第10話 恋心と思惑


「まぁ、ラシュリル。あなたがそんなことを聞くなんて初めてね」

 兄の妃を自室に呼びつけて、お兄さまに触れられるとどんな気持ちになるの? だなんて、あまりにも遠慮のない質問だっただろうか。
 目を丸くしたマリージェの向かいで、ラシュリルは顔を真っ赤にした。
 マリージェは、キリスヤーナ屈指の名家の令嬢で、幼少のころからカリノス宮殿に出入りしていた。ハウエルの片想いが始まりだった。運命の人だと言って、ハウエルがマリージェを追いかけまわして妃に迎えるまでの一部始終は、今でも貴族たちの語りぐさになっている。ハウエルの純粋で一途な気持ちは、やがてマリージェの心を動かして、ふたりは誰もが憧れる仲睦まじい夫婦になった。

「ごめんなさい、不躾なことを聞いて。お義姉ねえさまなら、笑ったり茶化したりしないで真剣に答えてくれると思ったの」
「嬉しいわ。わたくしを信頼してくれてることも、そういうことに興味を持ってくれたことも」
「そっ、そういうことって言うほどのことではなくて、少し……、気になっただけよ」

 ラシュリルの顔が、ますます赤くなる。マリージェは、にこやかに笑って窓の外に目を向けた。三階にあるラシュリルの部屋からは、遠くの海が一望できる。空に広がる灰色の重たい雲と遠洋から迫りくる流氷。キリスヤーナは極寒の季節を迎えようとしていた。

「そうねぇ。ひと言では言いつくせないのだけれど、とても心が安らぐわ」
「どきどきするのではなくて?」
「もちろん、どきどきもするわよ。けれどね、安心の方が強いの。わたくしの良いところと悪いところ、すべてを愛してくださっているのが伝わってくるから」
「……そう」
「他の人ではそうはならないわ」

 透きとおる青い硝子のような瞳が、まるでハウエルがそこにいるかのように空を見つめている。ラシュリルは、マリージェの横顔にどきっとして見惚れてしまった。

「お義姉さまは、いつからお兄さまのことを好きになったの?」
「いつだったかしら。初めはハウエルさまのお気持ちに戸惑って、素っ気ない言葉を言ってしまったこともあったのよ。けれど、お会いするのが楽しみになって、もっとお話しをしたいと思うようになって、気がついたらハウエルさまのことしか考えられなくなってしまったの。魔法をかけられたみたいにね。おかしな話でしょう?」
「おかしくなんてないわ。お兄さまもお義姉さまも、とても幸せそうだもの」
「ええ、幸せよ。あなたもそういう方と……。運命の人と出会えるといいわね」
「……運命の人」
「そうだわ、ラシュリル。あなたが大好きな苺の果実茶を取り寄せたの」

 マリージェが、侍女を呼んでお茶を用意する。キリスヤーナ国王妃の侍女は優秀だ。主人が「あれを」と言っただけで、焼き菓子や飴を手際よくテーブルに並べる。それも、ラシュリルの好物ばかりを。

「どうぞ、召しあがれ」
「ありがとう、お義姉さま。わたし、幸せよ」
「まあ。あなたは、まだまだ恋よりもお菓子ね」

 マリージェが上品に声を立てて笑う。
 いい香り、と言ってラシュリルは果実茶に口をつけた。ティーカップの中に浮かんでいるのは、夏の間に収穫された糖度が高い古い種の苺だ。角砂糖を一顆落とした果実茶は、舌がとろけてしまいそうなほど甘い。
 人肌に温まったティーカップを口元に押し当てて目を閉じれば、重ねた唇の感触がよみがえる。苺の香りよりももっと甘美な、やさしい口付け。ひと月以上たったのに、昨日のことのように思える。

 ――会いたい。

 とても美味しいと無邪気に笑うラシュリルに、マリージェが「喜んでもらえて光栄よ」とあたたかな眼差しを向けた。

 ***

 婚儀の三日間、カデュラス国王が王宮を出ることはない。その代わりに、宰相から届いた朝議の議事録に目を通して、王印を押さなくてはならなかった。アユルは華栄殿から戻って、食事をする暇もなく三日分の議事録を黙々と読んでいた。

「アユル様、朝議の時間が迫っております。支度をいたしましょう」

 コルダが、熱い玉露を淹れて文机の脇に置く。それを飲んで、アユルは凝りをほぐすように大きく首を回した。

「今日からまた、狸たちと顔を合わせなければならないのか」
「またそのような言葉を……。なりませんよ、アユル様は尊い身であらせられるのですから」
「わかったわかった。コルダ様のおおせに従うから、衣をすべて新しいものに替えてくれ。華栄殿の女官が用意したものなど身につけたくない」
「かしこまりました。では、先にお顔を」

 アユルが仰向けに横たわって目をつむる。コルダは、桶の湯で温めた布でアユルの顔を丁寧に拭いて、薄く無精ひげが見えるあごに剃刀を当てた。
 陶器のようになめらかな白肌に母親の美しさを受け継いだ貌。アユルの秀麗な姿は、幼いときから王宮に暮らす女人たちを魅了してきた。青年期にさしかかったアユルのあどけない美しさが男らしさに変化すると、女人たちの関心は次第にマハールからアユルに移っていった。寝所に忍びこんで、血のように真っ赤な紅を塗った口で慕っていると囁いて、恥じらいもなく衣を脱ぐ。多感な時期に、蜜に群がる虫のような女人たちに夜ごと体を貪られて、アユルは無邪気さと快活さを失った。
 静かに暮らしたい。コルダが侍従になったとき、アユルはそう言って女官を遠ざけた。

「終わりました」

 顔の手入れを終えて、コルダが声をかける。そして、アユルが立ちあがると手際よく着物を脱がせて新しい衣を着せた。

「今夜はどちらで過ごされますか?」
「私は、掟に従って王妃と三夜共寝した。もう華栄殿に渡る必要はない」
「ですが、アユル様……」

 コルダは、アユルの冷たい視線に言葉を飲みこんだ。遠くで、朝議の時刻を知らせる太鼓が鳴る。

「どうやら、私は父上のようにはなれないようだな。情のわかない者に触れるなど、耐えられない」
「アユル様。わたくしは、命を捧げる覚悟でお仕えいたしております」
「知っている」
「アユル様が望まれる道を歩まれるとき、わたくしをお使いください。必ず、ご恩に報います」
「馬鹿なことを言うな。ほら、狸たちが新婚の王を待っているぞ。急げ」

 皇極殿では、いつものようにラディエを筆頭に武官文官が平伏していた。娘が王妃の座を得たのがよほど嬉しいらしく、エフタルがにたりと笑っているのが見える。アユルが高座たかくらに着座したところで、ラディエが顔をあげた。

「陛下。この度は、心より安堵いたしました」
「そうか。皆の気苦労を取り除けたのなら余も本望だ」
「仲睦まじいお二人の様子も聞きおよんでおります」

 アユルはうんざりした。
 ちらりと横目にエフタルを見ると、少し顔を伏せてまだにたにたと笑っている。王妃の体を通して、この男とつながったかと思うと反吐へどが出そうだ。これ以上、婚儀の話を続けられても困ると、アユルはラディエの顔を見据えて話題を変えた。

「それで、議事録にあった件だが」
「はい。キリスヤーナ国王より書簡が届いておりますので、陛下にご判断をいただきたく存じます」
「書簡をここへ」

 コルダが、ラディエから書簡を受け取ってアユルに手渡す。アユルは、書簡に巻きついた紐を解いて目を通した。

「サリタカルと銅の交易をしたいだと?」
「キリスヤーナでは銅が採れません。国民の暮らしをよくするために、加工しやすい銅を取りいれたいとのことでございます」

 アユルは書簡をもう一度読む。書簡には、船の船腹に用いると銅の使い道が細かく書かれていた。キリスヤーナの国民は、大半が短い夏の間に海で漁をして生計を立てていると聞く。書簡の通りに銅が使われれば、確かに民は喜ぶだろう。だが今、キリスヤーナは極寒の季節ではないのか。

「手に入れてしまえば、あとは好きに使える。何にせよ、あらゆる疑いが排除されなければ、認めるわけにはいかないな」
「その通りでございます」
「キリスヤーナは銅を製錬する技術を持っているのか?」

 技術がなければ、キリスヤーナとサリタカルの間で銅だけではなく人も動くことになる。今、カデュラスに逆らおうとする国はない。だが、アユルは警戒した。と同時に、一つの可能性を探る。
 皇極殿の後方から、一人の文官が前に出て頭をさげた。

「陛下。自国では製錬できないのではないかと思います」
「思いますとは何だ。憶測では、正確な判断ができないだろう。誰かわかる者は?」

 誰一人答えない。
 アユルは心の内で、無知な官吏たちに感謝した。そして、手順を誤らないように慎重に言葉を選ぶ。

らちが明かないな。余はどうすればよいのだ、宰相」
「調べます。報告を待って、ご判断ください」

 ラディエの返答に、アユルは考えた。脇息にひじをついて、扇を広げては閉じる。
 臣の最高位にあるラディエを、どう説き伏せようか。四家の一つ、イエサムの当代であるラディエは、王家に忠実で国に誇りを持っている。堕落した先王を擁護し、王の威厳を守るために奔走した男だ。

「このようなことにもいちいち手間取るようでは、実に不甲斐ない王に見えるだろうな」

 扇の骨を触りながらぼそりとつぶやく。落胆したように肩を落として、科白せりふの最後にはため息まで添える。ラディエはすぐに反応を示した。身を乗りだすように膝を一歩進めて、顔には明らかな動揺が浮かんでいる。アユルはさらに、やれやれと首を振った。

「陛下のおっしゃることにも一理あるかと。陛下があなどられるようなことがあっては、国の威信にも関わりましょう」

 ラディエの横から、エフタルがかしこまった様子で口上を述べた。「ならば、どうする」と、ラディエが険しい顔でエフタルに問う。エフタルが答えに詰まると、官吏たちは真面目な顔で互いに見合って、好き好きに議論を始めた。無い知恵を絞ったところで、妙案など出るはずもないのだが。

「そうだ、宰相。余がキリスヤーナに赴いて、ハウエルの真意と事実を直接確かめるのはどうだ」
「何と。陛下の御身になにかあれば一大事です。危険なことをなさらずに、キリスヤーナ国王をここへお呼びください」
「余の身に何事もなきよう、そなたが同行すればよい」
「しかし……」
「宰相が不在では、国が崩れるのか? 大臣がいるではないか」

 アユルが、意味ありげにエフタルに目配せする。エフタルはごくりと喉元を動かして愛想笑いで応えた。
 ラディエは、渋い顔でエフタルを見てしばらく思案した。一時的とはいえ、エフタルに宰相の職を任せてもよいのか。若い時から野心家だったエフタルは、アフラムの家督を継いでから一段と地位に執着するようになった。だが、好機でもある。若い王が知識を蓄えて力をつけるのは悪くない。
 実のところラディエは、アユルにはマハールのようにはなって欲しくないと思っている。先王が政を投げ出したせいで、臣下の忠誠心は腐敗して、皆が私腹を肥やすことばかりに躍起になった。いくら取り締まっても不正が横行して、目も当てられない状況だ。

「……わかりました。わたくしがお供させていただきます。その間、宰相の務めはエフタルに一任いたします」
「それでよい。余はこれからキリスヤーナ国王に書簡をしたためる。宰相は書簡をあらためて、直ちにキリスヤーナへ送れ」
「かしこまりました」

 アユルは、清殿に戻って書斎にこもった。ラシュリルの玉牌を握りしめて、コルダが墨をり終わるのを待つ。

「お顔が緩んでいますよ、アユル様。嬉しいのですね?」
「当たり前だ」
「墨の用意ができました」
「よし」

 鼻歌でも歌いだしそうに、アユルがキリスヤーナ国王へ宛てた書簡を書き始める。さらさらと軽やかに筆を走らせて、仕上げに朱色の王印を押す。あっという間に書簡は出来上がった。
 アユルは書簡を床に置くと、引き出しから手漉てすき紙を取り出して机上に広げた。もうすぐ会えると知ったなら、さやか花のような笑みで歓迎してくれるだろうか。
 意気込んで、勢いよく紙面に筆先を近付ける。だが、筆が紙におりない。筆先が何度も紙に近付いては遠ざかる。コルダが不思議そうに見ていると、アユルは筆を置いて肩を落とした。

「コルダ」
「どうなされました?」
「何と書けばよい」
「書簡でございますか? それならもう、お書きになられたのでは?」
「何と書けば、ラシュリルは喜ぶ」
「はい?」
「ああ、私は何と間抜けなのだ!」
「ま、間抜け?」

 アユルは一瞬、天を仰いで文机に突っ伏す。
 肝心なときに、言葉がひとつも浮かんでこないとは……。むくりと身を起こして、書簡を紫檀したんの軸に巻きつける。それをコルダに手渡して、アユルは咳払いをした。

「これを宰相へ届けろ」
「かしこまりました。それで……」
「何だ」
「よろしいのですか? その、王女様には」
「よい。冷静に考えれば、書簡に恋文を添えるなど言語道断。会って、直接伝える」

 コルダが肩を揺らして笑う。アユルは、コルダを睨みつけて「早く行け」と語気を強めた。

 ***

 ラシュリルは、兄夫婦と午後のティータイムを楽しんでいた。二杯目の紅茶に角砂糖を落として、マリージェお手製の焼き菓子に手を伸ばす。

「美味しそうに食べるのね」
「だって美味しいもの。わたし、お義姉さまの焼き菓子が大好きよ!」

 ラシュリルが、もう一つ焼き菓子を手に取って紅茶を飲む。マリージェは、ラシュリルの笑顔を嬉しそうに見つめた。

「マリージェは、本当にラシュリルのことが好きなんだな」

 ハウエルが、やきもちを妬くように口を尖らせる。そこへ、息を切らしたアイデルが駆けこんできた。小柄な老体の肩が大きく上下して、顔は青ざめているようにも見える。

「どうしたんだ?」
「ハウエル様、カデュラス国王より書簡が届きました」
「ああ、僕が銅の交易についておうかがいを立てたからだろう? で、何て返事が来たの?」
「大変でございます。カデュラス国王が、直々にキリスヤーナへお越しになられるとのこと!」
「な、何だって?!」

 ハウエルが勢いよく立ちあがる。その拍子に、椅子が絨毯じゅうたんの上に倒れた。西端の小国が銅を求めても、何ら問題はないはずだ。なのになぜ、カデュラス国王がわざわざこの地へ?
 ハウエルは、アイデルから書簡を受け取ると急いで中を確認した。カデュラス国王の直筆で、確かにキリスヤーナへ赴くと書かれている。

 ――アユルさまが、ここに?

 ティーカップに添えられたラシュリルの手が小さく震える。それに気付いたマリージェが、心配して声をかけた。

「ラシュリル、どうしたの?」
「いいえ、何でもないの。お兄さまとアイデルの声に驚いてしまって」

 ふっくらとした唇から、ふふっと軽やかな笑い声が漏れる。いいことでもあったかのようなラシュリルの笑みに、マリージェは首をかしげた。