第09話 婚儀


 もしや、王子は女人に興味を持たない性質たちなのではないか。十年ほど前から、そんな噂がまことしやかにささやかれている。しかし所詮、噂は噂でしかなかった。今日、朝議に集った高官たちの顔には、安堵の表情が浮かんでいる。

「いよいよ、八日後でございますね。陛下」

 ラディエが、高座たかくらのアユルにおだやかな顔を向けた。
 涼やかな表情で座する青年が、遠くを見るように皇極殿に並んだ武官文官を眺めて、ほうっとため息をつく。無理もない。即位したての身で婚儀を控えているのだ。ラディエは、自身が妻を迎えたときのことを懐かしんでにこやかに目尻をさげる。

 しかし、アユルの耳にラディエの声は届いておらず、頭の中はまったく別のことでいっぱいだった。あれからひと月がたつ。無事にキリスヤーナに着いただろうか。今ごろ何をしているだろうか。そんなことを考えては、ため息が出てしまうのだ。

「陛下」

 いつまでも言葉を返してもらえず、しびれを切らしたラディエがアユルを呼ぶ。三度目に陛下と呼ばれたとき、アユルは平然とした顔で「何だ」と返事をした。

「間もなく、陛下の婚儀でございます」

 ラディエが深く頭をさげる。続いて文官武官が一斉にひれ伏すのを見届け、アユルは扇を広げて大きなあくびをした。

 王宮では、王妃を迎える準備が着々と進められている。せっかく減らした女官の数が元に戻されて、静かな日々は呆気なく終わってしまった。ただ、清殿に女官を置かないという王のだけは許された。

 星を読む天文学の師が選んだ吉日。
 皇極殿には祝い事に使われる色とりどりの布が掛けられ、いつもの堅苦しさが嘘のように華やかな装飾がされていた。中でも、ひと際目を引いたのは、殿内に飾られた丸い薬玉だった。王宮の庭に咲く紅白の生花を使って随一の名工が仕立てたもので、手のこんだ細工と色彩の華やかさが皇極殿の金色によく映えている。

 祝宴の最中、タナシアは何度か隣を見てアユルの顔をうかがった。
 先立って届けられた書簡には、婚儀の日を心待ちにしていると書かれていた。けれど、横顔からはとてもそのような様子は見てとれない。婚儀が始まってから、王はこちらを一度も見ないまま、にこりともせず澄ました顔で座っているのだ。
 祝いの膳に並ぶ豪華な料理に目を向けて、思わず小さなため息をつく。すると、隣から男物の扇を差し出された。

「陛下、こちらは?」
「広げて扇いでみろ」

 言われた通りにすると、菖蒲あやめが描かれた扇からほのかに花の香りがする。

「何の香りかわかるか?」
「はい。桂花でございます」
「その通り。余は、この香りが好きだ」
「なぜ……」
「なぜ? 王妃の花だからだ」
「わたくしのしるしを覚えていてくださったのですか?」
「もちろん」

 アユルがふっと軽く笑ってみせると、タナシアのほほがうっすらと紅く染まった。

「嬉しい」

 ひとり言のようなつぶやきのあと、こわばっていたタナシアの顔がほほえみに変わる。
 タナシアは、扇に描かれた菖蒲に指先を伸ばした。書簡にも押し花が添えられていた。菖蒲は、先王が王子の高貴な相に見合う紋として定めた花だ。菖蒲を摘もうものなら、不敬を問われて投獄される。この花を押し花などにできるのは、この世でただ一人しかいない。

「このようにお心遣いいただいて、心より感謝申しあげます。陛下」
「喜んでもらえたのならよかった。それは王妃にやる」
「よろしいのですか?」
「よい」

 ふたりのやり取りを見ていたラディエが、隣のエフタルをひじで小突く。長いこと心配してきたが、ときが来れば何事も収まるところに収まるものだ。

「お二人を見ろ、エフタル。我らの苦労が今日、報われた」
「まことに。あとはお世継ぎに恵まれれば、万事安泰ですな」
「あの様子では、そう遠くはないだろうな」

 酒がすすんだころ、初老の女官がそっとタナシアに近付いて「夜の準備がございますので」と中座を促した。

「陛下。わたくしは先に失礼いたします」
「また後ほどな」
「……は、はい。お待ち申しあげております」

 祝宴は、王の初夜に配慮して早々におひらきとなった。
 呑み過ぎてしまった……。アユルは、清殿のきざはしの上段に腰をおろした。秋が深まったころの夜風は、酔いがまわって火照る体に心地いい。
 そこへ、コルダが通りかかった。手に持った桐箱には、王妃との初夜のために新調された真っ白な夜着が入っている。

「アユル様、このような所で何を……。冷えてまいりましたので清殿へお入りください。風邪などお召になっては大変です」
「少し気分が悪くてな。酔いをさましているところだ」
「珍しいですね、アユル様が酔われるなんて。白湯をお持ちいたしましょうか」
「いい」

 コルダは、桐箱から表着うわぎを取ってアユルの肩に掛けた。王女様を想いながら、どのように今夜をやり過ごすのだろう。悪酔いするほど呑んだ心中を察して、黙ってアユルの背中をさする。

「……コルダ」
「何でございましょう」
「華栄殿に桂花の香木を届けて、寝所に焚くよう申しつけろ。それから、菊花茶を用意しておくようにと」
「お香と菊花茶でございますね。かしこまりました。すぐに行ってまいります」

 王妃には、数千の女がひしめく王宮を治めてもらう必要がある。だが、アフラム家という強力な後ろ盾を持つ王妃に、我が物顔で好き勝手をされても困る。あくまで王のもとに、治めてもらわなくては――。

 コルダが華栄殿から戻って来るまで、そう時間はかからなかった。身支度を済ませたアユルは、脇息にもたれかかって、ラシュリルの玉牌に彫られた桂花の花弁を指でなぞった。

 清殿と華栄殿をつなぐ廊下の両端には、女官たちが並んで王が王妃のもとへ渡るときを待っている。王妃がどんな女でも、心が揺らぐことはない。

「アユル様、酔いはさめましたか?」
「問題ない。華栄殿に先触れを」
「はい」

 アユルは、なだらかな弧を描いて華栄殿へ伸びる廊下に立った。見慣れた庭が、果てしなく深い闇の色を波立たせている。生まれてから一度も海というものを見たことがない。これこそ、前に読んだ書物の中にあった海ではないかと想像する。波にのまれたら、あとはもう、必死にもがくしかない。

 ――この体は、ただの道具だ。

 先触れから戻ったコルダが、手燭で足元を照らす。アユルは漁火いさりびに誘われる魚にでもなったかのように、明かりのあとをついて行った。

「陛下がお越しにございます」

 女官の声に、タナシアはひたいが床につくほど頭をさげた。
 先触れがあってから、心臓がばくばくと壊れそうなくらい早鐘を打っている。
 王が静かに入って来た。お声がかかるまで顔をあげてはなりません。女官に教わった王宮の掟を思い出して、ひれ伏したまま声を待つ。けれど、王は何も言わずに前を通り過ぎて、女官が設えた円卓の席についてしまった。

 王妃、と呼ばれたのは、しばらくたってからだった。
 タナシアは、アユルの人柄をつかめずにいた。初めて会った日は王妃に選んで素っ気なく皇極殿を出て行き、婚儀の日を心待ちにしていると書簡を贈っておきながら婚儀では一度もこちらを見ようともしなかった。でも、扇を手渡したときの顔は、とても優しかった。

「どうした」

 アユルは、青磁の茶器に湯を注いだ。黄色の小菊が、茶器の中でぷかりぷかりと浮かんで揺れる。さじで数回、湯をかき混ぜて、警戒させないようにやわらかな表情でタナシアに飲めとすすめた。

「恐れ入ります」

 タナシアは素直に菊花茶をのどに流しこんだ。顔に笑顔を貼りつけたまま、アユルはタナシアの白い喉がごくっと上下に動くのを観察する。王宮で煎じられる菊花茶は、市中のものとは違う。母親はよく、これを妃たちに飲ませていた。

 アナシアが菊花茶を飲み干すと、アユルは席を立って寝所に向かった。そして、しとねの上に胡坐あぐらをかいた。枕元の小さな台に置かれた一基の香炉から、白い煙がゆらゆらと立ちのぼっている。ラシュリルから香る匂いよりも強い香り。あの夜の記憶を細部まで再生するためには、これが必要だった。

 タナシアが、おどおどとした様子でそばに座る。アユルは、タナシアの細い腕をつかんで引き寄せた。
 今から行われるのは、想い合う男女の睦事ではなく、国事であり願いを叶えるための布石に過ぎない。桂花の香りで自分をだまし、少しも情の湧かない女を抱く。王妃とは、手懐けてこそ価値のある女なのだ。

 しゅるっと腰紐が解け、タナシアがきつく目を閉じる。アユルは、タナシアの紅潮した顔を乱れた黒髪で覆った。黒髪の隙間に見える曲線的なあごの輪郭に柔らかそうな唇。記憶になぞらえて、アユルはタナシアに愛しい面影を重ねる。寝所には、濃い桂花の香が充満していた。

「……あ、っ」

 何かに操られるかのように、タナシアの夜着を剥ぎ取って、荒い手つきで乳房を揉みしだく。そして、閉じた両足の間に手を伸ばした。

「……へい、かっ」

 手で口元を抑えて、タナシアが小さく叫ぶ。
 秘所を二本の指で中を掻き回し、アユルは性急に屹立した自身をねじこむ。初めて男を受け入れたそこは、一擦過するたびにぎりぎりとまとわりついた。中がうねるようにうごめき始めると、アユルはタナシアの体をうつ伏せにして後ろから激しく突きあげた。
 タナシアが、短い悲鳴のような高い声をあげながら中を締めつける。アユルは素早く自身を引き抜いて、タナシアの背に精を放った。

 高貴な家で大切に守られたきた珠玉の肌に、玉の汗が浮かんでいる。王妃は、このために育てられたのだ。エフタルの思惑通りに王の寵を得て、次の王を血で支配するために。

 ――王統は、エフタルのものにはならぬ。

 アユルは、脱ぎ捨てた夜着でタナシアの背中をぬぐった。そして、うつ伏せのまま荒い息を繰り返すタナシアに覆いかぶさり、耳元で「明日もまた」と低くささやく。王の婚儀は、三夜共寝しなくてはならない。

 翌日、アユルはタナシアと華栄殿で過ごした。昼下がり、アユルはコルダを連れて庭の散策に出かけた。庭の木々は、色褪せて落葉を始めている。
 ふたりが清殿の前にさしかかったとき、さわさわと雨が降りだした。

「アユル様、戻りましょう。雨に濡れては、体が冷えてしまいます」
「そうだな」

 ふと足元に目をやると、玉砂利が雨に濡れて所々が深い黒に変色している。同じ黒なのに、濃淡の差で印象も趣もまったく違う。王妃を初めて見たとき、どことなくラシュリルと似ていると思った。だが、完全に非なるものなのだ。
 雨は次第に強まった。造形的に剪定された木葉の螺旋を、雨粒が滑走する。その場を動こうとしないアユルに、コルダが近付いた。

「いかがなさいました?」
「今宵も、桂花の香木と菊花茶を用意しろ」
「かしこまりました」

 道を引き返していると、華栄殿の方から傘をさしたタナシアが歩いて来た。

「私は王妃と共に華栄殿へ戻る。お前は書斎から書物を持って来い」
「はい、アユル様」

 アユルは掟に従い、三夜タナシアと床を共にした。王と王妃の仲睦まじい様子が皇極殿に伝えられ、臣下たちは王子誕生も遠くはないと喜んだ。

「エフタル様。よき王妃様をお迎えして、陛下も至福でございましょう」

 一人の文官がエフタルに近付き、袖で口元を隠してにたりと笑う。王の祖父になる日が、現実味を帯びる。ゆくゆくは、宰相の地位を得られるだろう。エフタルは、びる文官に見下すような視線を投げかけた。我が身はお前たちとは違うのだ、というように。

 婚儀から四日目の夜が明けた。華栄殿では、王の身支度が始まっていた。
 コルダが侍従になってから、一度も女官を近付けなかった。今も清殿に女官を置いていない。そのアユルが、初夜の翌日から華栄殿の女官にかいがいしく世話をされている。
 女官が夜着を取り除くと、傷一つない均整のとれたたくましい体があらわになった。女官たちは、玉体を直視しないように顔を伏せてアユルに衣を着せる。

「王妃」

 感情のない冷ややかな声に、びくりと女官たちの手が止まる。場の空気が一気に張りつめて、黙って座っていたタナシアの顔がこわばった。

「……は、はい、陛下」
「余に女官を近付けるな」
「何かお気に障りましたか?」
「王妃、これは願いではなく王命だ。はいと一言で従え」
「申し訳ございません、陛下。わたくしがいたします」
「よい。コルダを呼べ」

 アユルは女官に出ていくように命じて、悲しそうに眉尻をさげるタナシアの前に片膝をついた。

「今後、余に触れる女官がいたならば、迷わず手をつける」
「……陛下」
「意味がわかるか?」

 アユルが挑発的に笑う。コルダが息を切らして駆けつけると、王妃が真っ赤な顔をしてアユルを見上げていた。