第11話 行幸


「そんな大役……。わたし、不安だわ。大丈夫かしら」
「君の笑顔は、場をなごませてくれるからね。だからぜひ、君に陛下の案内役を務めてほしいんだ」

 胸がどくんと大きくはねる。不安だという言葉は本心だ。かのカデュラス国王と、ただならぬ秘密を抱えているのだから。
 ラシュリルは、いつものようにほほえんで必死に冷静を装った。

 カデュラス国王の書簡が届いてすぐ、ハウエルはヘラートを統括するオリアレン公ミジュティーの屋敷に命令書を送った。ミジュティーはハウエルとラシュリルの叔父で、ハウエルが最も信頼を寄せる人物の一人だ。

 ミジュティーは命令書に従って、雪が降り積もる中、速やかにヘラートの整備に着手した。そちらは、叔父に任せておけば間違いはない。

 ハウエルを悩ませたのは、アユルが滞在している間の接待だった。
 カデュラス国王と信頼関係を築く絶好の機会だが、行動を共にし過ぎるのもよくない。適度な距離を保つために、自分の代役を用意する必要がある。政治的に影響がなく、カデュラス国王が警戒しない人物。かつ、大陸最高位にある王の相手として不足のない身分と教養を持つ者。

 考えた末に、ハウエルは妹に白羽の矢を立てた。ラシュリルは先代キリスヤーナ国王の娘であり、王女としてそれなりの教育を受けている。少々、快活過ぎるところはあるが、それは可愛らしさの範囲内だろう。

「それからもう一つ、君に頼みたいことがあるんだけど……。いいかな」
「ええ。何かしら」
「離宮の手入れを頼むよ」
「離宮の?」
「そう。陛下には、離宮に宿泊いただこうと思ってね。ほら、宮殿だと貴族たちの目があって気が休まらないだろうから」
「確かにお兄さまの言う通りだわ。任せておいて」
「ありがとう、ラシュリル」

 マリージェや貴族の夫人たちとの昼食を終えて、ラシュリルは任務に取りかかった。離宮の掃除に必要な人や道具を集めて、背格好の似た侍女から服を借りる。そして、ナヤタが止めるのも聞かずに、動きにくいからと侍女の服に着替えて、黒髪を軽く結った頭にすすけた色の頭巾をかぶった。

「どう? これで動きやすくなったわ」
「よろしいのですか? ハウエルさまに見つかったら叱られてしまいますよ」

 侍女の一人が心配したが、ラシュリルは「大丈夫よ」と鏡の前でくるりと回ってみせた。仮に、ハウエルがこの姿を見たって咎めはしない。彼は妹の性格をよくわかっている。それに、身分にとらわれない気さくさこそ、彼女が多くの人に慕われ愛される所以ゆえんなのだから。

「ラシュリルさま。日が高いうちに行きましょう」
「そうね」

 宮殿の敷地の奥に人工的に造られた針葉樹の森がある。その森の中に離宮は建っている。離宮が使われるのは夏の間だけだ。日が一番高くなる時間に王妃主催の茶会が開かれたり、時に政務にうんざりした国王が逃げこんだりする。夏の日差しを遮る森のお蔭で、離宮は避暑に絶好の場所だった。
 しかし今、キリスヤーナは冬。何もかもが凍りついてしまいそうなほど寒い。

「一段と冷えてきましたね」
「そうね。わたしは好きだわ、この季節が」

 ラシュリルとナヤタ、八人の侍女は、陽気に歌を歌いながら離宮に向かった。侍女が、手に持った掃除道具を打ち鳴らして歌に調子を合わせる。
 森をすすむと、道の先に離宮が見えた。長い年月をへて黒ずんだ、赤煉瓦の美しい風合いが雪の中に映えている。夏の風景とは違う佇まいに、侍女の一人が「きれい」と感嘆した。

 彼女たちはまず、カデュラス国王が寝泊まりする部屋の暖炉に火をおこした。大きな暖炉の中で炎が勢いよく踊り出すと、部屋が温まるまでにそう時間はかからなかった。
 客間や応接間、浴室などを順に手分けして掃除をし、家具や寝具などを確認する。ティータイムを一回はさんで黙々と作業した。

「ラシュリルさま、浴室の方は終わりました」

 浴室を磨きあげて、ナヤタが廊下に出てきた。
 ラシュリルは、持って来たかごの中から石鹸を取り出して浴室に置く。その石鹸には、ジャスミンの香料と花の蜜が練りこまれている。気分を落ち着かせる香りの効果に加えて、使えば使うほど肌が潤うとかで、貴族の間で大流行しているのだとか。

 ジャスミンの香りがするアユルを想像して、ラシュリルは思わずふふっと声を出して笑ってしまった。それに、彼は肌の潤いなどには興味がなさそうだ。そう思うと余計におかしくなって、ますます笑いをこらえきれなくなった。

「何を笑ってらっしゃるんですか?」
「いいえ。何でもないのよ、ナヤタ。他も終わったかしら」
「はい。少し足りない物があるようですので、ハウエルさまに報告しておきます」
「みんな、大変だったわね。とても助かったわ、ありがとう。宮殿へ戻って、温かい紅茶とお義姉さまの焼き菓子をいただきましょう」

 ***

 アユルは、清殿の西側にある釣殿に寝そべって、ハウエルの書簡を眺めた。身体を半転させ、仰向けになって目をつむる。心が今にも体を離れて、遥かキリスヤーナの地へ飛んでいきそうだ。

「寒くはございませんか?」

 コルダが様子を見に来た。アユルが首を横に振ると、コルダは会釈をして書斎の方へ歩いて行った。アユルは、のっそりと立ち上がって釣殿の端に立つ。
 池にのぞむ釣殿から、一望する清殿の内庭。王宮の庭とは対照的に、真っ白な砂利が敷きつめられている。砂利に含まれた雲母が、日差しを反射してきらきらと煌めくまぶしさに思わず目を細めた。

 奥の築山は木々が紅葉の盛りを迎えて、地面まで落葉で紅く染まっている。築山に置かれた岩を覆う深い緑色の苔が、作庭からの永い歴史を物語る。それは、カデュラ家が大陸を支配している年月に等しい。

 池に架けられた朱色の桟橋から、つがいの水鳥が池に飛びこんだ。
 歴代の王たちは、この庭で豪華な舟遊びに興じて季節を楽しんだという。だが、当代の王は、静かな景観を好んで、侍従じじゅうと二人でひっそりと清殿に暮らしている。

 アユルは、高欄こうらんから上半身を乗り出すように座って書簡を池に垂らした。水鳥がくぁくぁと鳴きながら、釣殿の下まで水面を移動する。赤と黒のまだら模様の鯉たちも集まって来た。彼らは、餌が落ちて来るのを待っているのだ。

「民を思う、心優しい君主。本当にそうか?」

 一度しか面識はないが、ハウエルの顔は鮮明に記憶されている。共に一献傾けたときの笑顔は、属国の君主として服従の意を示したものであったのか。初めての旅は、予想以上に大きな収穫をもたらしてくれそうな予感がする。
 にたりと笑って書簡から手を離す。
 書簡は、重力に従ってばしゃりと音を立てて着水した。驚いためすの水鳥が、伸びをするように羽ばたきながら水掻きを広げた足で水を撹拌かくはんし、その近くで鯉が激しく水面みなもを揺らす。書簡は無残にも、もみくちゃになって池の底へ沈んでしまった。
 皇極殿で、キリスヤーナ訪問の日程が協議さてれいる。間もなく、宰相さいしょうが報告に来るだろう。

「アユル様」

 コルダの声にアユルが振り向く。コルダは、たすきを解いて頭をさげた。

「宰相が来たか?」
「いえ、華栄殿より使いが参りました。王妃様がお会いしたいと」
「……王妃だと?」

 アユルの表情が曇る。
 王妃と顔を合わせるのは、王として王妃を必要とするときだけで十分だ。何かもっともらしい理由で断ろうか。いや、とアユルは小さく首を振る。

 即位したばかりで多忙だと、婚儀から半月以上も華栄殿から遠ざかっている。その上、会いたいというのを無視すれば、意図的に王妃を避けていると女官たちが盛大に噂するだろう。彼女らの噂は伝染病と同じだ。防ぎようがなく、またたく間に広がって、必ず王宮の外にまで達する。

 王妃と不仲だと騒がれてはまずい。王統の存続を危ぶむ臣下たちに、キリスヤーナ行きを阻止する口実を与えてしまう。それでは、三夜の共寝に耐えた努力が水の泡だ。
 アユルは上衣を羽織って、大きく伸びをした。水鳥も鯉も近くに集まって、口をぱくぱくと開けたり閉じたりしている。

「この者らに餌をやれ」
「はい。華栄殿より戻りましたら、すぐに」
「お前はよい。私一人で行って来る」

 清殿の外に出ると、あちらこちらから女官の目が向けられた。アユルは廊下を足早に渡って、一人の女官の前で足を止めた。名は知らないが、いつも王妃のそばにいる若い女官だ。一人で現れた王に驚いたのか、女官は華栄殿の扉に手をかけたまま、礼も忘れて立ちつくしている。

「何をしている。さっさと取りつげ」
「は、はい。すぐに」

 女官が慌てて王の来訪を王妃に伝えに行く。アユルは女官の帰りを待たずに中に入って、中央の間を目指した。幼いころ母親と共に暮らした華栄殿は、清殿より勝手がわかる。アユルが中廊下にさしかかったときだった。奥の部屋からタナシアが姿を現した。

「陛下!」

 タナシアはアユルに駆け寄って、後ろに控えていた女官たちに退出するよう命じた。女官を近付けるなという命令は功を奏しているらしい。アユルは、満足そうな顔で上席についた。
 そばの机の上に、王宮の規則が書かれた本が広げられていた。アユルの目が本の文字を追う。それに気付いて、タナシアが慌てて本を閉じた。

「息が詰まりそうなものを読んでいるのだな」
「申し訳ございません。王宮のことを何も知らないものですから」
「……そうか。それで、余に用があったのだろう?」
「陛下がしばらく留守になさると、皆が話しているのを聞いて……」
「皆?」
「はい。女官たちが」

 高く結われた髪にさされたかんざしの飾りが、しゃらんと澄んだ金属音を立てる。その音につられるように、アユルはタナシアの髪を見あげた。ラシュリルなら、華々しく飾り立てなくても美しく品のある王妃になるだろうに。そんなことを考えてアユルが小さく笑うと、タナシアが驚いた顔をした。

「何か面白いことが?」
「いや、何でもない。ところで、女官たちは何と言っていた」
「陛下がキリスヤーナへ行かれると……。遠いのでございましょう?」
「往路ひと月ほどかかるそうだ」
「そんなに……」

 タナシアが、物悲しそうに眉尻をさげてアユルの顔を覗きこむ。まじまじと見つめてくるタナシアに、アユルは眉を一瞬あげて「何だ」と尋ねた。

「まだ婚儀を済ませたばかりで……。わたくし一人残されるかと思うと、心もとなくございます」
「寂しいのか」
「……はい。もっと陛下と、その」
「余と、何だ」
「……陛下と、夫婦の絆を深めたいと」
「夫婦の絆?」
「は、はい。例えば……、お許しいただけるのでしたら陛下の尊名をお呼びしても?」

「市井の夫婦がどのようなものかは知らないが、我らは王と王妃。何よりもまず、そなたが読んでいた王宮の規則が優先される。王妃がそれをやぶれば、示しがつかないのでは?」
「……申し訳ございません」

 二人は沈黙する。アユルは、タナシアをじっと見た。落胆している様子で、うつむいて今にも泣きそうな顔をしている。愛してやれなくても、悲しげな表情をされれば人として良心が痛むというもの――。

「王妃さま」

 沈黙を破ったのは先ほどの若い女官だった。女官は二人から離れた場所に腰をおろして、アユルとタナシアを交互に見て顔を伏せた。

「どうしたのです?」
「はい、王妃さま。大臣さまが、王妃さまをお訪ねになりたいと皇極殿にお待ちでございます」
「父上が?」
「お断りいたしましょうか」

 アユルの眉がにわかに寄る。女官の言う通りにすれば、エフタルをいい気にさせる。王妃との不仲を怪しまれるのも面倒だが、すっかり王妃に夢中になっていると思われるのは面白くない。

「せっかく訪ねて来たのだ。遠慮する必要はない」
「よろしいのですか?」
「余は隣の間にいる。気兼ねなく過ごすといい」
「陛下もご一緒に」
「いや、親子の時間に水を差すのは心苦しいのでな。余がここにいることは、大臣には言わずともよい」
「お心遣い、痛みいります。陛下」

 アユルが隣の部屋に姿を消すと、タナシアはエフタルを通すようにと女官に返事をした。それからすぐ、エフタルがやって来た。

「変わりないか、タナシア」
「はい、父上」

 アユルは少しふすまを開けて、じっと息を潜めて二人の会話に集中する。親子でどのような会話をするのか、心ばかりの興味はある。

「それで、あの若造はお前のもとへ来て、きちんと努めているのだろうな」
「ち、父上、何ということを。陛下に失礼でございましょう」
「どこが失礼なのだ。臣あっての王であろう。ようやくお前が王妃になったと安堵していたが……。キリスヤーナに行くなど、お前を、いや、アフラムの家門を軽んじているのだ!」
「そのようなことはございません。父上、お願いでございます。もう、おやめくださいませ」

 タナシアの顔は、すっかり青ざめていた。いつもは他愛のない世間話などをするのに、今日に限ってなぜこんな話をするのだろう。タナシアが話題を変えようと口を開いた瞬間、エフタルが低い声で言った。

「お前が王妃になる日を、どれほど待ったと思っている」

 エフタルの右手がばちんと扇を閉じ、タナシアの身体がびくりと震える。身体に染みついた父への畏怖。タナシアは込みあげる涙をこらえて、エフタルの目を見返した。

「あれが戻ったら、一刻も早く世継ぎをもうけるのだ。お前で無理なら、一族の娘を妃として王宮にあげよ。必ずアフラムの血筋を王にせねばならぬ」
「父上、陛下は誠実なお方です。わたくしが進言しても、聞き入れてはくださらないでしょう」
「父に逆らうのか」
「い、いいえ。そうではなく、陛下をさげすむような物言いはおやめください」
「やれやれ。先の王妃のように、お前にも王妃の自覚を持って欲しいのだが、かわいい娘に楯突かれては父の立場がない」
「……父上」
「今日は帰るとしよう。あれが旅立ったら、また来る」

 タナシアが呼び止めるのを無視して、エフタルは荒い足音を立てて華栄殿から出て行った。アユルが戻ると、魂が抜けたようにタナシアが茫然と座っていた。

「そなたの父上は、随分と機嫌が悪いようだな」
「陛下、申し訳ございません。お許しください」

 アユルは袖の中でぎゅっと拳を握って、怒りが顔に出ないように感情を抑えこむ。先の王妃のようにとエフタルは言った。母と同じように王宮を支配し、王さえも従わせよと――。

「陛下。どうか、お許しを」

 王妃が、目を潤ませながら王の許しを乞う。アユルは指先でタナシアのあごを上げ、ゆっくりと顔を近付けた。互いの息が触れ合うほど近くで、アユルはタナシアの瞳をじっと見据えて、紅が塗られた柔らかな唇を親指で押す。弱いが、王妃はをかばってみせた。父親への敬畏よりも夫への思慕が勝っているのだろうか。アユルがやわらかく笑み、潤んだタナシアの瞳が大きく揺れる。
 
「……っ、陛下」

 カデュラス国王が国を離れるのは、長い歴史の中でも数えるほどしか記録に残っていない。
 旅立ちの日を迎え、アユルは外套を羽織って清殿を出た。吐く息は白く、足袋を通して床の冷たさが肌を刺す。清殿を施錠して、コルダが真新しい履物を床に置いた。

「アユル様、今日は特に冷えます。こちらをお履きください」
「お前は私を丁重に扱い過ぎる」
「何をおっしゃいます。大切な御身でございましょう」
「お前こそ体を冷やすな。大切な御身を守る大切な御身だからな」

 二人はきざはしをおりて、急ぎ足で奥庭を歩いた。すると、王宮と外廷とを隔てる門の前に、タナシアが女官を一人従えて立っていた。

「陛下、お気をつけて。お帰りをお待ちいたしております」
「王宮のことは任せたぞ。何かあればすぐに知らせろ」
「はい」

 アユルはコルダに目で合図する。コルダが、タナシアに布に包んだ清殿の鍵を手渡した。

「陛下、これは」
「清殿の鍵だ」
「わたくしがお預かりしてもよろしいのですか?」
「王妃を信頼して預ける。ただし、清殿は王にのみ許される場所。余の許しなく入るな」
「心得ました」
「では、行ってくる」

 アユルは門をくぐり、中庭を通り抜けて広場へと急ぐ。皇極殿の下の広場で、荷を積んだ馬車や従者たちが、列をなして出立のときを待っている。その周りには、高官たちが王を見送るために集まっていた。

「仰々しいな」
「宰相様からお聞きしましたが、数百年ぶりだそうですよ」
「何がだ」
「王の行幸ぎょうこうです」
「生き字引だな」
「誰がです」
「その宰相様だ。重用せねば」

 アユルに気付いたラディエが、石段の下で二人を出迎えた。礼をとろうとするラディエを近くに呼び、アユルは小さな声で命じる。

「カリナフに伝えろ。エフタルから目を離すなと」
「何か気がかりなことが?」
「そのようなことは何もない。エフタルは王妃の父であり、一時的とはいえ宰相となるのだ。間違いが起きないように用心するだけのこと」
「かしこまりました」
「内密にな」

 アユルは、馬にまたがってたてがみをなでた。白い愛馬が応えるように首を振って小さくいななく。
 ダガラ城の正門を出ると、大通りの両端で大勢の民たちが平伏していた。雲一つない冬空の下、アユルはキリスヤーナへ向けて旅立った。