第16話 目覚め


 東の空に欠けた月がのぼる。昼勤めと宿直とのいの女官が交代する時刻は、王宮が手薄になるだ。
 タナシアは、カイエとふたりで華栄殿を出た。目立たない暗色のうちぎを着て、手燭てしょくの明かりだけを頼りに廊下を渡る。赤々と廊下を照らすはずの釣り灯籠とうろうは、火がともされることなくただ暗い影のように揺れているだけ。王がいない清殿は、夜になると余計にわびしい。

「誰か来たら、すぐに知らせてね」
「はい、王妃さま」

 鍵をカイエに預けて、タナシアは清殿に体を滑りこませた。扉の閉まる音に、びくりと肩がすくむ。手燭を持つ手は汗ばんで、衣擦れと床の軋む音がやけに大きく耳に響く。
 清殿は、華栄殿とは構造も広さも違っていた。まるで、目隠しをして迷路を解いているようだ。道標みちしるべを残すように、燭台に手燭の火をうつしながら真っ暗な殿内を歩く。
 どれくらいの時間を要しただろうか。なんとか書斎を探し当てて、室内にある七つの燭台に火をともす。整理された部屋。余計な物がひとつもない。文机の上も、数冊の本が積まれているだけだ。それも、少しのずれもなく、神経質なほど角がそろえてある。

「……これは、陛下が」

 一番上の書物に、タナシアの双眸そうぼうが見開く。それは初夜の翌日、アユルが華栄殿で黙々と読んだものだった。タナシアはそれに触れて、ページをめくるアユルの横顔を思い出した。
 わたくしは陛下をお慕いしている。それなのに、父上に逆らえず陛下に背いている。罪の意識が、心臓を鷲掴わしづかみにするように胸をぎゅんと締めつける。

 ――息が、苦しい。

 けれど、その一方で喜ぶ自分がいる。一度も入ったことのない夫の居所。ここで寝起きして、食事をして……。まさに今、自分が座っている場所で、本を読んだり書をしたためたりなさるのだと思うと、これまでに感じたことのない幸福感に満たされる。

 ――いつか、わたくしをここへ呼んでくださるかしら。

 タナシアは、わずかにずれてしまった書物の角を両手で丁寧にそろえた。
 何かしら。書物の間に、細い紐のようなものが見える。書物を持ちあげてそっとそれを引き抜いて、手燭の明かりにそれをかざす。揺れる炎に照らされる、花が彫られた深い緑色の鉱石。鮮やかな赤い組紐がつけられた玉牌だった。普通、殿方は玉牌に赤い組紐なんてつけない。

「……陛下のものではないわ」

 鳥肌が立つように、心がぞわりとざわめく。
 二十五になるまで独り身を貫き、王宮の女官を追い出すほどの方。それが、なぜ女物の玉牌を……。
 かん、かんと、女官の交代を知らせる拍子木ひょうしぎの高く澄んだ音が鳴る。タナシアは玉牌を書物の間に戻すと、急いで王印を探した。手当たりしだいに文机の引き出しを開けて、それらしいものをあさる。二段目の引き出しに、桐箱が入っていた。

「王妃さま、まだでございますか?」

 待ちかねたカイエが、書斎に入って来た。道標みちしるべを残しておいたおかげで、カイエは迷うことなくここへたどり着けたようだ。

「少し待って」
「お急ぎください、王妃さま」

 桐箱を文机に置いて、中を確認する。手のひらが妙な汗で湿る。桐箱の中に、金の玉璽ぎょくじらしきものが収められていた。
 二度目の拍子木の音が聞こえる。昼勤めの女官が宿舎にかえる合図だ。タナシアは、桐箱を引き出しにしまって立ち上がった。カイエが、部屋の明かりを素早く消す。そして、ふたりは殿内を小走りに廊下に出た。

 ――女物の玉牌……。一体、どなたの物なのかしら。

 書物の間に、隠すように置かれていた。誰かに贈るつもりなのだろうか。それとも、もらったのだろうか。それが気になって足が動かない。

「王妃さま、いかがなされました。早く華栄殿へ戻りましょう」

 たたずむタナシアをカイエがせかす。そうしている間に、宿直の女官が数人、タナシアに挨拶をして通り過ぎて行った。

「ねえ、カイエ。陛下がどなたかをお望みになられたら、わたくしはどうしたらよいのでしょう」
「ご冗談を。陛下には王妃さましかおられないではありませんか」
「そう……、ですね。おかしなことを言いました。気にしないで」

 庭の暗がりから、木々の擦れる音が聞こえる。肌で感じることのできないほどの微弱な風が吹いているようだ。手燭の炎が揺れて、廊下に伸びるタナシアの影がぐらりと形を変えた。

 ***

「ラシュリルさま。そんなに泣いてばかりでは、気が滅入ってしまいますよ」
「だって……」

 寝起きのまま、着替えもせずにラシュリルは窓際のテーブルの席についた。
 四日がたつのに、まだ意識が戻らないという。いつものように、テーブルには朝食と大好きな苺の果実茶が並んでいる。けれど、とても口にする気にはなれない。
 ラシュリルは、真っ赤に腫れたまぶたにハンカチを当てた。どすっと、矢が刺さる鈍い音が耳に残っている。離宮で見た顔は、人の肌とは思えないほど白くて生気がなかった。矢には毒が塗られていたと聞いた。怖い。このままアユルさまが……。

 ――だめよ、そんな不吉なことを考えては。

 ちゃんとお返事するの。それから、いつもしてくださるように、わたしも好きだと伝えたい。言葉だけではなくて、目で、声で、仕草で、あなたのことが大切なのだと示したい。だからお願い。早く目を覚まして――。
 テーブルに突っ伏して、ラシュリルは祈りをこめるように名前を呼んだ。

「アユルさま」

 かすれた小さな声。アユルは、その声に応えるように眉根を動かした。ほほにあたたかな雫が落ちてくる。泣いているのか?

 ――ラシュリル。

 夢……。
 まぶたを震わせながら、静かにアユルの目が開く。まぶしさに目がくらんで、すぐ反射的にまぶたを閉じた。それから、光に慣らすようにもう一度ゆっくりと開ける。ぼんやりと天井画を眺めて、ああ、ここは離宮かと気付く。どれくらいの時が流れたのだろうか。もしかしたら、数日たったのかもしれない。
 火の弾ける音がする。そちらに顔を向けると、コルダが暖炉の前にひざをついて薪を足していた。
 何気なく、アユルの視線がコルダの向こうの大きな窓に向く。空には点綴てんていする雲と数羽の鳥。そこから、綿花のようにふわりとした大きな雪がゆっくりとした速さでおりてくる。

「……ルダ」

 しわがれた声は、自分の声とは思えないものだった。口の中がからからだ。のどを潤そうと水を探すが、手の届く所にそれらしきものはない。
 コルダはこちらに気付かず、真剣な顔をして火かき棒で暖炉の中をつついている。アユルは諦めて、コルダが近くに来るのを待つことにした。左肩をかばうようにおさえ、ふかふかの枕を背もたれにして上体を少しだけ起こす。
 しばらくして、コルダがアユルに気付いて火かき棒を放り投げた。投げ捨てられた火かき棒が、無残に絨毯じゅうたんの上を跳びはねる。

「アッ、アッ、アユル様!!」

 アユルは、ぎょっとした。
 目に涙を浮かべ、両手を広げたコルダが突進してくる。いくら腹心の侍従でも、抱き合って喜びをわかち合うのはごめんだ。ともかく、コルダの進撃を止めなくては。人差し指でのどをさして、必死に口を動かす。

「……み、ず」
「水、水でございますね! はい、すぐにお持ちいたします!」

 何とか、歓喜の抱擁は回避した。コルダが持ってきた白湯を口に流しこむと、のどがちくりと小さな痛みを伴って潤った。

「私はどれほどしていた」
「今日で四日になります」
「そうか」

 左肩に、じんじんと鈍い痛みが間欠的に走る。傷は、キリスヤーナ国王専属の医者が適切に処置したが、矢に塗られた毒が奏功して化膿していた。

「ラディエはどうした」
「今回の件をお調べになっておられます。昼前には必ずこちらにおいでになられるので、もうすぐいらっしゃるのではないかと思いますが」
「すぐに呼んで来い」
「かしこまりました」

 コルダは、アユルから空になったカップを受け取ってベッドから数歩離れた。そして、大切なことを思い出して足を止めた。

「王女様がこちらに来られまして、大変ご心配なさっておいででした」
「ラシュリルがここへ来たのか?」
「はい。泣いておられましたよ」
「……夢ではなかったのだな」

 アユルの顔が、色を取り戻してやわらぐ。
 コルダが部屋を出て行ったあと、アユルはベッドをおりて椅子に腰掛けた。東側のステンドグラスに目を向ける。絵の意味はさっぱりわからないが、鮮やかで深い群青色の美しさに見入ってしまう。
 そう言えば、とアユルはラシュリルのドレスを思い出した。会えた歓びに浮かれて、気の利いた言葉ひとつ贈れなかった。

 ――よく似合っていた。

 必ず返すと約束した玉牌は、清殿の書斎に置いてきた。返してしまえばそれきり、縁が切れてしまいそうな気がしたからだ。そのことも話そうと思っていた。それから、故郷キリスヤーナを離れる決心がつくまで待つつもりでいることも。襲撃などされなければ――。

「陛下!」

 勢いよく扉が開き、ラディエが部屋に飛びこんで来た。アユルは、一瞬、身構える。病み上がりの今、ラディエのようながたいのいい男に抱擁されたら、今度こそあっという間に極楽にいってしまう。
 しかし、さすがは一国の宰相たる漢。侍従とは違い、ラディエの行動は冷静だった。ほうっと安堵のため息をついて、アユルの足元にひざまずいた。

「お加減はいかがですか」
「体は何ともないが、まだ指先がしびれている。それで、何かわかったのか?」
「はい。矢に塗られていた毒ですが、キリスヤーナに自生している木の樹液から作られた麻痺毒でございました。致死性の毒ではなく、市中でも売られていて比較的入手しやすいものだそうです」
「なるほど。では、矢じりはどこのものだ」

 ラディエが「失礼を」と立ち上がってアユルに近付く。部屋には二人しかいない。それにもかかわらず、ラディエはアユルの耳元で声をひそめた。

「我が国のものでございました」

 ふいを突かれたように目を見開いて、アユルは声を出して笑った。カデュラスの武具は、特別な製法で鉄を加工して造られる。門外不出であり、他国は同じものを入手することも造ることもできない。カデュラスの関与なしに、カデュラスの矢が刺さるなどあり得ないのだ。無論、ラディエもそれをわかっていて声をひそめた。

「このことは国に知らせたのだろうな」
「あの日、すぐに文を出しました」
「文には何と書いた」
「陛下が襲撃されたとだけ。不確かなことを伝えれば、混乱を招きますので」
「矢じりや矢毒のことは書いていないのだな?」
「はい。陛下の容体についても触れてはおりません」

 アユルは、あごに手を当てて考えを巡らせる。
 射手しゃしゅとの正確な距離はわからないが、姿の見えない場所から的確に射抜いてきた。相当な腕の持ち主だと推測できる。そして、使われたのがただの麻痺毒だったことを思えば、左胸を射抜けたのにそれをしなかった、と解釈するのが自然ではないだろうか。つまり、殺すつもりはなかったのか。

「矢には死に至らしめる毒が塗られていたが、幸いにも一命は取りとめたとつけ加えておけ」
「は……」
「この件は表向きには騒ぎ立てず、慎重に調べつくせ。矢じりのことは誰にもいうな」
「陛下……」
「わざと急所をはずし、わざと死なぬ毒で苦しみを味わわせるとは面白い」
「先日の銅の件と言い、一体何をお考えなのです」
「心配ばかりを先立たせるな。余の言う通りにやれ」
「かしこまりました。では早速、手配してまいります」

 ラディエが部屋を去ったあと、アユルはテーブルに拳を振りおろした。こみ上げたのは、自分への苛立ちだった。反省しなければならない。愚かなのは、無知な官吏どもではなく自分だったと。

 ――決して、二度目はない。

 いやだ、まぶたが腫れてる。
 とりあえず着替えだけを済ませて、ラシュリルは化粧台ドレッサーの鏡を覗きこんだ。泣きすぎて、真っ赤になった痛々しい両目を見て化粧をするのはあきらめる。
 今日も離宮へ行ってみようかしら。ひとり言をいいながら、腰まである長い髪をく。化粧台の隅に置かれた時計の針は、九時十三分を指している。マリージェの部屋にお使いに行ったナヤタがなかなか戻ってこない。髪を高い位置で一つに結んで、窓辺から遠くの海を眺める。
 大きな雪がふわりと舞っているけれど、外は日がさしていい天気だ。それなのに、気分はまったく晴れない。出てくるのは、涙とため息だけ。アユルさま、とラシュリルは胸の前で祈るように手を組んだ。

「ラシュリルさま! 大変です!」

 ナヤタの叫ぶような声が静寂を破る。その声にラシュリルは、ひっと息を吸いこんだ。体から力が抜けて、絨毯敷きの床にぺたんと座りこむ。

 ――嫌、嘘よ……。

 やっと止まった涙が、またあふれてくる。不吉なことを一瞬でも考えたから、こんなよくない最悪のことが起きてしまうのだ。

「ラシュリルさま、しっかりなさってくださいませ。カデュラスの国王陛下がお目覚めになられたそうですよ!」
「……えっ?」
「ハウエルさまが離宮に向かわれました。って、大丈夫ですか?」
「てっ、てっきりアユルさまがお亡くなりになってしまったのだと思ってしまって。悪いけれど手を貸してちょうだい。腰が抜けて……」
「大変! 驚かせてしまって申し訳ございません」

 ナヤタが慌てて手をさしのべる。
 椅子に座ると、すぐにナヤタが苺の果実茶を淹れてくれた。それを口にして心を落ち着ける。ほっとしたら、心なしかお腹がすいてきた。

「ナヤタ。何か食べるものはないかしら」
「ええ、ございますよ。今お出ししようと思っていたところです」
「まあ!」
「ラシュリルさまが朝食も召し上がらないとマリージェさまに言ったら、ほら、ご覧ください。マリージェさまが好きな菓子を焼いてくださいました」
「嬉しい。それで帰りが遅かったのね?」
「はい」

 ラシュリルが、目を輝かせて焼き菓子に手をのばす。その様子に、ナヤタが嬉しそうな顔をして、ラシュリルさまは笑顔が似合いますと言った。