第03話 王子様の憂鬱


 同じころ、カデュラスの王宮では、女官たちが新しい主を迎える準備に追われていた。もうすぐ、ホマの儀式が終わる。それまでに、王宮の御殿という御殿を隅々まで掃除して、調度品や衣、紙一枚にいたるまで、すべてを新調しなくてはならない。

 そんな中、女官長が王子の侍従じじゅうをたずねて神陽殿しんようでんにやって来た。身のまわりの世話もさることながら、アユルと女官を取りつぐのも侍従の大事な役目だ。
 コルダは、控えの間で女官長に深々と頭をさげた。彼は、若草色の衣が似合う二十歳そこそこの宦官だ。
 本来なら、二、三十人の女官が王子にって、こまやかに世話をする。しかし、当代の王子は違う。アユルは女官を嫌って、コルダだけをそばに置いていた。

「ホマの儀式が終わる前に、必ずお目通しいただくよう王子さまにお伝えを」

 女官長が、巻物を一巻コルダに手渡して声をひそめる。

「こちらは何です?」
「王子さまの御ために、清殿付きの女官を選定しました。その名簿です」
「……なるほど。かしこまりました」
「王子さまは、変わりなくお過ごしか?」
「少しお疲れのようです」
「なんと……。大切な御身であらせられます。しかとお世話つかまつりなさい、コルダ殿」
「重々に承知いたしております」

 王宮には、二千人をこえる女官が勤めている。一体、どういう者が選ばれたのだろうか。
 女官長を丁重に見送って、コルダは巻物をそろそろと広げた。女官の名前とその父親の官位が、三十余名分、ひょろひょろとした字で書かれている。みんな、高官の娘ばかりだ。

 ――これは、アユル様の機嫌を損ねてしまいそうだな。

 誰の差し金かは見当もつかないが、あけすけな意図が見て取れる。コルダは、慣れた手つきで巻物を紫檀したんの軸に巻いて紐をくくった。
 それから数日が過ぎて、マハールの遺体が金色の棺に納められた。侍医じいの長が、たすきを解いてアユルに頭をさげる。最後に、白檀びゃくだんの抹香を焚きしめた布をアユルが棺にかけて、ひと月半におよぶホマの儀式は終わった。

「日射しが弱まったな」

 神陽殿を出て、アユルが大きく伸びをする。
 黒い長着に濃紫の袴をまとった長身の体が、空に向かって気持ちよさそうにしなった。

「もうじき秋になりますね」
「そうだな。さて、行くとするか」
「はい、アユル様」

 ふたりは、清殿せいでんを目指して静かな庭を歩く。
 しばらくして、小川に架かる朱塗りの橋にさしかかった。橋の向こうに、五重の楼閣がひとつと入母屋造いりもやづくりの御殿が延々と並んでいる。ダガラ城の奥。カデュラス国王と妃たちが暮らす場所だ。

「ご覧ください、アユル様。王宮の御殿は遠目にも色鮮やかで、ため息がでるほど美しいですね。桃源郷とはあのような所なのでしょうか」
「霞でもかかれば、天空の浄土に見えるだろうな。だが、王宮の美しさは蜃気楼のような幻。あそこは桃源郷などではなく、魔の巣窟だ」
「申し訳ございません。アユル様に不快なことを思い出させてしまいました」
「別に、お前の言葉を責めたのではないぞ」
「ですが……」
「父上の妃どもはまだ王宮にいるのか?」
「いいえ。ホマの儀式が始まって早々に、王都の屋敷へお移りになったそうです」
「そうか」

 アユルには、正妃も妃もいない。マハールの妃が住んだ御殿は、主を失って、空っぽのまま新しい御代を迎えることになった。
 清々しい小川のせせらぎの音が聞こえてくる。この小川は、死んだ神を静かにまつる聖域と魔の巣窟の境目。アユルは、三途の川を渡る死人のような気分で橋を渡った。

「そういえば、女官長が神陽殿に来たと言っていたな」
「はい、アユル様にお仕えする女官の名簿を持って来られました。わたくしがお預かりしておりますので、のちほどご覧ください」
「なんだ、そのようなことでわざわざ神陽殿まで来たのか。女官の名簿など、私が見る必要があるのか?」
「必ずお目通しいただくようにと言われました」
「ふん。私が手をつけてもさわりない身分の者が選ばれたのだろうな」
「……まぁ、そのようでございますね」
「据え膳のつもりか。わずらわしい」

 コルダの予想は的中した。案の定、アユルは顔をしかめて不機嫌になった。
 清殿は広大な王宮の中央に建っていて、神陽殿からは相当な距離がある。林のような庭をぬけて、いくつもの御殿を通りすぎる。それから大きな池のほとりを周回して、剪定された木々の合間を行く。やっと清殿の前に着いたとき、アユルの涼し気な顔にはうっすらと汗が浮かんでいた。

 五段のきざはしをあがって、コルダがアユルの着物を整える。そして、ふたりは高欄こうらんに沿って外廊下を歩いた。最初の角を曲がると、清殿付きの女官がきれいに整列して座っていた。

「お待ち申しあげておりました、王子さま」

 女官が一斉に深く頭をさげる。
 アユルは女官たちを一瞥して、コルダが開けた扉から清殿に入った。後ろを、ぞろぞろと女官がついて来る。お香と化粧の匂いが鼻につく。それに、衣擦れの音も耳障りだ。これから、この者たちに囲まれて生活しなければならないのかと思うと、心底うんざりする。

 その日、アユルは早々はやばやと寝支度を済ませて、月がのぼる前に床についた。
 ホマの儀式の間、まとまった睡眠をとれなかった。そのせいで、体が疲れきっていた。
 死んだように深く眠って、のどの乾きをおぼえて目が覚める。いまは夜か朝か。近くに人の気配がある。アユルは夢見心地で、いつもコルダにそうするように声を出した。

「……み、ず」
「お目覚めでございますか、王子さま」

 細い声に、意識が一気に鮮明になる。アユルは、体を起こして声の主を凝視した。女官がひとり、しとねのすぐそばに座っていた。燭台しょくだいのあかりが、びんそぎの黒髪と白い顔を照らす。女官は真っ赤な紅をさした唇でほほえんで、枕元に置かれた盆に手を伸ばした。

「コルダはどうした」
「お休みになられたのでしょう。もう夜半すぎでございますもの」

 女官が、茶器に白湯を注いで手渡す。アユルは、それを一気に飲み干して茶器を女官に戻した。萩重はぎがさね五衣いつつぎぬの袖から少しだけのぞく白い手が、わざとアユルの手に触れるように茶器を受け取る。

「ここで何を?」
「何をとは。わたくしは王子さまにお仕えする身。真心をつくしてお世話するのが本分でございますわ」
「それは感心なことだな」
「王子さま……」

 色付いた息をはいて、女官が夜着の上から胸板に触れた。美しい顔に浮かぶ妖艶ようえんな笑み。上目に見つめてくる目は、ただならぬ欲をはらんでいる。
 アユルは、ふっと小さく笑った。
 生まれた瞬間から、女人の中で生きてきた。みんな、姿かたちは美しいのに、どうしてこうも切って貼ったような笑い方をするのだろうか。能面のように不気味で反吐へどがでる。

「私の妃になりたいのか?」
「……そのような高い望みはございませんわ。ずっと……、ずっと王子さまをお慕い申しあげておりましたの」

 王宮に棲む魔物は、呼吸をするようにしたたかで白々しい嘘をつく。
 アユルは、腕をつかんで女官の体を引き寄せた。息が触れ合い、唇が重なりそうな距離。とぼしいあかりの中でも、女官の顔が上気しているのがわかる。
 お前がお慕い申しあげているのは、私の何だ。そう問うたら何と答えるのだろう。想像すると、無意識に口角があがってしまう。

「そうか。明日の夜、みんなが寝静まったあとにここへ来るがよい。ホマの儀式が終わったばかりだ。今宵は疲れていて、お前を満足させてやれそうにないのでな」
「わたくしめの想いを、本当に受け取ってくださいますの?」
「当たり前だ」
「嬉しい。早く、王子さまのものになりたい……」
「かわいいことを言う」

 女官のほほに手を添えて、少し開いた赤い唇を親指でなぞる。指先にぬるりと移る紅が気持ち悪い。

「紅は落として来いよ」
「なぜです?」
「食んだときの味が嫌いなのでな」

 翌朝、アユルは広間に清殿付きの女官を集めた。そして、コルダに向かって淡々とした口調で言った。

「私に女官は必要ない。免職しろ」

 免職の対象は、清殿付きの女官に限らなかった。アユルは、すべての女官を王宮から追い出すよう命令を下した。さらに、猶予は三日とし、四日目に残っている者の首を容赦なくはねるとまでつけ加えた。
 一度王宮に入った者は、死ぬまで王宮から出られない。それがおきてだ。前代未聞の事態に、女官たちは右往左往のすえ、蜘蛛の子を散らすように王宮を去っていった。残されたのは、つつましい古参の者だけだった。

「そうだ、コルダ。あの女官は大人しく出て行ったか?」
「はい。アユル様に呼ばれているのだと、最後まで抵抗なさったようですが」
「先に誘惑してきたのは向こうだぞ。お前が私のそばを離れなければ、面倒なことにはならなかった」
「わかっております」
「何がおかしい」
「わたくしの顔がゆるんでおりますか?」
「ああ、だらしなくな」
「これは失礼を。夜もふけてまいりました。お休みください」
「私はやることがある。お前はさがってよい」
「かしこまりました」

 コルダの背中を見送って、アユルは脇息にもたれかかった。
 静かな夜だ。時の流れをじっくりと感じる夜は、生まれて初めてかもしれない。いや、一度あった。父上が息を引き取った夜も静かだった。
 病にむしばまれて骨と皮だけになった父上の手は、空をつかんで、あごで喘ぐような呼吸が止まると同時にぱさりと敷布に落ちた。
 あの瞬間、胸には何の感情もなかった。
 手を握りかえせば、悲しみがこみあげただろうか。父を思慕する情がわいて、先の王たちに恥じない立派な王になろうと思えただろうか。
 いや、とアユルは眉をひそめる。神の系譜に情は無縁だ。それに、カデュラス国王は死んでも土にはかえれない。名と朽ちることのない体だけを遺して、死後も神を演じなければならないのだ。

 ――愚かな。

 文机の端に、開封されていない書簡が積まれている。アユルは、一番上に置かれた宰相さいしょうからの書簡を手に取って、すぐに元の場所へ戻した。読まなくても想像がつく。婚姻を迫る内容に違いない。
 十五の時、成人の儀と同時に正妃を迎えるはずだった。あれから十年がたとうとしている。かたくなに拒み続けてきたが、これ以上は無理だろう。臣下から押しつけられる女人をめとって、王統を存続させなければならない。王の義務。神の系譜を継ぐ者につきまとう、決して逃れられない呪い。人並みの人生など、思い描くことすら許されないのだ。

 脇息から体を離して文机の上に地図を広げる。
 アユルの短い黒髪は部屋の暗がりと同化して、顔の白い輪郭がゆらゆらと燭台の炎に揺れた。
 大陸のほとんどが、カデュラス領だ。地図には、カデュラスの他にタナン公国、キリスヤーナ王国、サリカタル王国、ハンリー公国、デュライス王国だけがえがかれている。それらの国は、内政や国王の即位、王族の婚姻など、国の統治に係るすべてをカデュラス国王の許可のもとに執り行わなくてはならない。つまり、カデュラスの属国として生かされている。

 燭台からじじっと濁った音がして、煙が一筋のぼる。随分、時間がたっていたようだ。アユルは地図をたたんで、燭台にふっと息を吹きかけた。
 明日、マハールの亡骸は陵墓に安置されて、国中が喪に服す。アユルが王位に就くのは、秋が深まるころだ。

***

「ラシュリル。準備はできた?」
「はい、お兄さま!」

 いよいよ旅立ちのときを迎えて、ラシュリルはハウエルと馬車に乗りこんだ。見送りに集まった貴族たちの中に、伯爵夫人や幼馴染みを見つけて、車窓から大きく手をふる。

「出発して」

 ハウエルが御者に命じると、馬車がゆっくりと動きだした。
 キリスヤーナ国王一行がカデュラスへ向けて旅立ったのは、風が冷たくなり始めた初秋の晴れた日のことだった。