第17話 人質


「何なんだ、あの……っ!!」

 ハウエルは離宮から自室に戻るや否や、手当たりしだいにテーブルの上に並んだ花瓶やティーカップを投げた。陶器が、壁に当たって衝撃音とともに粉々に砕け散る。ハウエルのただならぬ様子に、マリージェとアイデルはただおろおろと狼狽うろたえるしかない。

 目覚めたカデュラス国王に呼ばれてすぐに離宮へ行った。そして、半日も監禁されて心外な調を受けた。

「海に誘ったのは、これが狙いだったのか?」

 陛下がご無事で何よりだと口上したあと、カデュラス国王にかけられた最初の言葉はそれだった。無限の闇のような目で射抜かれて、二の句がつげなかった。それが動揺しているように見えて、余計にカデュラス国王の懐疑心をあおってしまったようだ。
 天使のような、とは言い過ぎかもしれないが、いつも軽やかな笑みをたたえているハウエルの顔は今、悔しさとか怒りとかそういった負の感情に覆われて見る影もない。

 ハウエルには、カデュラス国王に知られてはならない秘密がある。それは、エフタルのことだ。銅の交易について、エフタルに便宜をはかってもらうつもりで書簡のやりとりをしている。そのことを隠すために、命より大事な妹をカデュラス国王に差し出した。忠誠を証明するために人質とすることで、これ以上の取り調べは勘弁してほしいと白旗をあげたのだ。

「アイデル。ラシュリルを呼んできて」
「しかし、ハウエル様。ラシュリル様が聞けば、お心を痛めるのでは」

「僕だって不本意だ。だけど、仕方がないだろう? カデュラス国王は、今回の件で僕を疑っているとはっきり口にした。徹底的に調べられたら、エフタルとのつながりがバレてしまう。そうなったら、エフタルは僕を許さない」

「だからといって、ラシュリル様をしちにさし出すなどあまりにもむごいことでございましょう。今からでも遅くはございません。別の策を考えてはいかがです?」

「よく考えてよ、アイデル。カデュラスの大臣は、キリスヤーナ国王である僕よりも身分が高く財力も権力も持ってる。それらしい理由をつけて首をすげ替えるくらい造作もないはずだ。カデュラス国王に裁かれるかエフタルに命をねらわれるか、僕には今、そのどちらかしかない!」

 テーブルの上のティーカップをつかんで投げようとするハウエルを、マリージェがそっとなだめる。妻の悲しそうな顔を見て、ハウエルは「ごめんね」とティーカップから手を離した。
 時は夕時。空は琥珀のような淡い暖色の夕焼けに染まり、牡丹雪がふわりふわりと舞っている。美しい白銀の景色は鳴りを潜め、やがて獣のうなりり声のような海の音が響く闇に沈む。
 ラシュリルがハウエルの部屋に呼ばれて、事の詳細を聞いたときにはすっかり暗くなっていた。

 離宮では、ラディエが頭を抱えていた。
 公にはしていないが、矢じりはカデュラスのもの。キリスヤーナ国王が先導して事を仕組んだとは考えにくい。それなのに、陛下はキリスヤーナ国王を呼びつけて、開口一番、今回の襲撃を画策したのはそなたかと容疑をかけた。何をお考えなのか、さっぱりわからない。さらに不可解だったのは、キリスヤーナ国王が忠誠の証として妹を差し出したのを陛下があっさりと容認したことだ。

「王女殿が何の役に立つというのです」

 ラディエに詰め寄られたアユルは、ふっと笑って紅茶に口をつけた。キリスヤーナに来て何度飲んだだろうか。最初の一杯は、ハウエルが角砂糖を入れたせいで不味まずかった。甘味は嫌いだ。口の中にねっとりとまとわりつく後味が不快でしかたない。

「王女が何の役に立つかなど、余が知るわけがないだろう。忠誠を示すために命よりも大事な妹を献上すると言ったのはハウエルだ。余が要求したわけではない」
「それはそうですが、陛下。キリスヤーナ国王は、陛下がお疑いになられたから王女殿を献上すると言ったのです。矢じりは我が国のもの。キリスヤーナが関与している可能性は低いでしょう」
「キリスヤーナが関与していないと、本当に言い切れるか?」

 言い切れるか、と言われれば、言い切れない。全容が見えない今、あらゆる可能性が残されているのだ。
 ラディエの沈黙に、アユルはにたりとする。牙城を崩す機会が巡ってきた。矢毒に犯され、生きたまま全身を焼かれるような苦しい目にあったのだ。割に合う代償を支払ってもらわなければ。

「即位して間もない余に銅の交易を奏上するところをみても、ハウエルには何か腹積もりがあるのだろう。すべて憶測の域をこえないが、余は命を狙われたのだ。疑うのは当然ではないか?」
「……確かに、陛下のおっしゃるとおりです」
「役に立つ立たないは余の知ったことではないが、王女の身がこちらにある限りハウエルは下手なことをできない」
「ですが、全容が解明されるまで陛下がキリスヤーナに留まるわけにはまいりません。ただでさえ、今回の件で帰国の予定が遅れています。王女殿をカデュラスへ連行せよとおおせですか」

 アユルはその問いには答えなかった。コルダが夜の食事をテーブルに並べる。
 陛下の言うことに矛盾はない。だが、何か引っかかる。ラディエは曇った表情のまま、主人の食事を邪魔しないように部屋を出て行った。

「宰相様は、アユル様と王女様のことをお気付きではないようですね」
「さあな」
「どうなさるのですか、アユル様」
「ハウエルがラシュリルを人質に差し出すとは……」
「アユル様のお考えどおりではないのですか?」
「まさか。そこまで考えてハウエルを疑ったわけではない。しかし、このままラディエに隠しておくのは得策ではないな」
「では、宰相様にお話しになるのですか?」
「ラディエに認めさせなければ、ラシュリルはただの人質になってしまう。王宮に入れるためにもラシュリルの身を守るためにも、ラディエには知ってもらわなければ」
「お怒りになられるでしょうね。想像するだけで体が震えます」
「世の男どもの気持ちがわかる」
「どういう意味です?」
「皆、妻となる者の両親に許しを得るために頭をさげると聞いたことがある。中には反対されてひどい目にあう男がいるらしいな」
「よくご存知ですね。アユル様は、市井のことにはうとい方だとばかり思っていました」
「口を慎め、コルダ。何も知らないわけではないぞ」
「どなたに聞いたのですか?」
「十年ほど前に、カリナフから聞いた。相手の名前は知らないが、猛烈に反対されて妻にできなかったらしい」
「カデュラス国王の従兄弟いとこで、ティムル家の跡取りであらせられるカリナフ様を断る方がいらっしゃるとは……」
「明日は我が身。まさか、こんな日が来るとは思いもしなかった」
「楽しそうですね、アユル様。宰相様が怖くはないのですか?」
「馬鹿な。ラディエを恐れて、大事なものを守れるか。大体、よく考えてみたら、なぜ私が臣下の許しを得なくてはならないのだ」

 翌朝、部屋にカデュラスの宰相が文官武官を連れてやって来た。
 人質と聞いたときは、正直、耳を疑った。大変なことが起きたのだから、君主である兄の立場が苦しいのはよくわかる。けれど同時に、保身のために切り捨てられたような気がして悲しくもなる。

 ――仕方がないのよ。お兄さまも望んでそうしたわけではないわ。

 ラシュリルは、控え目のドレスに外套を羽織って宮殿を出た。そして、ラディエの後ろを武官につき添われて離宮へ向かった。薄曇りの空が、ごうごうと低く鳴いている。こんな日は、必ず気温がぐっと下がって吹雪になる。
 目覚めたと聞いて、早く顔を見たいと思っていた。兄が離宮から戻ったらすぐに会いに行こうと思っていたのに、思いがけない事態になってしまった。良い方向に考えれば、こそこそと隠れることなく堂々と会えるのだから、喜ばしいことなのかもしれない。

 ――人質が、アユル様にお会いできるのかはわからないけれど。

 ラディエは、カデュラス国王の部屋から一番遠い一室にラシュリルを案内した。武官が、荷物を次々に運び込む。とは言っても、三人の武官が一度に運べる量の荷物だ。宰相に頼んでみたけれど、ナヤタをそばにおくことすら許してもらえなかった。
 ラシュリルひとりを部屋に残して、がしゃんと鍵がかけられる。さらにラディエは、左右の扉の取っ手に鎖をかけた。そして、コルダに鍵を渡すと、矢を調べて来ると言い残して武官とともに離宮を出て行った。
 コルダは、ラディエを追いかけるように外に出る。ラディエの姿が回廊の向こうへ消えるまで深々と頭をさげ、急いでラシュリルが閉じ込められた部屋に戻った。鎖を解いて、鍵を開ける。

「コルダさん!」

 ラシュリルは、驚いた顔をしてコルダに駆け寄った。礼もそこそこに、早くこちらへとコルダが手招きする。

「アユル様がお待ちです。お急ぎください、王女様」
「お会いできるのですか?」
「はい」

 ふたりは、小走りで廊下を移動した。ふと、伯爵夫人の言葉がラシュリルの脳裏をよぎる。少しは王女らしく振る舞いなさいませ。ドレスをたくしあげて走るなど、断じてなりません。
 そう言われたのはいつだったかしら。あんなに努力したのに、全然身についていない。ふふっと笑うラシュリルに、コルダがどうしたのかと尋ねる。わたしって本当に王女らしくないわね、とラシュリルはコルダにほほえんだ。
 アユルの部屋に着くと、コルダは用事があると言ってどこかへ行ってしまった。仕方なく、ラシュリルは扉を少しだけ開けて中の様子をうかがった。

「ラシュリルか?」

 アユルの声に、ラシュリルは「はい」と返事をして部屋に入る。アユルは、ふかふかの枕を背もたれにしてベッドの上に座っていた。ベッドの脇まで行くと、はっきりと顔が見えた。記憶の最後に残っている、死を匂わせるような顔ではなく、いつもの凛とした顔。ただ、口元に無精髭がはえて、少し野性的な感じがする。

「よかった。いつものアユルさまだわ」

 視線を合わせたまま、ラシュリルがベッドに腰掛ける。

「ここへ来たそうだな」
「はい。心配で……」
「ラディエに何か言われなかったか?」
「いいえ。宰相様は何も」
「そなたは嘘が下手だ」
 
 アユルがラシュリルの手首をつかんで引く。肩の傷は痛まないのだろうか。ラシュリルは心配したが、強く引っ張られて、アユルの胸になだれてしまった。

「平気なのですか?」
「傷が? それとも私のしていることが?」

 どきっとして、ほほが熱を帯びる。こんなに近くで、おだやかに微笑まないでほしい。恥ずかしくて顔を見ていられなくなる。ラシュリルはうつむいて、どちらもと口ごもった。アユルが、ラシュリルの前髪を指ですくって耳に掛ける。
 
「私は、心からそなたを愛している」

 矢が突き刺さる音。倒れた体に蒼白な顔。思い出すだけで恐ろしい。失うのが、怖かった。ラシュリルは体を起こしてアユルの左肩にそっとやさしく触れた。

「わたしもです。アユルさまと、ずっとこうしていられたら幸せなのに」
「では、そうするか」
「そうするとは?」
「まだ返事を聞いていなかった」
「……そ、それは」
「私は、あと数日のうちに帰国する。今回のことがなければ急ぐつもりはなかったのだが、私と一緒に来てくれないか」
「でも、わたしはお兄さまの……」
「そなたの本心を知りたい。私にそなたを人質として扱う気は毛頭ないのだから」
「……アユルさまが死んでしまうのではないかと怖かったの。あなたはわたしの大切な人だわ。ずっと一緒にいたい。この命がつきるまで」
「……ラシュリル」

 肩を抱き寄せられて、唇が重なる。熱い。アユルの胸に添えた手のひらに、強い鼓動が伝わってくる。

「んん……っ」

 甘い唾液がたっぷりと絡んで、唇の境界を曖昧にする。体の奥に火がともるのがわかる。ラシュリルはアユルに身を任せた。すると、アユルの唇がなめらかに左に動いてすっと離れた。

「コルダ様より許しが出ていないのでな。ここまでだ」
「まあ」

 ふふっと笑うラシュリルの口元を、アユルが見つめる。

「ひとつ、尋ねたいことがある」
「何ですか?」
「そなたの玉牌だが、大切な宝物だと言っていたな」
「はい。それが何か」
「どこで手に入れた?」
「あれは……、その……」
「言えないのか?」
「そうではなくて、何からお話しすればいいのかと思って。あの玉牌は、母の思い出の品なのです」
「そなたとハウエルの母親か」

 ラシュリルはしばらく黙ったあと、いいえと小さな声で答えた。

「実は今、コルダにそなたの身をあらためるよう命じている。コルダは忠実な男だ。必ずそなたの素性を暴いて私に報告する」
「……どうしてそんなことを?」
「そなたを疑ってのことではない。前にも言ったが、私のそばにいればそなたの身に何かしらの危険が迫る。私はそなたを守るために、そなたのことを知る必要があるのだ。ただ、それをそなたに隠してこそこそとするのは間違っていると思って打ち明けた」

 そう、とラシュリルは母親のことをアユルに話し始めた。
 カデュラスでは身分の高い貴人たちが正妻のほかに妻を持つことが認められているし、それが常識としてまかり通っている。しかし、キリスヤーナは一夫多妻を禁じている国だ。時折、相槌あいづちをうちながら、アユルはラシュリルの話に真剣に耳を傾けた。
 ひとしきり話し終えたラシュリルが、肩の力を抜くようにため息をはく。アユルは、ラシュリルの背に手を回してぎゅっと抱きしめた。
 そのとき、部屋の扉がきぃときしんだ音を立てて開いた。アユルとラシュリルの目が同時にそちらへ向く。

「何をなさっておられるのです、陛下」

 部屋の入口で立ち尽くすラディエの表情や声、全身に計り知れない怒りがこもっている。ラシュリルは急いでアユルから離れようした。けれど、動きを封じるように抱きすくめられてしまった。