならない。キリス家の跡継ぎとして、幼いころからそう教えられてきた。
 
「いつまで……。いつまで神とやらにへつらってご機嫌をうかがわなきゃいけないんだよ」

 虫の羽ばたきの音にも劣る小さな独り言は、大臣と妃の耳まで届くことなく宙に消えた。ほどなくして、書簡がアイデルに手渡された。

「ではハウエル様。参列者は、先だってお話しした通りでよろしゅうございますね?」
「いいよ。あと、お転婆でかわいらしい王女もね」
「かしこまりました。にぎやかな旅になりましょう」
「そうだね。頼んだよ、アイデル」
「はい、手配してまいります」

 ひと月は、慌ただしく過ぎていった。
 伯爵夫人が、ラシュリルのドレスを整えて一歩さがる。そして、鏡越しににっこりと笑った。夫人が選んだのは、レースをふんだんに使った薄い橙色のドレスだった。

「ご覧なさいませ、王女さま。淡い暖色がとってもよくお似合いですわ」
「本当?」
「ええ。華やかでやわらかくて、王女さまの笑顔にぴったり。それに、とても品があります」

 ラシュリルは、ほほを赤く染めて夫人にほほえみ返す。
 ハウエルが夫人を連れてきたのは、カデュラス行きをせがんだ翌日のことだった。君の先生だと紹介された夫人が優雅に頭をさげるのを見て、ラシュリルは思わず後ずさりした。夫人は、宮廷のしきたりや礼儀を重んじる厳しい人だ。

「少しは王女らしく振る舞いなさいませ。ドレスをたくしあげて走るなど、断じてなりません」

 それが、夫人からの最初の指導だった。それから、メイドたちと部屋の掃除をしたり、庭の草刈りをしたり、いつもしていたことすべてを禁じられた。悪いことをするわけではないのだから……と夫人に言ってみたけれど、身分にそぐわないと一蹴されてしまった。
 夫人は正しい。幼馴染みの令嬢たちからも王女らしくないと笑われる。でも、恥ずかしいとかやめようとか思ったことは一度もない。だって、みんなは宮殿で一緒に暮らす家族同然で、身分よりも大切だから。

「わたくしは、王女さまの人柄をとても好いているのですよ」

 ある日、昼食をとりながら夫人がそう言った。
 歩き方に話し方、手の動きまで注意をうけてばかりなのに、にこやかな表情でほめられるなんて。ラシュリルは、夫人の言葉に驚いて手を止めた。すぐに行儀が悪いと言われてしまったけれど、嬉しくてたまらなかった。夫人のひと言に勇気づけられて、このひと月を乗りこえられた。

「お兄さまは、わたしをカデュラスへ連れて行ってくださるかしら」
「まだそんなご不安が?」
「……ええ」
「堂々となさって。大丈夫、このわたくしがみっちりとご指導いたしましたから」
「ありがとう」
「王女さまにたくさんの祝福がありますように」

 夫人が、礼をとって部屋を出て行く。
 もうすぐ、朝食を終えたハウエルがやって来る。ラシュリルは、侍女にハウエルを出迎えるように言った。

「さて、ラシュリルの様子を見てこよう」

 行儀作法マナーを徹底的にたたきこむ修行のような日々に、王女さまは泣きごとひとつ言わずに耐えていらっしゃいます。王女さまの変わりように、きっと驚かれることでしょう。
 教育係をまかせた伯爵夫人はそう言っていた。けれど、たったひと月でそんなに変わるものだろうか。にわかには信じがたい。
 ハウエルは、ラシュリルの部屋の前に立って深呼吸した。
 もしも妹に変化が見られなかったときは、はっきりと留守番をもうしつける。あの笑顔に負けてなるものかと、意を決して扉をノックする。

「ラシュリル、僕だよ」

 扉がゆっくりと開く。
 ハウエルは、いつものように両手を広げた。妹は、必ずこの胸に飛びこんでくる。かわいらしい笑顔で、仔犬のように。さぁ、おいで!

「ハウエルさま?」
「……えっ?」

 侍女の声に、ハウエルはうろたえた。侍女が口に手をあてて、肩を揺らして笑っている。不遜ふそんにもキリスヤーナ国王を笑うこの侍女は、子どものころからラシュリルに仕えているナヤタだ。

「あれ、ラシュリルはどうしたの? いないの?」
「いいえ、いらっしゃいます。奥の部屋でハウエルさまをお待ちです」
「あ、ああ……、そうなんだ。ほら、いつも飛びかかってくるから」

 ハウエルは姿勢を整えて奥の部屋に向かった。そして、部屋の入り口で立ち止まって目を丸くした。ラシュリルが、ドレスの裾を優雅に持ちあげて、貴婦人のように上品にほほえんでいる。化粧や華やかなドレスのせいではない。落ち着いた雰囲気が漂って、まるで別人のようだ。

「お待ちしていました、お兄さま」
「見違えたよ」
「カデュラスに連れて行ってくださる?」
「うん、よく頑張ったね。合格だよ」
「嬉しい」

 ハウエルは、ラシュリルの手を取って、その甲に口付けた。白くほっそりとした指先から、甘い花の香りがする。その香りに、キリスヤーナ人とはまるで違う風貌の女の子が宮殿に来た日を思いだす。

 母に手を引かれた女の子は、ぽかんと口を開けて宮殿を見回していた。かわいらしい姿が、今でもしっかりと記憶に刻まれている。
 あなたの妹よ。そう母に言われたときの気持ちはよく思いだせない。けれど、あの日から、ラシュリルは何よりも大切な宝物になった。

お嬢様マイ・レディー、僕と庭園を散歩してくださいませんか?」
「お兄さまったら、国王が妹にお嬢様だなんて。もちろん、喜んでご一緒させていただきます」

 ラシュリルは、嬉しそうに笑ってハウエルと部屋を出た。その後ろを、ナヤタがついて行く。
 ふたりが並んで絨毯敷きの廊下を歩いていると、向こうでひとりのメイドが両手にあふれそうな布を抱えてあたふたしているのが見えた。「大変!」と言って、ラシュリルがメイドに駆け寄る。

「大丈夫? わたしも持つわ」
「ラ、ラシュリルさま、おやめください。ハウエルさまにしかられてしまいます」
「お兄さまは、こんなことで怒ったりしないから安心して。どこへ運ぶの?」
「……三階の客室です」

 ナヤタが代わると言うのを断って、ラシュリルは侍女と行ってしまった。ナヤタの背後で、ハウエルがくすっと笑う。

「申し訳ございません、ハウエルさま」
「あのね、ナヤタ。僕はラシュリルのああいうところが好きで、うらやましいと思っているんだ」
「でも、ラシュリルさまは王女さまですし……」
「あれでいいんだよ。僕は庭で待ってる。ラシュリルにそう伝えて」
「かしこまりました」

 空を濃い灰色の雲がおおっている。今にも雨が落ちてきそうだ。ラシュリルは、早足でハウエルが待つ庭園へ向かった。

「ごめんなさい、お待たせしてしまって」
「気にしないで」

 ハウエルが、手をさしだしてラシュリルをエスコートする。
 少し歩いた先に、手毬てまりのような赤い花が咲いていた。毎年、必ず誕生日のころに咲くこの花には、『あなたがいて幸せ』という花言葉があるそうだ。

「なんてきれいなの」
「二、三日前から咲き始めてね。早く君に見せたかったんだ。最近は、ゆっくり庭を歩く暇もなかっただろうから」
「ありがとう、お兄さま」

 ラシュリルは、花に触れてやさしくほほえむ。
 ぽつりぽつりと雨が落ちてきた。キリスヤーナの夏は短い。季節の移りかわりを告げる雨が本降りになると気温がぐっとさがる。ハウエルが宮殿に戻ろうと言う。しかし、ラシュリルはそのまま花をながめ続けた。

 お父さまは、庭師のように麦わら帽子をかぶって、汗をかきながら花の手入れをしていた。そして、これはお前が生まれた日に植えたのだと、頭をやさしくなでてくれた。

 ――わたしは、みんなに愛されている。

 今の瞬間さえ幸せに満ちている。
 それなのに、新王さまの姿を見たいと本心ではないことを言って、大好きなお兄さまを困らせた。嘘は嫌い。だけど、お母さまが生まれ育った国をこの目で見て知りたいと言えば、悲しい思いをする人がいる……。

 勢いを増した雨が、ラシュリルの頬をつたう。しずくの温かさは、雨のものか涙のものかわからない。体が冷えるよと、ハウエルがジュストコールを脱いでラシュリルの肩にかけた。