第12話 陛下と案内役の王女様


「それでは、ラシュリルさま。離宮の暖炉に火を入れて来ます」
「ええ、頼んだわ」
「じっとしていてくださいね」
「わ、わかっているわよ」

 ナヤタが、そわそわと落ち着かないラシュリルを冷やかして、笑いながら部屋を出ていく。部扉が閉まると同時に、ラシュリルは深いため息をついた。
 壁に掛けられた大きな鏡の前に立って、体の向きを変えては髪や衣装を確認する。身にまとっているドレスは、マリージェにお願いして有名なデザイナーに仕立ててもらったものだ。キリスヤーナで採れる鉱物から作る顔料で染めあげた朱子織りサテンの生地。キリスヤーナの瑠璃るりでなくては、こんなに深い群青色には染まらない。夏の漁のあと、雪が降りはじめる前に採掘される瑠璃はとても貴重で、カデュラス国王への献上品にもなっている。

 ふんわりと大きく膨らんだスカートの上をさらりと流れる同色のレースが、おだやかに波立つ夏の海のような大人びた一着だ。
 普段は無造作におろしている前髪を、貴婦人たちのように後ろ髪と一緒に結ってみた。化粧だって気合が入っている。挑戦した大人の領域。ナヤタは似合うと言ってくれたけれど、彼の人はどう思うのかしら。そう思うと、ますます心が落ち着かなくなってほほが熱を帯びる。
 まさに今、カデュラス国王が階下の大広間でハウエルや貴族たちの歓迎を受けている。

「お義姉ねえさまは心が安らぐっておっしゃったのに、わたしはそうじゃないわ。アユルさまにお会いすると思うだけで、心臓がおかしくなってしまいそう。これは、一体何なのかしら」

 鏡の向こうの自分に問いかけて、うなじのおくれ毛をかきあげる。そのとき、部屋の扉をたたく音とアイデルの声がした。いよいよ、案内役の出番だ。

「陛下、こちらをどうぞ。体が温まります」

 ハウエルが、慣れた手つきでティーカップに角砂糖を一顆いっか落としてかき混ぜる。アユルはそれを見ながら、馬車の窓から眺めたヘラートの街並みを思い出していた。街を蛇行する凍りついた運河と連なる煉瓦造りの古い建物。そして、除雪された基幹道路の脇に立つ兵士たち。他に人の姿はなく、ヘラートは生気のない無人の廃墟群のようだった。

「禁令でも出したのか?」
「はい?」
「王都に人がいなかった」
「……ああ、はい。我が国にカデュラスの国王陛下がお越しになられるのは数百年ぶりです。禁令を出さなければ、陛下の御姿をひと目見ようと民衆が殺到します。人が集まれば、何が起きるかわかりません。僕には、陛下を無事におかえしする責任がありますから」

 アユルの問いに、ハウエルが右手を胸に当てて得意気に答える。それからハウエルはラディエに会釈して、ジュストコールの襟を正した。ラディエが満足そうにうなずいて、ハウエルがアユルに視線を戻す。ハウエルは、愛嬌たっぷりの笑顔で少し首をかたむけた。これは、彼が他人とうまくやろうとするときのくせだ。
 アユルは、ハウエルを見据えて頬づえをついた。

「まるで、何か起きそうな言い方だな」
「い、いいえ、滅相もない。深い意味はありません」
「冗談だ」

 ハウエルは、ごくりと生唾をのんだ。
 一度見てしまうと、そらせなくなるカデュラス国王の目。同じ黒色なのに、天真爛漫てんしんらんまんな妹の瞳とはまるで違う。友好的ではない表情と相まって、無限の闇のように不気味で、何を考えていてどんな感情なのかまったくつかめない。ただ、冗談ではないことだけ一目瞭然だ。

「王女ラシュリル・リュゼ・キリスを陛下の御前へ」

 アユルと目を合わせたまま、ハウエルが真顔で言った。衛兵の一人がドアの取っ手を引いて、みんなの視線がそちらに集中する。
 この大広間は、カリノス宮殿で一番広くて美しい部屋だ。天井には幻想的な絵が描かれている。銀色の雲の合間から射す太陽の光と背から羽の生えた子供たち。そして、太陽を指さす長い黒髪の男。その足元には、金色の頭に王冠を載せた男がひざまずく。古い神話の一場面を描いたとされているが、黒髪の男は大陸を征服したカデュラス国初代王であり、ひざまずいているのは第十二代キリスヤーナ国王だ。

 ラシュリルは大広間に入って一礼すると、つまずかないようにドレスを摘まみあげた。そして、並んでいる丸テーブルの間を進んで上席を目指した。

「妹のラシュリルです。一度カデュラスでご紹介いたしましたが、覚えておられるでしょうか?」
「もちろん、よく覚えている」

 淡々といつもの調子で答えて、アユルはティーカップを手に取った。そして、紅茶を口に含んだとき、ハウエルがラシュリルの隣に立って笑顔で首をかしげた。

「妹が陛下の案内役を務めさせていただきます。何なりとお申しつけください」

 ティーカップをテーブルに戻して、アユルは顔をしかめる。口いっぱいに残る苦手な甘い味。ハウエルが入れた砂糖のせいだ。
 ラシュリルの横で、ハウエルがごくりとのどを鳴らす。

「……妹ではご不満でしょうか」
「そなたの妹に不満などない」

 じゃあ、何で嫌そうな顔をしているんだ。まどろっこしいやりとりはうんざりだと、ハウエルは心の中で舌打ちする。しかし、それを表面に出してしまえば一巻の終りだ。アユルが砂糖の味に反応しただけだとは露ほども思わず、ハウエルは笑顔を保ったままラシュリルに言った。

「陛下を離宮へ案内して差しあげて」
「はい、お兄さま」

 ラシュリルは、アユルの近くに行って深く一礼した。
 しっかりと交わる視線。あの夜と同じ漆黒の瞳が心を揺さぶる。見つめられると、苦しいくらいに胸がどきどきとして冷静でいられなくなる。

 ――いけない。みんなが見ているわ。

 ラシュリルは、視線を外してアユルに「こちらへ」と言った。その声に、貴族たちが一斉に起立する。
 アユルは席を立って、ラシュリルの後を追った。大広間を退出する間際に何気なくふり返ると、深々と頭をさげる貴族たちの向こうで、ハウエルが首をかしげてにこりと笑っていた。

「王女殿」

 宮殿の裏口を出て、石段をおりようとしたとき、ラシュリルはラディエに呼び止められた。体格のよさに加えて、眉間にしわが刻まれたラディエの強面に恐々とする。

「離宮はここから遠いのでしょうか」
「少しだけ。ここから回廊を通って、その先の森の中にあります」
「そうですか。寒いので、早く陛下を」
「はい、宰相さま」

 見かけとは違い、おだやかなラディエの声にほっとしてラシュリルは石段をおりて回廊を進んだ。
 離宮へ向かう回廊は、ラシュリルのお気に入りの場所だ。夏はここで涼風に当たりながら本を読み、冬はじっと積雪の庭にできた日だまりを眺めるのだ。
 回廊が二手にわかれる手前で、後ろの足音がぴたりとやんだ。ふり返ると、アユルが回廊の端に寄って空を見あげている。そっと近付いて、同じように空を見る。雪がはらりはらりと落ちてくるだけで、何の変哲もない。

「どうかなさいましたか?」
「雪……」
「雪が珍しいのですか?」
「初めて見た。カデュラスに雪は降らないからな」
「そうなのですね。おとといは吹雪で前が……」

 白い肌に薄く色づいた唇。ラシュリルの目が、無意識にアユルの口元をとらえる。弾力と温かさ。よみがえる記憶に、ラシュリルの頬がぽっと赤く染まった。

 ――だめだめ、だめよ。わたしったら!

 急に黙ってしまったラシュリルの顔を、アユルが怪訝けげんな表情で覗きこむ。そのとき、ラディエがふたりの間に割って入った。

「王女殿、陛下から離れていただきたい」
「ご、ごめんなさいっ」

 ラディエがラシュリルを睨みつけて威圧する。すっかり萎縮してしまったラシュリルを見て、アユルはラディエの肩をがしっとつかんだ。

「宰相、怖い顔をするな」
「ですが、陛下」
「その者が何かしたか?」
「恐れ多くも陛下になれなれしく近付いて声をかけるなど、あってはならぬことですので」
「十歩ほど離れて歩け」
「は?」
「聞こえなかったか? 十歩離れろと言ったのだ。余がいいと言うまで、近付くこと許さず」
「……陛下」
「王命だ」
「……ぐっ」

 王命と言われたら逆らえない。ラディエは、十歩後ろにさがって顔を伏せた。困惑するラシュリルに、早く離宮へとアユルが催促する。ラシュリルは、はいと小さく返事をして二手にわかれる回廊を指差した。

「宰相さまのお部屋はあちらにご用意しております。ここからは侍女のナヤタが宰相さまをご案内いたします。皆さんが荷物を片付けている最中だと思うのですが……」

 ラディエが、陛下を離宮に送り届けてから行くと言う。アユルはラディエに向かって首を横に振った。

「心配しなくてもコルダがそばにいる」
「コルダ一人では……」
「皆、長旅で疲れているだろう。早く荷を片付けて休ませてやれ。余も少し休みたい」
「かしこまりました、陛下」

 ラディエはコルダに注意を怠るなと念を押して、ナヤタと一緒に回廊を右に折れて行った。
 ラシュリルとアユルは、きれいに除雪された森の一本道を歩いて離宮を目指した。コルダは、並んで歩くふたりの後ろ姿をほほえましく見ていた。その間も、後ろを警戒して誰もいないことを確認する。どんな話をしているのか、この距離では聞き取れない。しかし、見合って笑っているふたりはとても楽しそうだ。いつまでも続けばいいのに、とコルダは思ったが、あっという間に離宮に着いてしまった。

 ラシュリルが案内した部屋は、奥の広い客室だった。白を貴重とした広い室内には、天蓋付きの金細工のベッドに年季の入った調度品が置かれて、東側の窓には青色が際立つ鮮やかなステンドグラスがはめこまれている。

 アユルは外套をコルダに預けると、ばちばちと音を立ててる暖炉の前に立ってかじかんだ手を温めた。コルダが、隣の部屋で片付けをすると部屋を出て行く。
 ラシュリルはアユルに目を向けた。あの大きな背中を触ってみたら、お義姉さまのいうようにどきどきとする胸のざわめきが落ち着いて、心が安らぐのかしら――。
 手を伸ばして黒い衣をつかむ。そして、背中に寄り添うように体をくっつけた。

「冷たい手で触れたらかわいそうだと思って、こらえているのに」
「えっ?」
「冷たいが、我慢しろ」

 アユルが振りかえって、両手でラシュリルの頬を包む。
 ラシュリルは、アユルを見上げて目をぱちくりとさせた。見つめる目はやさしくて、手も大切なものを扱うように……。そう思うのは自惚うぬぼれかしら。冷たい手が火照る頬に気持ちよくて、ラシュリルは無意識にアユルの手に自分の手を重ねた。

「会いたかった」

 低くておだやかな声が、聴覚から体に侵入して琴線に触れる。嬉しい。真っ先に浮かんだ言葉はそれだった。わたしも、と言おうとした瞬間、顔に影がかかって唇が重なった。
 軽くかすめるように触れて、薄い唇が下唇を噛む。あの朝と同じ、慈しむようなやさしい口付け。言葉はなくても気持ちが伝わってくる。

「ラシュリルさま」
 
 ナヤタの声に、ラシュリルは体をびくりとさせた。ラディエを送り届けて、迎えにきたのだ。慌ててアユルから離れようとする。その様子に、アユルは驚いた。

「まさか、侍女に私とのことを言ってないのか?」
「……はい、言っていません」
「なぜだ。あの者には隠し事をしたくないのだろう?」
「そうですけど……。もしも、あれきりだったら、ナヤタを悲しませてしまうと思って」

 離れた体を引き寄せられて、ラシュリルは戸惑いながらアユルの顔をあおぐ。こんなところを見られたら、とても言い訳できない。逃れようとすると、さらに強い力で抱きしめられた。

「そなたは正直で、じつがあるのだな」
「いいえ。あなたを信じたいと思いながら、心のどこかで疑っていたのです。だから、ナヤタにも言えなくて……」
「それは是非ぜひもない。私が、そう思われてしかるべきことをしたのだから」

 ラシュリルさま、と扉の向こうでナヤタが呼ぶ。
 角ばった指が頬に触れ、ほつれた髪を耳にかけた。やさしいまなざしが、視線をとらえて離さない。ラシュリルが小さく声を発したとき、ナヤタが再び主人を呼んだ。

「早く行ってやれ」
「はい」

 その夜、カリノス宮殿の白銀の間で、カデュラス国王をもてなす晩餐が開かれた。カデュラス国王と同席をゆるされたのは、キリス家の者と侯爵以上の貴族のみで、他は別室に宴席が設けられた。

 上品な金のクロスが掛けられたテーブルを挟んで、アユルとハウエルが向かい合う。アユルの両隣にはラディエと文官が座り、ハウエルの両隣にはマリージェとラシュリルが並んだ。

 ハウエルは話し好きのようで、食事をしながら次から次に話題を持ち出して場をわかせた。堅物のラディエが声を出して笑ったとき、アユルは驚愕してハウエルの才能を認めざるを得なかった。

「ところで、陛下はご結婚なされたそうですね」

 話が途切れたとき、ハウエルが唐突に尋ねた。
 アユルはちらりとハウエルの横を見た。視線に気付いたラシュリルが、上品に咀嚼そしゃくしながらにこりとする。葡萄酒ワインをのどに流しこんで、アユルは「ああ」と素っ気ない返事をした。

「王妃様がお寂しいのではございませんか?」

 ハウエルが、さらに質問をぶつけてくる。アユルが勘弁してくれとばかりに黙りこむと、今度はラディエが代わりに答えた。

「陛下は王妃様をとても大事になさっておいでです。王妃様はよくわきまえられたお方ですので、王宮で立派に務めを果たしておいででしょう」

 これ以上、陛下の私生活に踏みこむなという牽制けんせいだった。それを察したハウエルは、すぐに別の話題を持ち出して皆を笑わせた。そんな中、ラシュリルが席を立って、静かに白銀の間を出て行った。

「王女はどうした」
「失礼を、陛下。妹は少し疲れてしまったようで」
「大事ないのか」
「部屋でゆっくり休めば大丈夫だと思います。今日は一日中、気を張っていたのでしょう」
「それならよい。私も離宮に戻る」
「お見送りを」
「結構だ。宰相がそなたの相手をする。私に構わず続けるがよい」

 王妃を大事にしている。そのようにふる舞ったのだから、ラディエの答えは妥当だった。だが、ラシュリルはどう思ったのだろうか。そもそも、王妃を迎えたことを知っていたのだろうか。たいして気にしていないように見えたが……。
 離宮の浴室で湯につかりながら、アユルはああでもないこうでもないと答えの出ない考えに没頭する。

「いかがですか、アユル様。安らぐ香りでございますね」

 コルダが、石鹸せっけんを泡立ててアユルの上腕を指先で揉む。

「何の匂いだ」
「さあ、何でございましょうね。置いてありましたので、使わせていただきました」
「不用心だな」
「いえ、害のないものだと確かめてありますのでご安心ください」
「確かめたのに、何の匂いかわからないのか?」
「聞いたのですが、忘れてしまったのですよ」
「誰に聞いた」
「王女様の侍女に」
「ラシュリルの……。そうか」

 ラシュリルが、ジャスミンの香りをまとったアユルを想像して笑っていたことなど知る由もない。アユルは、それから黙ってコルダに身を任せた。
 部屋に戻ると、アユルは棚から書物を一冊取ってベッドにあがった。同行している文官が記したサリタカルでの記録だ。王として、表向きの用事は淡々とこなさなければならない。

「アユル様。ご用がなければ、わたくしは失礼いたします」
「ああ、わかった」
「では」

 ぱたりと扉が閉まって、廊下の明かりが消える。
 アユルは、うつぶせになって記録に目を通した。どれくらいの時がたっただろうか。部屋の扉が開いて、人が入って来た。コルダが戻ってきたのだろう。しかし、黙って入って来るなどコルダらしくない。人の気配がすぐそこまで迫って、アユルはたまらず書物を閉じて体を起こした。

「コルダ。どうし、た……」