第07話 約束


 目を閉じたまま左に寝返りをうって、いつものように頭まで布団に潜りこむ。素肌を滑るなめらかな絹の感触があまりにも気持ちがよくて、ラシュリルは母猫に身を寄せて眠る子猫のように体を丸めた。

 ――ちょ、ちょっと待って。

 体の節々と下腹のにぶい痛みに、意識がはっきりと目覚める。
 そうよ、ここはカリノス宮殿でもカナヤの宿でもないわ。記憶が断片的に頭の中を横切って、心臓がどくどくと緊迫の律動を刻む。

 ――どうしよう……。

 こういうことは、夫としかしてはいけない。いくら色恋沙汰にうとくたって、それくらいの常識はもっている。
 ラシュリルはのっそりと布団から抜け出した。薄暗い部屋は静か過ぎて、この世にたったひとり取り残されてしまったかのような心細さに胸をつかまれる。

 枕元にたたまれた衣を広げて、おぼつかない手つきで袖を通す。そして、身頃を体に巻きつけて腰紐を結ぼうと四苦八苦しているときだった。背後で扉がすっと開いて、アユルが部屋に入って来た。気配が近付いて来る。

「起きていたのか」

 手を止めてふり返ると、アユルの手が胸元に伸びてきた。ラシュリルは驚いた顔をして、背の高いアユルの顔を仰ぐ。

「よく眠れたか?」

 そう言って、アユルが慣れた手つきでえりをきれいに合わせ始めた。
 ああ、服を着せてくださっているのだわ。そう理解するまでには少し時間が必要だった。

「初めて会ったとき、異国の服を着ているのかと思ったが……。この国の者ではなかったのだな」
「カデュラスの人に見えましたか?」

 うん、とうなずいて、アユルがラシュリルの肩に小袿こうちぎを掛ける。ラシュリルは、それに袖を通して「ありがとうございます」と礼を言った。

「向こうで話しを」
「あ、あの……」
「何だ」
「昨夜は気が回らなくて、その、お兄さまに何も言わずに……」
「ナヤタという者に申しつけておいたから心配はいらない」
「えっ?」
「こちらへ」

 寝所を出て書斎の御座おざにあがると、机の上には玉牌と茶器が置かれていた。開けられた東側の丸窓から、薄焼けの空が見える。まだ夜明け前らしい。ラシュリルは、先に座ったアユルの隣にちょこんと腰をおろした。
 アユルが、茶器に湯を注いでゆっくりと回す。しばらくすると、茶器からふわりと果実の香りが漂ってきた。

「……苺の匂いだわ」
「この甜茶てんちゃが好きというのは本当のようだな」
「どうして知っているのですか?」
「そのナヤタという者に聞いた」
「ナヤタに会ったのですか?」
「私ではなく、侍従じじゅうがな。そろそろいいころだ。飲んでみろ」

 差し出された茶器を手に取って、ラシュリルは香りを堪能した。やわらかでやさしい苺の香りに思わず笑みがこぼれる。
 ふうっと数回、湯気に息を吹きかけて、大好きな苺の甜茶を味わう。キリスヤーナの苺とは種類が違うのだろうか。ナヤタがいつも淹れてくれるそれよりも少し酸味のきいた、寝起きに飲むには丁度いい味だ。湯の中で、実が美味しそうにふやけている。

「そなたを見ていると、私の方が嬉しくなる」

 そう言いながら、アユルがラシュリルのほほにかかる前髪を指ですくって耳にかけた。

「あの……」
「あの、ではなくアユルと。私の名くらいは知っているのだろう?」
「……はい」
「言っておくが、私は悪ふざけをしているつもりもないし、こういうことに慣れているわけでもない。今も、どうやってそなたを喜ばせようかと必死だ」
「どうして、わたしを?」
「愛おしいから……」

 低い声が、少しためらいながら答える。
 ラシュリルは、茶器を置いてアユルの目を見つめた。冗談とか嘘を言っているようには見えない。
 どきどきと、心音が大きくなる。友人たちの恋の話なら、胸がいっぱいになるまで聞いた。夜更かしをして、流行の恋愛小説だって読んだ。だけど、どれもが他人事で実感のないものばかりだった。なぜなら、ラシュリルには経験がまったくない。誰かを想って心をときめかせたことも、ハウエル以外の男に手を握られたことも口付けも、もちろんその先も――。

「ラシュリル」

 沈黙するラシュリルに、互いの鼻先がつきそうな距離までアユルが近付く。アユルの真剣なまなざしは、夜の沖から静かにうねり来る波のようだった。この波にさらわれたなら、二度と戻っては来られない気がする。ラシュリルが目を閉じて、アユルがゆっくりとやわらかな唇を食む。
 ほとばしるような荒さよりも慈しむような優しさが勝る口付けは、ほのかな苺の甘さをからめて、ラシュリルの心深くにアユルを印象づける。他の誰かが、そこへ入りこまないように。

「アユル様」

 部屋の外から、男の声がした。その声に反応してラシュリルが目を開けると、名残を惜しむように唇が離れた。
 アユルが、丸窓の方に目をくれてため息をつく。空が朝焼けに赤く染まり、部屋に日が射し始めた。

「そろそろ、そなたを帰さなければ」
「もう夜が明けますね。早くしないと、ナヤタが待っているわ」
「ラシュリル」
「はい」
「私とのことはまだ秘密に。侍女にも言うな」

 口止めをされたうえに、ナヤタにも話すなと言われて、ラシュリルは悲しい気持ちになった。目に涙をためるラシュリルを、アユルが抱きしめる。

「ナヤタに隠し事をするなんて嫌です。そんなに不都合なのですか?」
「言い方が悪かった。不都合なのではなく、このことが公になれば、そなたに害がおよぶかもしれないから言っているのだ。そなたの侍女は、心から信頼できて絶対にそなたを裏切らない者か?」
「もちろんです。ナヤタとは、小さなころからずっと一緒に暮らしてきました。ナヤタに嘘をつくようなこと、わたしにはできません」
「わかった。ならば、その者には打ち明けてもよい」
「……ごめんなさい」
「難題を押しつけているのは私なのに、なぜそなたが謝る」
「あなたを疑っているわけではないのです。だけど……」
「私たちはまた会える」
「またって……。即位式が終わったら、わたしはキリスヤーナに帰るのですよ?」
「次に会うときまで、そなたの玉牌を預かる」
「あれはわたしの大切な宝物なのです」
「必ず会って返すと約束する。だから、信じていてほしい」

 アユル様、とまた男の声がする。その声に、アユルが「わかった」と返事をして席を立つ。そして、部屋の隅の衣桁いこうから黒い表着うわぎを取ってラシュリルを呼んだ。

「ここを出たら、姿を見られないように気をつけろ」

 アユルが、ラシュリルの頭から表着をかぶせる。それから、一度だけラシュリルを抱擁して部屋を出た。そこには男が一人、背筋を伸ばして座っていた。

「ラシュリル。この者は、私の侍従で名をコルダという。今からコルダがそなたを宿へ送り届ける」

 ラシュリルが会釈すると、コルダは深々と頭をさげて一礼した。

「あとは頼んだぞ、コルダ」
「かしこまりました。王女様、どうぞこちらへ」

 霧が鋳型いがたに流しこまれたろうのように重く立ちこめて、カナヤの町並みが不思議な黄赤色に染まった朝。ラシュリルは、宿の窓からダガラ城の方角を眺めた。濃霧のせいで、高くそびえる城の塀すら望めない。

「おはようございます、ラシュリルさま」

 ナヤタが意気揚々と部屋に入ってきた。彼女の両腕には、即位式に参列するためにあつらえたきらびやかな衣装が掛けられている。

「さあ、ラシュリルさま。張り切って支度を」
「ナヤタ」
「浮かない顔をして、どうかなさったのですか?」
「即位式には行かないわ」

 即位式を終えたアユルは、宰相や大臣を従えて皇極殿の廊下に立った。今日は、神と民を隔てるダガラ城の正門が解放され、無位の者の入城が許されている。中庭から石段を降りた先にある広場には、おびただしい数の民衆が新王の姿を一目見ようとつめかけていた。
 
「陛下の立派なお姿に、先王様もさぞお喜びでございましょう」

 後ろから、ラディエが満面の笑みで言った。
 運命に従って、アユルは王位に就いた。大陸を統べる神として、何もかも最高のものが与えられる。紙や筆、顔を拭く布一枚にいたるまでだ。そばに寄る人間も、選ばれた高貴な者たちばかり。しかし、それらは王の威厳を象徴するだけの空虚なものだ。今の王位に権威はともなわず、本当に望むものは手に入らない。
 アユルは空を見あげる。参列者の席にラシュリルの姿がなかった。

「嬉しそうだな、宰相。余が王になって満足か」
「満足などと、恐れ多いことでございます。我々は、心より陛下にお仕えいたす所存でございます」

 三日が過ぎた。昨日から断続的に冷たい雨が降り続いている。雨は小さな川となって、カナヤの石畳の上を流れていた。新王の即位に沸いた熱気が少しずつ落ち着き、街が日常へ戻ろうとしている。ラシュリルも明日、ハウエルと共にカナヤを離れて帰路につく。

「ラシュリルさま、お客さまでございます」

 窓辺に座っているラシュリルに近付いて、ナヤタが声をひそめる。誰かしら、と首をかしげて、ラシュリルは部屋の入口へと向かった。そこには、見覚えのある男がにこりとほほえんで立っていた。

「あなたは!」
「突然お訪ねいたしまして、申し訳ございません」

 傘を持っていないのか、頭から足までひどく濡れている。ナヤタが乾いた布を渡すと、コルダは「どうも」と会釈して手と頭、次に胴を丁寧に拭った。

「何かあったのですか?」
「はい。こちらを預かってまいりました」

 コルダが懐から折りたたまれた紙を取り出した。少し湿気を含んだ紙を受け取って、ラシュリルは紙が破れないようにゆっくりと広げた。

『心の一番深く美しい場所で、貴女を愛している』

 左端に一葉の紅葉が漉きこまれた上質の紙に、流れるような美しい文字が書かれている。宛名も差出人の名もない短い恋文。ラシュリルは手紙を抱きしめるように胸に押し当てて、コルダに深く頭をさげた。

「雨の中を大変だったでしょう。ありがとうございます」
「王女様、わたくしにそのようなお気遣いは無用にございます。それから、こちらをお渡しするようおおせつかりまして」

 手渡されたのは、青い絹糸の飾り紐がついた真っ白な玉牌だった。つるつるとした白玉に、不思議な模様が彫られている。中央に炎のように立ちあがる膨らみ。その手前に、網目模様の花弁のようなものがある。植物だろうか。

「菖蒲の花でございます」
「あやめ?」
「はい。菖蒲はあの方の紋なのです。この玉牌は、あの方が身につけるこの世に二つとない品でございます」
「そんなに大事な物をどうして……」
「約束だと言えばわかるとおっしゃっておられました」
「信じてお待ちしていますとお伝えください」
「かしこまりました。それで、あの、王女様」
「はい?」
「お会いになられますか?」

 街に出たのは久しぶりだった。
 キリスヤーナ国王一行が滞在している宿から、少し離れた小さな通りにある店屋の軒下で、アユルはコルダの帰りを待っていた。雨のせいか、辺りに人影はほとんどない。
 身を隠すために頭からかぶっている黒い衣の裾から、ぽたぽたと水滴が絶えず落ちる。じっとしていると肌寒い。まだかと待っていると、コルダが息を切らせて走って来た。

「どうだった」
「お会いにはならないそうでございます」
「……そうか。ならば、王宮へ戻ろう」
「はい」

 軒下を出て馬にまたがる。
 即位式にも来なかった。今も会わないと言った。心が、言いようのない不安でざわつく。アユルは路地を曲がり、ラシュリルの宿へ向かった。

「どこだ」
「こちらの通りに面した二階の、確か……。あちらのお部屋でございます」

 通りからコルダが指差す部屋を見るが、雨に視界を遮られてよく見えない。アユルは手綱を強く引いた。
 甲高い馬のいななきが聞こえて、ラシュリルは窓から外をうかがった。人が行き交う通りに、コルダと黒い衣をかぶった男が馬に乗ってこちらを見ている。

「アユルさま!」

 ラシュリルが窓を開けて身を乗り出すと、アユルはかぶっていた衣を肩まで下ろして顔を見せた。
 容赦ない雨が、初めて会った時を彷彿とさせる。アユルとラシュリルは、じっと視線を交わした。通りの往来が、傘の下から白馬を見あげて立ち止まる。

「アユル様、衣をおかけください。このままでは騒ぎになります」

 コルダが焦って声をかける。
 アユルは衣をかぶり、ゆっくりとラシュリルから視線を外して馬の腹を軽く蹴った。たっぷりと雨水を含んだ黒い衣の裾が重たくひるがえり、二人の姿が通りの向こうに消えて行く。

「アユルさま!」

 ラシュリルの声は、雨音にかき消された。雨が激しく石畳を叩きつけて跳ね上がる。ラシュリルはその場に座りこんだ。そして、二人が消えて行った通りをいつまでも見ていた。

「よろしかったのでございますか?」
「ラシュリルが会うと言っていたなら、私は大変な過ちを犯していただろうな」
「迷っておられました」
「そうか。ラシュリルに感謝しなくては」

 王宮の裏門でコルダに馬を預けて、アユルはひとり清殿へ向かった。
 途中、華栄殿の前で立ち止まる。華栄殿は、王宮の御殿の中で最も清殿に近い場所に建つ王妃の居所だ。間もなく華栄殿は主を迎える。アユルが望む者ではなく、王にふさわしい高貴な血筋の女を――。
 王妃や妃に限ったことではない。崇高な神の血に異民族の血が混ざらないよう、王に仕えるのはカデュラスの正統な良家の女人と定められている。長い歴史の中で、一度たりとも異国の女人が王宮に住んだことはない。

***

 キリスヤーナ国王一行が帰国の日を迎えた。
 ラシュリルはさっさと身支度を済ませて、忙しく荷造りするナヤタを手伝っていた。

「我が妹君。準備はできたかな?」

 ハウエルが様子を見にやって来た。ハウエルは右往左往するナヤタを見て「まだのようだね」と笑った。
 出立の準備が整った。ラシュリルはナヤタと馬車に乗りこむ。会うかと聞かれたとき、本当は会いたかった。けれど、別れがもっとつらくなりそうで会えなかった。

「そろそろ出発いたします」

 御者が、帽子を脱いでラシュリルに会釈した。車輪がごとっときしんで石畳の上を回り始める。

 ――さようなら。

 馬車は通りを曲がって、ダガラ城の正門から真っすぐに伸びている大通りを進んだ。王都を抜けると、長閑な田園の中を道が続いていた。この先に、二十日を越える道のりが待っている。

***

「王女様はもう発たれたでしょうか」
「そうだな」
「随分と落ち着いていらっしゃいますね。もう会えないかもしれませんのに」

 アユルは書物を閉じて、脇息にひじをついた。コルダの語気が少し強いのは、主人を思いはかってのことだ。この男の言うことに、嫌味など一切ない。

「そばに置きたい」
「でしたら、そうなさればよろしいではございませんか!」
「今はだめだ」
「なぜです。アユル様がお望みになれば」
「今の私が望めば、いずれラシュリルをこの手で殺さなければならなくなる。この王統に、異民族の血を混ぜてはならない。私はそれを心得ておきながら、ラシュリルを抱いたのだ」

 屋根から、雨のしずくが玉砂利に落ちる。
 清々しい滴下の音に耳をかたむけながら、アユルは涼しい顔で再び書物を読み始める。
 城下にあるエフタルの屋敷では、輿入れの準備が始まっていた。王妃に選ばれた桂花の姫の部屋には、所狭しときらびやかな着物や装飾品が並び、使用人たちが品々を念入りに磨いている。

「準備は進んでおるか、タナシア」
「はい。父上」

 エフタルの声にタナシアが振り向く。その手に、届いたばかりの書簡が握られている。美しい手蹟しゅせきで、婚儀の日を心待ちにしているとつづられた書簡には、朱色の王印が押され、菖蒲の押し花が添えられていた。