第18話 裏切る者と愛する者


 近付いてくる荒い足音に、ごくりとのどが鳴る。ラシュリルは、アユルの衣をつかんで顔を上げた。そして、アユルさま、アユルさま、と声を絞り出す。けれど、アユルは悪びれた様子もなく、それどころか薄笑いさえ浮かべて、ラシュリルを抱いたまま背もたれにしていた枕に背を沈めた。

 ラディエが、ベッドから四、五歩離れたあたりで形式的に礼をとる。腰から抜いた刀を持つ手はかたかたと小刻みに震え、ひたいには青筋まで浮いている。

「早かったな。調べはついたのか?」
「お戯れですか、陛下!」

 静かな部屋に、怒気を含んだ声が響く。あまりの剣幕に、ラシュリルは顔をこわばらせておびえた。それを慰めるように、アユルの手がほほをやさしくでる。

「戯れではない。何せ、ハウエルではなく王女に会うために遥々はるばるこの地へ赴いたのだから」
「ご冗談を。お望みであれば、カデュラスの良家よりいくらでも妃となるに相応ふさわしい方をお選びください。陛下のご帰還に間に合うように手配させておきます」
「他はいらない。王女だけでよい」
「本気でそのようなことをおっしゃっているのですか!」
「戯れではないと言っただろう。二度、言わせるな」
「ご承知のはずです。異民族など言語道断。神の崇高な血がけがれますぞ!」

 かっと目を見開いて、ラディエが一段と語気を強める。
 少し待っていろ。そうラシュリルに言って、アユルはベッドをおりて対峙するようにラディエの前に立った。そして、ラディエより高い位置から見おろし、淡々とした口調で言った。

「無礼者。誰に向かって声を荒げている」

 いつもにも増して冷たい目を向けられて、ラディエは服従の意を示すかのようにその場にひざまずく。頭にのぼった血が一気に降下した。

「……申し訳ございません、陛下。ですが、異民族の女人が王宮に入るなど、永い歴史の中で一度もなかったこと。こればかりは、宰相として認めるわけにはまいりません」

 ラディエ、とアユルがかがむ。

「認めるだと? 笑わせるな。いつからの行いに裁可さいかをくだすほど偉くなった?」
「……陛下」
「それに、そなたらも永い歴史の中で一度もなかったことをしたではないか」

 アユルが左肩をおさえ、意味ありげな含み笑いをする。ラディエはぞわりと背筋を凍らせて生唾を飲んだ。

***

 丸鏡に、赤い紅をさした女人が映っている。
 高く結い上げた黒髪に挿された、花型をあしらったかんざし。それは、華栄殿かえいでんの軒を支える斗栱ときょうのように色鮮やかだ。
 じっと食い入るように鏡の中を覗く。不安に満ちた顔が情けない。王妃の衣をまとっていても、ちっともそれらしくない。神々しい夫の隣に並ぶには、美しさも威厳もまったく足りない気がする。

 ――何を恐れているの。

 鏡の中の自分に問いかける。
 心細さに耐えながら皇極殿こうぎょくでん高座たかくらに上がった日。扇を手渡された瞬間に胸がときめいた。陛下の妻になれて幸せ。この瞬間でさえ、あの方の声やぬくもりをかみしめている。タナシアは、丸鏡を伏せてカイエを呼んだ。

「お呼びでございますか、王妃さま」
「女官を減らします。手配してください」
「はい?」
「陛下の意に沿うのが、王妃であるわたくしの勤めですもの」

 戸惑うカイエを尻目に、タナシアは筆を握る。そして、ほほえみを浮かべて文を書いた。王宮の規則を記した書物は全巻、隅々まで目を通した。陛下の尊名を許しを得ずに呼ぶのはご法度。わかってはいても気持ちを抑えきれない。
 さらさらと筆先を走らせて、アユル様と細くしなやかな文字で呼ぶ。陛下がキリスヤーナから戻られたら、今度こそ声でお呼びしてみよう。

「これを陛下に届けてください」
「はい、お預かりいたします」

 書簡を手に、カイエが足早に華栄殿を出て行く。タナシアの文は、王妃からの正式な書簡として記録されたうえで、使者ではなく官吏の手によってアユルの元へ届けられることになる。

***

 ラディエは、離宮を出て深い深いため息をついた。
 王女に触れるアユルを思い出して、それを打ち消すように首を振る。とても信じられない。かたくなに婚姻をしぶり、挙句には王宮から女官を追い出すほどだったというのに。それに、いつふたりが出会ったのだろうか。謎ばかりが次から次にわいてくる。

 それにしても、困ったことになった。王女を王宮に入れるためには、女官とするかもしくは妃とするか……。どちらにしても簡単ではない。しかし、陛下のいうことは御尤ごもっとも。王に害をなすなど、これまでに聞いたことのない所業だ。決して許されることではない。

「宰相様?」

 コルダの声に、ラディエは我に返った。こちらの状況など知らず、にこやかに笑う侍従じじゅうに無性に腹が立つ。

「勝手に陛下のそばを離れて、どこに行っていた。この、うつけめが」
「お許しください。陛下のめいを受けて、用を済ませてまいりました」
「どんな命だ」

 お許しを、とコルダは一礼した。それは、他言するなと口止めされていることを意味する。ラディエは諦めて、次の質問を投げた。

「お前は知っていたのか?」
「はい?」
「陛下と王女殿の仲を」
「……それは、陛下にお聞きしたのですか?」
「どのようなご様子かと部屋にうかがったら、逢瀬の最中であられた」
「逢瀬ですか……。それは驚かれましたでしょう」
「驚いたどころの騒ぎではない。なぜ言わなかった。私はそんなに信用できないか?」
「いいえ、滅相もございません。わたくしは陛下に従う者でございますので、陛下のご下命なしに勝手に口にしたり動いたりいたしません。ただそれだけでございます。曲解なさらないでくださいませ、宰相様」

 ふん、とラディエは左右互いの袖に冷えた手をしまう。そして、三日後に帰国なさるそうだ、とだけ言い残して離宮をあとにした。

「ラシュリル、こちらへ来い」

 窓際のテーブルから手招きされて、ラシュリルはベッドをおりた。まだ、心臓がばくばくして、心なしか足が震える。喉もからからだ。アユルは、椅子に座って窓の外を眺めている。吹雪になるかと思ったのに、よく晴れてあたたかな日の光が窓にさしこんでいた。

「アユルさま。傷は大丈夫ですか?」
「何ともない。話をしたい。そこへ座れ」
「その前に飲み物を用意して来ます。喉がかわいてしまって」
「できるのか」
「そ、それくらいは……。上手ではありませんけれど」
「わかった」

 アユルがテーブルに頬杖ほおづえをついて待っていると、ラシュリルがティーカップを二脚、盆に乗せて持って来た。そして、テーブルにそれを並べて、向かいの椅子に座る。

「少し、落ち着く時間をいただいてもいいですか?」
「構わない」

 ティーカップから、甘酸っぱい香りが漂ってくる。ふぅっと優しい息で湯気を散らして、ラシュリルがカップに口を付けた。

「よい香りだ。そなたはいつも果実茶を飲むのだな」
「香りのするお茶が大好きで」
「嬉しそうだな」
「はい。だって、こうやってアユルさまとお茶をするなんて幸せですもの」
「そうか」

 ほがらかに笑う愛らしい顔。一緒に時間を過ごせて幸せなのは私も同じだ、とアユルは思う。この笑顔を見ていられるのなら、どのようなことでもする。そう決めたのだ。

「ひとつ、覚えていてほしいことがある」
「はい」
「カデュラスでは菊花茶を口にするな」
「なぜですか? 甘くて美味しいのに……」
「王宮で煎じられる菊花茶を飲むと、子が出来ない」
「こっ?」

 思わず素っ頓狂な声が出る。ラシュリルはカップを置いて咳き込んだ。顔がぼんっと熱くなるのがわかる。

「そういう効果のある薬を混ぜた水で菊を育てるらしくてな。王家の秘伝で侍医じいしか知らないことだが、気をつけておけ」
「……は、はい」

 真面目な話なのはわかるけれど、恥ずかしくて顔を見れない。ラシュリルは、テーブルに置いたカップに浮かぶ苺の実を見ながら、胸を押さえて耳まで赤くした。

「どうした」
「ア、アユルさまの、お、御子だなんて……。まだ想像もしていなかったので」
「そうだな。まだ先の話だ」

 アユルの手が伸びて、さらさらと艶やかな黒髪が指にすくわれる。指が髪を巻きつけながら、ふたりの距離を縮めていく。向けられる慈愛に満ちた眼差しに、落ち着いたばかりの心臓がうるさくなる。

「宰相さまは大丈夫でしょうか」
「怖かったか?」
「……はい。それに、わたしがカデュラスの人ではないから……。だから、宰相さまはいつも険しいお顔をなさっておられたのだわ」
「気にするな」
「でも」
「そばに来い」
「はい」

 ラシュリルが、席を立ってアユルに近付く。アユルはラシュリルを膝の上に座らせた。ふわりと漂う桂花の香りが、狂おしい気持ちを呼び起こす。みぞぎの日、運命が大きく変わった。この気持ちを知った今、絶対に手放したくない。

「私のことが好きか?」
「もちろんです」
「私はそなたに出会って、すっかり桂花の香りにとらわれてしまった」
「……アユルさま」
「他の者が入り込めないほど互いを愛し抜いてこそ、私たちは添い遂げられる」

 はい、と照れながら、ラシュリルがアユルの首に腕を回す。そして、目を閉じて、ちゅっと口付けた。

***

 その日もエフタルは早朝に華栄殿へやって来た。
 タナシアは、深いため息をついて父親を迎える。昨日、キリスヤーナから無事に銅の交易について許可が出たと知らせが届き、エフタルはいたく上機嫌だった。

「タナシア、王印はあったか?」
「はい。清殿にござい、ました」

 わずかな戸惑いが、喉を締めつけて言葉に詰まる。タナシアは、カイエが用意してくれた白湯で喉を潤した。

「ならば、今からこれに王印を押して来い。私はここで待っておる」

 差し出されたのは、紫檀の軸に巻かれた書簡だった。それには「許」の文字が堂々と書かれている。内容は難しくて読み取れないが、明らかに詔書しょうしょだ。タナシアは、驚いて目を丸くした。

「父上、これは陛下がお許しになられたことにございますか?」
「あの若造の意思などどうでもよい。お前は父の言うとおりにすればよいのだ。それとも私が行くか? 私が清殿に入るところを見られれば、それこそ一大事。一族郎党、即斬首ぞ」
「父上、わたくしは陛下をお慕い申し上げております。ですから、あの若造などとお呼びにならないでくださいませ。それに、そのようなことは……」
「いい加減に自覚せぬか。王とは権力の的に過ぎぬ。せっかく我が家から王妃を立てたのだ。慕っているのなら早く世継ぎを得るように努めよ」

 エフタルがにやにやと嫌らしい笑いをタナシアに向けて、早くとあごをしゃくる。タナシアは、仕方なく書簡を持って清殿へ向かった。

「カイエ、鍵をお願い」
「陛下に知れたなら大変なことになります。どうかお止めくださいませ、王妃さま」

 カイエはすがるように止めたが、タナシアは「早く、鍵を」と言った。扉が開くと、タナシアは急いで清殿の中に身を滑り込ませる。
 先日と違い、窓の障子が淡い橙色だいだいいろの朝日を透かして、心があたたまるような明るさだった。タナシアは迷うことなく書斎へたどり着いた。
 机上に詔書を広げて、引出しから王印が入っている桐箱を取り出す。動揺して桐箱を開ける手がかすかに震えたが、タナシアは意を決して王印を取り出した。
 黄金に輝くそれを紅い印肉に押しつける。印面に印肉が付いたのを確認して、詔書の上に王印をおろす。そして、体重をかけて、ぐっと上から押えた。

 ――どうか、どうか、お許しください。陛下。

 許しを乞いながら、ゆっくりと王印を詔書から離す。もう後戻りは出来ない。けれど、これきりなのだから大丈夫。陛下がお戻りになれば、父上もこんなことを頼みには来ないはずだもの。

 ふと横を見ると、書物の間から赤い飾り紐が垂れている。それを気にしながら、懐紙かいしを出して印面を丁寧に拭く。それを桐箱に戻して、書物の下から玉牌を抜き取った。とても美しい翡翠ひすい。しかし、四家の者が持つ玉牌に比べたら、いくらか質が落ちる。

「王妃様、お急ぎください」

 カイエが書斎に入って来た。タナシアは玉牌を書物の間にはさんで、引出しに王印の桐箱をしまった。そして、詔書を手に急いで華栄殿へ戻った。震える娘の手から取り上げるように書簡を受け取って、エフタルが満足気にうなずく。

「どうか、これきりにしてくださいませ。陛下がこのことを知ったら……」
「知ったところで、あれに何ができる。我ら四家の後ろ盾なくては、カデュラ家は成り立たぬ。己の無力さを痛感して、穏便にことを収めるしかない。もはや、王など血統書付きの種馬のようなものゆえな」
「父上、何とおぞましいことを!」
「お前はこうして父の言うことを聞き、あれを王宮にとどめておけばよい。澄ました顔をしていても、あれは好色なマハールの息子。美しい花を与えれば、まつりごとへの興味などすぐに失せる」