第08話 侍従


 廊下から夜空を見あげて、コルダは思わず笑みをこぼした。少し目尻のさがった優しげな顔が、さらにくしゃりとほころぶ。

「王女に仕える者から、王女の好きな飲み物を聞いて用意しろ」

 そう言った主人の声を思い出すと嬉しくなる。いつになく意気揚々として、白磁のような白肌がうっすらと淡い紅色に染まっていた。コルダが、あんなアユルを見たのは初めてだった。

 コルダ・ルオ・カデュラは、先王の第二王子としてこの王宮で産声をあげた。二十二年前のことだ。彼の母親は高位の文官の娘で、名をアイルタユナといった。清殿付きの女官だったアイルタユナは、マハールに見初められてコルダを産み、貴妃の位と清寧殿せいねいでんという御殿を与えられた。
 三つも半ばになったアユルは、弟の誕生をとても喜んで、毎日のように清寧殿へ通った。

「王子さまがお越しになると、コルダはよく笑います。王子さまのことが大好きなのでしょう」

 アイルタユナは、可愛らしい客人を歓迎した。アユルの目の高さにかがんでほほえみ、やさしく頭をなでる。アユルは、母の手より貴妃の手の方が好きだった。やわらかくてあたたかくて、花のようにいい香りがするからだ。

 コルダが五つの誕生日を迎えた日、王妃が貴妃と第二王子を華栄殿かえいでんに招いて祝いの宴を開いた。王妃は「ささやかな」と言ったが、宴には王が臨席し、数多あまたの妃たちまで同席していた。
 上席で、マハールの横に第一王子のアユルが座っている。アユルはコルダの隣がいいと言ったが、王妃はそれを許さなかった。

「やはり、王妃さまには敵わないわね」

 妃の群れで、誰かがそう言った。四家のティムル家から嫁いだ王妃と、一貴族の娘であるアイルタユナとでは血の尊さが違う。だから同じ王の子でありながら、アユルとコルダも暗黙のうちに差別される。

 大人の事情はどうあれ、兄弟はとても仲がいい。宴が始まって一時もたたないうちに、アユルは席を立って、貴妃の隣で姿勢よく正座をしている弟の横に陣取った。

「兄上様」
「コルダ、足が痛いのか?」

 アユルは、弟の足がもぞもぞと動いているのに気付いた。王と王妃の手前、行儀よくしていなければと我慢しているのだろう。

「私と同じようにしてみろ」
「でも」
「いいから」

 アユルが胡坐あぐらをかいて見せる。コルダはアイルタユナの顔を見て、困惑しながらうかがいを立てた。

「いいのよ、コルダ。王子さまがいいとおっしゃってくださっているのですから」

 母のやさしいほほえみに、コルダは兄と同じように足を崩して胡坐をかく。そして、しびれた足を揉みながら「助かりました」とアユルに礼を言った。

「王位を継ぐ第一王子とご自分を同等だとでも思っておられるのか」

 どこからか嫌味な女人の声が聞こえたが、アユルは「言わせておけばよいのだ」とコルダの膳から果物を一つ指でつまんで頬張ほおばった。

「美味い。コルダも食べてみろ」
「はい、兄上様」

 息子たちを見て、よきことだとマハールが王妃に言う。兄弟がいなかったマハールの目に、アユルとコルダの様子はほほえましく映っていたのだが、王妃は口元を扇で隠して「ええ」とだけ答え、美しい顔をしかめてしまった。

 マハールは、二つ年上の王妃を特別に扱った。稀代の美姫と評判だった王妃は、婚儀から十余年をへた今でも色褪いろあせることなく美しい。それどころか、年を重ねるにつれて、王妃の美しさは女の色香をはらんでますます輝きを増している。
 ティムル家の高貴な血と後ろ盾を持つ第一王子の母。王宮は、非の打ちどころのない王妃に支配されていた。

「コルダには神の御印みしるしがいつになってもあらわれぬ。アユルには、生まれたときからあらわれていたというのに。やはり血の尊さが違うのだな」

 華栄殿を退出する間際、マハールが王子たちの前で足を止めて、ひとり言のようにそう言った。興ざめしたような目でコルダを見て、次に口元をゆるめてアユルに手招きする。
 コルダは、父の言葉を即座に理解できずにアユルに問いかけた。

「兄上様、かみのみしるしとは何でございますか?」
「神の力を操るときにあらわれるものだ」
「かみのちからとは、何でございますか?」
「コルダは、知らなくてもいい」

 マハールの一歩後ろから、王妃がアユルを呼ぶ。アユルは席を立って素直に母のもとへ行き、両親と共に華栄殿を出て行った。あのときのアユルの曇った表情を、コルダは鮮明に覚えている。自分だけが、別の世界に取り残されたような気分だった。

 その日を境に、貴妃と第二王子の日々は少しずつ壊れていく。
 アイルタユナは、マハールがコルダに向けた視線を恐れた。冷たくさげすむような視線だった。ある日の夕時、女官にコルダを預けて、アイルタユナは清殿に使いを出した。王の御心をつなぎとめておかなければ、息子を王宮で守り抜けない。

 マハールは、すぐにアイルタユナのもとにやって来た。背筋をぞくりと寒気が走る。それでも、耐えなければ。アイルタユナは王に駆け寄って、会いたくてたまらなかったと全身で貴妃を演じる。

 マハールは、アイルタユナの愛くるしい顔立ちと、未熟さを感じさせる小柄な体を気に入っていた。敷布を握りしめて、目を潤ませるアイルタユナの肉体と精神を追いつめるように犯す。アイルタユナに対してだけではない。マハールは王妃以外の女人を抱くとき、いつもそうだった。逆らえない女人を加虐し征服することで、自分を満たすのだ。情事のあと、夜着をまといながらマハールが冗談めかして言った。

「貴妃よ、コルダはまことに余の血を引いておるのか?」
「陛下……」
「母が違うとはいえ、兄弟でかくも違うものかと思ってな」

 幾年たとうとも、コルダに神の御印があらわれることはなかった。王統から神の力が失われて久しい。アユルが特別なのであってコルダは普通なのだと、はじめはマハールも本気で疑ってはいなかった。だが、アユルが神の直系たる風格を漂わせていくのに対して、コルダにはまるでそういったものがない。歴然とする王子の差異に、マハールは次第にコルダを遠ざけるようになった。そしてコルダが十二歳のとき、とうとうアイルタユナが告白する。

「陛下、わたしは不義をはたらきました」
「何だと?」
「コルダは、陛下の御子ではございません」

 妃として王に仕えながら、アイルタユナはマハール以外の男に肌を許し、あろうことか子まで成していた。前代未聞だ。王としての沽券こけんを潰されたマハールは怒り狂う。マハールはアイルタユナを拘束して拷問にかけ、相手の素性を聞き出そうと躍起やっきになった。しかし、アイルタユナが頑として口を閉ざすと、すぐにアイルタユナとその一族の処刑を命じたのである。

「父上様、どうかお願いでございます。母上の命をお助けください」
「父だと? 穢れた身で、余を父と呼ぶなど許さぬ。神への冒涜ぼうとくぞ!」

 王の怒りは、コルダにも容赦なく向けられる。マハールは、皇極殿の床にひたいを擦りつけながら懇願するコルダに声を荒げ、扇を投げつけた。激高するマハールの隣で、アユルは静かにコルダを見ていた。

「忌々しい。こやつも殺せ」

 マハールは一言を残し、荒い足音を立てて皇極殿を出て行った。マハールの怒りは当然だ。罪を免れるはずがない。頭ではわかっている。だが、コルダは何としても母を助けたかった。

「コルダ、貴妃様のことは諦めろ。お前が何かを言えば言うほど、父上の怒りが増すだけだ」
「ですが兄上様。わたくしは母上を助けたいのです」
「わかっている。だが、貴妃様の罪は重すぎる」
「わたくしが神の御印なるものを示せば、母は助かるのでしょうか。でしたら兄上様、わたくしにそれを授けてくださいませ。お持ちなのでございましょう? 神の御印を!」
「愚かな。よいか、御印は単に国王の直系を証明するなどと軽々しいものではないのだぞ。お前は何も言わずに待っていろ」

 アユルが去った皇極殿で、コルダはひとり声をあげて泣いた。現実を受け止めきれない。涙が止めどなく頬を伝い、声をあげる度に心が痛んでひび割れて粉々に砕けてしまいそうだった。

 数日後、貴妃の身分を剥奪されて罪人に身を落としたアイルタユナは投獄され、一族もすべてとらえられた。そして、コルダはアイルタユナの御殿に幽閉されることになった。

 日に二度、女官が持って来る食事にほとんど箸をつけない日々が続き、コルダは心身ともに衰弱していく。窓は閉めきられ、時間の経過も天候も何もわからない。ただ、まだ自分は生きている。それだけが、コルダの知り得る情報だった。

「コルダに会う。開けろ」

 雨がしとしとと降る日の昼前。アユルは密かにアイルタユナの御殿を訪れて、扉の前でひとり見張りをしている若い女官に声をかけた。女官は王の許可なしには開けられないと言ったが、アユルが唇を耳元に寄せて一言だけささやくと、瞬時迷った末にすんなりと扉を開けた。

「あ、にうえ、さま……」

 アユルに気付いたコルダは、目を見開いた。随分と痩せたコルダの体を支えて、アユルは自分の表着うわぎをかけてやる。

「ついて来い。貴妃様の所へ行く」
「母上の所へ? マハール様がお許しになられたのですか?」
「父上には言っていない。とがめられたなら、私が父上に謝ればよいだけのこと」
「それでは兄上様が」
「早くしろ」

 雨の中を、二人は庭の雑木林を駆けて牢へ向かった。
 牢はじめじめとしてかび臭かった。アユルが牢の格子越しに呼びかけると、アイルタユナが虚ろな目を二人へ向けた。やさしげな面立ちは、すっかりやつれて死人のように生気を失ってしまっている。

「母上!」

 コルダが格子にしがみつく。アイルタユナは牢の奥から動かず、居住まいを正してアユルに深く頭をさげた。

「王子さま、すべてはわたしの罪なのでございます。コルダに罪はございません。どうか、どうかお願いでございます。この子をお助けくださいませ」
「コルダが助かる道は一つだ。どのような手段でも構わないか?」
「助けていただけるのでしたら」
「わかった、必ずコルダを助ける。ところで、コルダの父親は誰だ。どのようにして会っていた? 父上の妃であれば、そう易々と外に出るなど叶わないはず。何かの事情で、不義をはたらいたなどと偽りを申されたのではないのか?」
「王子さま。このことは、わたしの胸に秘めておきたいのです」

 王宮に仕え、王の寵愛を得る。女人なら誰もが夢見てうらやむというが、アユルは王宮で幸せそうな女人を見たことがない。アイルタユナも、王宮に閉じ込められた憐れな女人の一人なのだ。

「その身にすべての罪を背負うのだな」
「はい、申し訳ございません」
「貴妃様、こちらへ」

 アユルが格子の近くにかがむと、アイルタユナはゆっくりと立ち上がって二人に近付いた。アイルタユナの手を、アユルが格子越しに握る。アイルタユナの顔にあざがあり、骨が折れた数本の手指に布が巻かれている。ひどい拷問を受けたのだろう。あまりにも痛々しい母の姿に、コルダは目を背けてしまった。

「お、王子さま。とても汚い手でございます。お放しくださいませ」
「貴妃様は、いつもこの手で私の頭をなでてくださった」
「……王子、さま」
「いつのことだったか、時がたち過ぎて思い出せないな」

 アイルタユナはふふっとやわらかく笑んで、もうお忘れくださいませと言った。アユルはうつむいて、コルダの手を引っ張った。そして、アイルタユナとコルダの手を重ねて立ち上がった。アイルタユナとコルダは、長い間お互いを見つめ合って涙していた。牢番がアユルに近付いて耳打ちする。アイルタユナは事情を察してコルダの手を離した。

「ありがとうございます、王子さま。この子の顔を見たら、心が軽くなりました」
「そうか。コルダのことは心配いらない」
「どれほど感謝申し上げても足りません。ご恩に報いること叶いませんけれど、お許しくださいませね」
「よい。私は、貴妃様の最期さいごの道行きがおだやかであるよう心から祈っている」

 最期のとき、アイルタユナと一族の者たちは、後ろ手に縛られて皇極殿下の広場に並んで座っていた。周りを文官武官が取り囲んで、マハールが見世物を愉しむように皇極殿の廊下から見おろしている。

 刑の執行を知らせる太鼓の音が響き、武官がなたの刃に酒をかける。そして、武官はアイルタユナの父親の後ろに立ち、両手で鉈のつかを握った。振り上げられた鉈が、閃光を描く。最期の言葉を残すことは許されなかった。

 ごめんなさい、父上さま。アイルタユナはそう何度も小さな声で繰り返す。武官は次々に親族の首をはね、いよいよアイルタユナの番となった。

 ――あの子が、天寿をまっとうできますように。

 武官が力をこめて鉈を振りおろす。一瞬だった。その様子を、マハールは無表情で見ていた。すべてが終わると、マハールはアユルを近くに呼んだ。

「アユルよ。その不義の子をどうするつもりだ」
「父上、コルダを私にください」
「何だと?」
「私はコルダと共に育ちました。あの者の他に、私が心を開ける相手はこの世におりません」
「つまり、王宮に仕えさせるというのか。いつかあれが同じ間違いを犯しでもすればそなたも笑いものぞ」
「間違いが起きないよう、宦官といたしますので」

 宦官と聞いたマハールは、大きな口を開けてわははと馬鹿笑いした。宦官になれば子を成すことは叶わず、忌々しい血はいずれ滅びる。

「余はそなたを信じておる。よかろう、許す」
「ありがとうございます、父上」

 アユルがマハールに深く頭をさげる。アユルが誰かに頭をさげたのは、後にも先にもこのときだけだった。貴妃の密通事件が片付いて、コルダはカデュラ家の系譜から名を削られ、一介の侍従じじゅうとなった。
 王妃だけが、不義の子を王宮にとどめるなど許さぬと騒いだが、アユルはそれを一切聞き入れなかった。

 コルダは、アユルが目覚める前から就寝した後まで必死に勤めた。ときにはマハールと顔を合わせることもあった。だが、マハールがコルダに目を向けることはない。まるで貴妃と第二王子などはじめからこの世にいなかったように、王宮では王と女人たちの日常が繰り返される。
 ある日、夜の膳をさげようとしたコルダをアユルが呼び止めた。

「いかがされましたか、アユル様」
「つらくはないか」
「いいえ。生き永らえたうえに、アユル様のおそばに置いていただき、わたくしは果報者でございます」
「ならばよい。貴妃様の願いは、お前が生き抜くことだ。私は何があってもお前を守る」
「なぜアユル様はそのようにわたくしに情けをおかけになるのです。なぜいつまでも大罪人の母を貴妃様とお呼びになるのです。なぜ不義の子を助け、尊名を呼ぶことをお許しになられたのです」
「待て待て、そう一度に聞くな」
「……もっ、……うっ、申し訳っ……」

 コルダは嗚咽おえつして泣いた。涙を拭う手は水仕事で荒れて、所々が裂けてしまっている。アユルが傷薬を出して、コルダの手に塗りながら言った。

「ここは残酷な所だな、コルダ」

 どこからか秋虫の鳴き音が聞こえる。コルダは、空を見あげたまま胸に手を当てた。昔のことを思い出して感傷にひたるとは。あの夜と同じ月のせいだ。
 さて、とコルダは歩き出した。向かう先はもちろん清殿だ。アユルに呼ばれたときすぐに駆けつけられるよう、コルダは今宵も浅い眠りで朝を迎えるのだろう。