第19話 桂花と梔子


 ハウエルは、執務室で頭を抱えていた。妹をカデュラス国王に差し出して自分の身は守れた。しかし、彼女を取り戻すためには、徹底的な調べを受ける覚悟をしなければならない。そうすると、やはり、エフタルとの内密なつながりを知られてしまうだろう。

 ――どうすればいいんだ。

 どうにかして、カデュラスへ連れて行かれるのを阻止したい。けれども、時間も知恵もない。あるのは身を破滅に導く秘密だけ。
 銅が欲しかったのは、民の暮らしを良くしたかったからだ。キリスヤーナでは銅を採ることも製錬することもできない。だから、隣国のサリタカルと交易する必要があった。しかし、一国の君主とは名ばかりで、民のことなど知りもしないカデュラス国王の許可がなければ何ひとつ思い通りにできないのだ。千数百年前に失った王権さえ取り戻せれば……。そう思ったのが、ことの始まりで過ちだった。

 こんこん。
 扉をノックする音がした。ハウエルが返事をすると、王都の統括を任せている叔父のオリアレン公ミジュティーが、ひとりの女性を連れて入ってきた。こしのある黒髪をひとつに結わえ、控え目な華のないドレスの彼女は、とても王女の母親とは思えない。
 ハウエルは叔父に挨拶をしたあと、その女性の前に立って会釈した。彼女を見るのは何年ぶりだろうか。髪の色も目の色も、姿かたちが妹と瓜二つだ。

 二十年ほど前に、時のカデュラス国王マハール陛下に謁見に行った父王が連れて帰ってきた女性。一夫多妻を禁じるこの国で、妃を持つ身でありながら父王は彼女との間に子をもうけた。誰からも愛される、太陽のようなラシュリルを――。

「お越しいただいて感謝します、ラウナ様」

 ラウナと呼ばれた女性は、膝を折ってドレスを持ち上げると「ごきげんよう、ハウエルさま」と頭をさげた。
 一夫多妻を禁じるとは言っても、それは法の上のこと。上流階級の貴族たちは、愛妾を持ったり一夜の火遊びを楽しんだりしている。夫婦、恋人……、相手パートナーを取り替えて情事を愉しむ輩もいる。

 当時、父王はカリノス宮殿の一室を彼女に与え、そこに住まわせるつもりでいたらしい。しかし、彼女はそれを断った。愛娘を取り上げられ、父王には会うこともできず、王都の屋敷でひっそりとひとりで暮らしている。

「お話はミジュティーさまからうかがいましたわ」
「僕の不手際で、ラウナ様にはご心労をおかけすることになってしまった。お詫びします」
「……いいえ。それで、ラシュリルはどちらに?」
「離宮に。これから叔父上がご案内します。僕は、カデュラス国王陛下からラシュリルに会うことを禁じられていますので」

 叔父上、とハウエルがミジュティーに目配せする。ミジュティーは黙って頷くと、ラウナと連れて執務室を出て行った。外は、目を開けていられないほどの吹雪だった。

 ラディエは、目を細めて宿泊している建物を出た。
 陛下が、王女様のお母上を離宮へお呼びになられました。コルダがそう報告に来たのはつい先ほどのことだった。

 カデュラス国王の出立を明日に控えて、付き人たちが朝早くから忙しなくその準備に追われている。ラディエは、ひとりの付き人が吹雪の中、洗い物をしているのを目にして立ち止まった。そして、何気なく近付いて、労いの言葉をかけた。

「このように冷える日は、大変であろう。ご苦労だな」
「い、いいえ、宰相様。恐悦至極にございます」

 その年若い付き人は、慌てて前掛けで濡れた手をぬぐった。冷え切って真っ赤になった指先。役目とは言えども、慣れない土地で寒空のもと難儀なことだ。帰国した折には褒美を与えねば、と考えたとき、ラディエはふと、彼の右の人差し指にざっくりと割れた切り傷のようなものがあることに気付いた。

「その傷はどうした」
「はい?」
「右手の傷のことだ」
 
 付き人は狼狽うろたえたような顔をして、何でもございませんと手を前掛けで包む。その様子はひどく不自然に見えたが、しかし謙虚さのあらわれのようでもあり、ラディエは特に気には留めなかった。

「お前の名は?」
「は、はい。ファユと申します」
「私はこれから離宮に行かねばならん。上の者に言って、傷に効く薬をもらうがいい。それから、水仕事ではなく別の仕事にかえてもらえ」
「あ、あありがとうございます、宰相様」

 アユルは昨夜、ハウエルを部屋に呼び、離宮の応接室に王女の母親を連れてくるようめいじた。
 カデュラス国王が襲撃された件で、キリスヤーナ国王をはじめとした要人たちが査問を受けている。王女の母親も例外ではない。しかし、それは表向きの理由だった。

 ラシュリルの話では、幼いころに父親に引き取られてから母親と会ったのは数えるほどで、もう何年も顔を見ていないという。国を離れる前に、ラシュリルと母親を会わせてやりたい。そう思ってのことだった。それに、どうしてもラシュリルの母親に確認したいことがあった。

「少し落ち着いたらどうだ」
「だって、信じられないのですもの。お母さまが会いに来てくださるなんて」
「私が命じたのだ。必ず来るから、とりあえず座れ」

 アユルから呆れたような視線を向けられて、ラシュリルはようやく席についた。
 胸が躍る。最後に会ったのは、デビュタントとして舞踏会でダンスをした十二歳の夜だった。大きくなったわね。そう言って、お母さまはやさしく抱きしめてくれた。その夜は、お母さまとふたりで過ごすことを許されて、積もりに積もった話をたくさんしたことを覚えている。

 ラシュリルは隣の席に目を向ける。アユルは眉間にしわを寄せて、真剣な顔で書簡に目を通していた。
 優雅な姿も素敵。けれど、わたしのすべてを受け入れて愛してくださるのが何よりも嬉しいの。わたしもそうありたい。生まれ育った場所を離れるのは寂しくてつらいことだけれど、大丈夫。アユルさまのことを信じて、愛し抜いて、幸せにしてさしあげたい。
 視線に気付いたアユルが、書物をテーブルに置いてラシュリルに顔を向けた。

「ありがとうございます、アユルさま」
「礼には及ばない。私もそなたの母君に用があるのでな」
「お母さまに……、ですか?」
「ああ。私の用が済んだら、心ゆくまで母娘おやこの時間を過ごすとよい」
「はい!」

 しばらく待っていると、コルダの先触れがあった。そして、ラディエとミジュティーに続いて、ラウナが部屋に入って来た。ラシュリルは、母親に駆け寄って抱きつきたい衝動をぐっとこらえる。
 各々の挨拶を受けたあと、アユルはラウナだけを残して他は隣室で待つよう命じた。ラディエの眉がぴくりとしたが、アユルはそれに気付かぬふりをして、ラウナに向かいの席をさした。

「恐れ多くも、カデュラス国王陛下に……」
「堅苦しい挨拶はよい。楽に」
「はい」

 ラウナが、しずしずと席に座る。そして、カデュラス国王の隣のラシュリルにほほえんだ。

「再会に水を差して悪いが、母君に尋ねたいことがある」

 何でございましょう、とラウナがアユルを向く。アユルの淡々とした口調に、ラシュリルは少しひやりとした。

「玉牌のことを詳しく教えてほしい」
「ラシュリルに持たせた玉牌のことでしょうか」
「そうだ。そなたのことは、先立ってラシュリルから聞いている。なぜ商家の娘が玉牌を持っているのか、それを知りたい」
「……わかりました」

 あれは二十数年前のことでございます、とラウナが静かに話し始める。
 ラウナの実家は、カナヤで宿屋を営んでいた。大通りから少し外れた人通りの少ない場所にあって、他国の商人が多く宿泊する店だった。とても繁盛していて、朝から晩まで忙しい両親を助けようと、ラウナは店を手伝っていた。

 そんなある日だった。雨が激しく降る初夏の昼下がり、ラウナが店番をしていると、ひとりの若い女性が入ってきた。そのつぼ装束の女性は、かぶっていた苧麻からむしの布をれた藺笠いがさを脱いで、ひと部屋貸してほしいと言った。それから月に一度か二度、同じ時刻にやって来て、数時間だけ部屋を借りるようになった。

「そうして何度も顔を合せるうちに親しくなって、良くしてくれた御礼にとあの玉牌をくださったのです」
「玉牌は身分証だ。それを他人に渡すとは……。その女人の名はわかるか?」
「はい。アイルタユナとおっしゃる方です」
「……アイル、タ……ユナ……?」

 覚えのある名前に、アユルはあからさまに驚いた顔をする。アイルタユナというのは、とてもめずらしい名前だ。玉牌を持てる身分で、そんなめずらしい名の者がふたりいるとは考えられない。それも二十数年まえ。時期もぴたりと一致する。

「一度聞いたら忘れられない素敵なお名前ですもの。お元気にお過ごしなのかと、今でも懐かしく思い出します」
「その者は、どういった目的で部屋を借りていたのだろうか」
「待ち合わせを」
「待ち合わせ?」
「さる殿方とお会いになるために」
「その男とは誰だ」
「御名は存じ上げませんが、高価なお召し物と……。確か、腰に梔子くちなしの玉牌を下げておられました」

 アユルは、目を見開いて言葉を失った。
 ラシュリルがカデュラスの高家と関係があるのではないかと思って母親に確かめた。それが、とんでもない話を聞いてしまった。胸がざわざわと気持ちが悪い。こんなに息が詰まるような感覚は初めてだ。

 楽しく会話を弾ませる母娘を残して、アユルは応接室を出る。廊下で、コルダが待っていた。そのやさしげな相貌は、思い出の中の貴妃様にそっくりだ。本人はどう思っているのだろう。あれから貴妃様のことは一度も口にしたことはない。だが、知りたいのだろうか。貴妃様が身を挺して守った男を。父親を――。

「アユル様、もう宜しいのでございますか?」
「ああ、こちらの用は済んだからな。ラシュリルの気が済むまで母親と一緒にいさせてやれ」
「はい。宰相様とミジュティー様が隣の部屋でお待ちですが」
「ふたりは私の部屋へ。ハウエルの叔父と話しをしてみたい」

 ラシュリルは、椅子をラウナの横に移動して紅茶を淹れた。どうぞ、とティーカップをすすめる指先についつい力が入ってしまう。
 ラウナが、ラシュリルの黒髪をでながら「元気そうで安心したわ」とつぶやくように言った。

「元気だけが、わたしの取り柄だもの。心配しないで、お母さま」
「つらいことがあったら、あなたを愛して大切にしてくださった人たちのことを思い出すのよ」
「はい」
「あなたは私の誇りよ、ラシュリル」
「もう、お母さま。これではまるで、今生の別れみたいだわ」
「……そうね。縁起でもないわね」

 ふふっとラシュリルが笑うと、それにつられてラウナも声を立てて笑った。それから時間が経つのを忘れて、ラシュリルとラウナは水入らずの時間を過ごした。ラウナがカリノス宮殿を出たのは、すっかり夜が更けたころだった。

 明日は出立の日。
 人質としてラシュリルを閉じ込めた部屋から、武官たちが荷を運び出した。残されたのは、明日着る服と身の回りの物だけだった。
 湯を浴びて、肩の手当てを済ませたアユルは、ごろんとベッドに仰向けになって天井画を眺めた。ひとときそうして体を起こし、自分の枕をずらして隣にもうひとつ並べる。

 ――ご恩に報いること叶いませんけれど、お許しくださいませね。

 痛々しい顔のあざと骨の折れた指。そして、貴妃の消え入りそうなはかなくやさしい声がよみがえる。何ということだ。貴妃様が巡り合わせてくださったのか……。

「あの、アユルさま」

 ふり返ると、ぶかぶかの夜着を着たラシュリルが立っていた。アユルとの身丈の差分だけ裾を引きずって、はだけないように胸をおさえている。やはり私のでは大きかったか、とアユルが笑う。
 ラシュリルは、ベッドに上がると同時に布団に潜り込んだ。これで一安心、ラシュリルがそう思った瞬間、掛け布団をはぐられた。

「どうした」
「いっ、いえ、何でもありません。お、お願いです、お布団を……っ!」
「わかった」

 布団を掛けてやると、ラシュリルが真っ赤な顔を半分だけ出して恨めしそうな目を向けてきた。アユルはラシュリルのそばに横たわる。洗ったばかりの湿った黒髪から、ほのかに漂う桂花の香り。嫌味のない、甘くやさしい匂いだ。

「アユルさま、今日はありがとうございました。お母さまとたくさん話ができて幸せでした」
「それはよかった。だが、余計に寂しくなったのではないか?」
「いいえ、アユルさまが一緒にいてくださるもの。寂しくなんてありません。けど……」
「けど?」
「心臓が持つかしら。今もとっても、その……」

 ふわりと布団が舞い上がって、アユルがラシュリルに覆いかぶさる。
 最近は少し積極的になったかと思っていたのに、恥ずかしがるところを見ると、やはりまだまだ稽古が足りないようだ。しかし、それもよい。
 ふっくらとした柔らかな唇に口付けを落として、首筋に顔をうずめる。夜着の上から左の乳房に手を当てると、確かにばくばくとおかしくなりそうな鼓動が伝わってくる。

「だめ、アユルさま。明日から長旅……っ」

 鎖骨のそばを甘く噛まれて、思わず声が上ずる。ラシュリルは、アユルの頭をそっと撫でてみた。硬い黒髪からジャスミンが香る。石鹸せっけんの効果で、肌もつるつるとして潤っているのかしら。そんなことを考えて、ふふっと笑みがこぼれてしまう。

「……ラシュリル」

 いつの間にか腰紐が解かれて、夜着が左右に開かれていた。熱い吐息が肌をかすめて、舌に胸の頂を転がされる。太腿ふとももに触れる手のぬくもりも、声も、目も、全部が好き。
 ラシュリルの口から、つやめく声が漏れる。キリスヤーナで過ごす最後の夜、アユルはラシュリルに自身を沈めたまま深い眠りについた。