第20話 宰相と王女


 朝日がさしこんで、淡い桃色の大理石の床に列柱の影が落ちる回廊を、カデュラス国王とその一行が歩いてくる。ハウエルは、妻と上位の貴族たちを従えてカデュラス国王を迎えた。一行の列の中ほどに、前後両脇を武官に囲まれた妹の姿が見える。隣でマリージェが、ラシュリルと小さく声を震わせた。結局、妹をとどめる策は見つからなかった。

「陛下」

 ハウエルに呼ばれて、アユルは足を止めた。
 昨夜はあまり眠れなかったのか、ハウエルの顔色は冴えず、目の下にうっすらと影ができている。くるりとした金の髪も、心なしかぺたんとして元気がない。昨夜ラウナの帰りが遅かったことで、相当な探りを入れられたとでも思い込んでいるのだろう。母娘おやこで楽しく歓談していたぞ、とでも言って元気づけてやりたいが、今はそれをすべきではない。

「僕は忠誠の証として妹を陛下に預けました。お願いです。ラシュリルに手荒なことはなさらないでください」
「それは、そちら次第だ。妹が大事なら下手なことはするな」

 はい、とハウエルが顔を伏せる。その横で、ハウエルの妃がラシュリルの方を向いて目に涙をためていた。それからアユルが貴族たちの列を見渡すと、ラシュリルと変わらない年ごろの令嬢たちが手巾を目に当てていた。皆、親しんだ王女との別れがつらく悲しいのだろう。

 ――あたたかな場所で育ったのだな。

 アユルはラディエをそばに呼ぶと、王女に最後の別れをさせれやれと言って庭へ向かった。
 雪をかぶった春の女神像が凍った噴水を見下ろす庭で、出立の準備を終えた従者たちが列をなしていた。アユルは左肩をおさえて、わずかに顔をしかめる。時々、焼けるような痛みがぶり返し、左手の指先には未だにしびれが残っている。

「傷が痛みますか?」

 コルダが心配そうに尋ねる。アユルは、大丈夫だと答えて馬車に乗りこんだ。しばらくして、ラディエとラシュリルが庭に出てきた。寂しくなんてないと言っていたが、本当に嘘が下手だ。アユルはコルダを呼んで声を落とした。

「カデュラスに着くまで、お前はラシュリルのそばにいろ」
「御意に」
「私はラディエの説教を聞きながらサリタカルへ向かうとしよう」
「平和的にお話し合いください」
「私はそのつもりだが、ラディエはどうだろうな」

 泣いて目を真っ赤にした王女を連れて、カデュラス国王が帰国の途についたのは、昨日の吹雪が嘘のように青空が頭上に広がる日のことだった。
 それから十三日後、一行はキリスヤーナとサリタカルの国境に着いた。そこでサリタカル国王が、兵を従えて待っていた。サリタカル国王はマハールと変わらない年ごろで、カデュラスに敬虔けいけんの念が深い。

「ラディエ様より知らせをいただいております、陛下」

 サリタカル国王はアユルに叩頭こうとうして立ち上がると、後続の馬車からおりてきたラシュリルに会釈した。キリスヤーナとの国境からサリタカルの首都までは、さらに数日を要する。アユルは再びラディエの小言につき合いながら、サリタカル国王の居城へ向かった。

***

 ダガラ城の皇極殿では、官吏たちが集まって大変な騒ぎとなっていた。陛下が矢で射たれたと、宰相から書簡が届いたのだ。さらに数日後、また宰相からの知らせが入った。第一報には「それは何たることだ」と驚いたふりをしてみせたエフタルだったが、二通目の書簡に目を通して本気で驚愕しなくてはならなかった。

「どういうことだ!」

 皇極殿に、エフタルの声が響く。陛下を射た矢には、死に至らしめる毒がぬられていた。書簡にはっきりとそう書かれている。死に至らしめるとはどういうことだ。ただ少しばかり苦しめるだけではなかったのか。エフタルは、怒りに燃える目を末席の武官に向けた。それに気付いた武官が、青ざめた顔で身に覚えがないと必死に首を振る。

「それで、陛下はご無事なのであろうな」
「しばらくせておられたそうでございますが、ご無事だと書かれております」
「それは幸い」
「しかし、神たるカデュラス国王が傷つけられるなど前代未聞」
「首謀者を突き止めて厳罰に処するべきでございましょう」

 官吏たちは、口々に言い合った。
 ざわめきの中、エフタルは考えを巡らせる。武官を問い詰めるにしても、とにかく今は疑いの矛先がこちらに向かないように手を打っておかなくては……。

「もしや、キリスヤーナ国王がはかったのではないか?」

 エフタルの投げたひと言に、ざわめきが一層大きくなった。
 陛下に害をなすとは尋常ではない。もし、それが事実なら、守られてきた主従関係を覆す由々しきことだ。到底、許されることではない。そんな官吏たちの発言を聞きながら、エフタルはふぅと深く息を吐く。

「エフタル様」

 それも束の間、落ち着いた声に皇極殿が一気に静まった。そして、声の主に視線が集中する。
 皆の視線の先、エフタルの向かい側で、若い男が優雅な身のこなしで扇を閉じた。殿上人は皆、髪を結って漆紗冠しっしゃかんを着用しているのに、その男は流れるような黒髪を背に流して、女のように組紐で束ねている。他の者とは明らかに異質だ。

「何だ、カリナフ」

 じろりとエフタルに睨まれ、カリナフは軽く一礼して敵意がないことを示す。

「なぜキリスヤーナ国王の仕業だと思われるのですか、エフタル様」
「それは、調べてみなければわからぬ。すぐに使者をキリスヤーナにつかわして……」
「いえ、エフタル様。なぜそう思われたのか、理由をおうかがいしたのです。陛下がキリスヤーナ国王の要求を退けたのなら道理もございましょう。しかし、陛下は銅の交易をお認めになられました。キリスヤーナ国王に、陛下を害する理由があるでしょうか」

 ふたりの掛け合いに、皆が固唾かたずをのんで耳を傾ける。

「キリスヤーナ国王が陛下をこころよく思っておらぬのではないか」
「それはまた……。もしや、エフタル様はキリスヤーナ国王と親交がおありなのですか?」
「な、何が言いたいのだ、カリナフ」

 エフタルは、袖の中で拳を握った手を震わせた。
 相手は四家のひとつティムル家の跡取りで、カデュラス国王の従兄弟でもある。他の者であれば、生意気だと一蹴するところだが、それはできない。
 たじろぐエフタルをよそに、カリナフがはらりと扇を広げて口元を隠す。そして、どことなくアユルに似た眉目清秀な顔をくしゃりとほころばせた。

「怖い顔をなさらないでください。エフタル様の機転に感心いたしたのですよ。私の頭には、キリスヤーナ国王が二心ふたごころを抱いているなどと突拍子もないこと、露ほどにも浮かびませんでした。ですから、本人の口から聞いたのかと思っただけのこと」
「何を言う。他国の君主と個人的に親交を持つなどあり得ぬ。たっ……、ただの勘だ」
「勘でございますか。では、ひとつ諫言かんげんいたします」
「諫言だと?」
「はい。エフタル様は、すぐに使者をキリスヤーナに遣わして、とおっしゃいました。ですが、根拠のない己の勘だけで、陛下の御下命なしに動くことは明らかな越権。キリスヤーナ国王の前に、エフタル様自身が二心を疑われてしまいますよ」

***

 サリタカル国王の居城に、カデュラス国王一行が到着した。ちょうど昼時だった。アユルたちをもてなすため、サリタカル国王は会食の席をもうけていた。ラディエはもちろん、随行している官吏たちも同席しての宴席だ。
 ラシュリルは、コルダに案内されて城の一角にある部屋に入った。あくまでも人質である身。ラディエの計らいで、ラシュリルは人目にさらされないよう会食には参席せず、別室で昼食をとることになったのだった。

「ねぇ、コルダさん。キリスヤーナを出るときからずっとわたしと一緒だけれど、アユルさまのそばにいなくてもいいのですか?」
「アユル様には宰相様がついておられますので心配はご無用です」
「ありがとう、いつも気を遣ってくれて」
「わたくしに礼は不要です、王女様。昼食を用意いたしますので、ここでお待ちになっていてください」

 ラシュリルはコルダが並べてくれた食事を食べて、甜茶を味わいながら一息ついた。キリスヤーナを発ってから、ラシュリルは一度もアユルと言葉を交わしていない。常に行動は別で、遠目から姿を眺めるだけだった。
 仕方がないと思いながらも、やはり寂しい。ナヤタもいないし……。無意識にため息が出てしまう。
 そんなラシュリルを気にかけるように、コルダが「王女様」と言ったときだった。ラディエが部屋を訪ねて来た。ラディエはコルダをさげて、ラシュリルの向かいに正座した。ふたりの間に、重たく気まずい沈黙が流れる。

「陛下は、サリタカル国王と会談をなさっておられます」
「……そうですか」
「そう縮こまらないでください。あなたにお渡ししたい物があって来ただけだ」

 ラディエが懐から白い物を取り出す。それを見て、ラシュリルは思わず「あっ!」と小さな声を上げた。

「キリスヤーナであなたの荷をあらためたときに出て来ました」
「ごめんなさい。お返ししようと思っていたのですけれど……」
「陛下があなたに会うためにキリスヤーナに赴いたという話は嘘ではないようだ。思えば、御即位なさる前から、陛下はこれを身に着けておられなかった。つまり、以前にあなたと会って、これをお渡しになったのでしょう」

 ラディエが両手を添えて、菖蒲あやめの玉牌をさし出す。ラシュリルはそれを受け取って、抱きしめるように胸に押しつけた。

「陛下の御ために、あなたには身を引いていただきたい。キリスヤーナ国王の潔白が明らかになったら、すみやかに国へ帰ってほしい。宰相として、私はそう思っています」
「わたしが異民族だからですか?」
「そうです。それに、あなたは後ろ盾となるものをお持ちではなく、陛下の弱みにしかならない。陛下の妃というのは、恋情よりも身分や政治的な価値が必要とされるのです。おわかりか?」

 鋭く射抜くようなラディエの目。手元の玉牌を見つめて、ラシュリルははっとした。

「もしかして、これを陛下にお返しして身を引けとおっしゃるのですか?」
「いかにも。今宵、陛下にお目通りできるよう手配いたします。それまでよくお考えください」

 では、とラディエが立ち上がる。ラシュリルは慌ててラディエを呼び止めた。だが、ラディエは冷たい視線を残して部屋を出て行ってしまった。
 体から力が抜けていく。身分や政治的な価値。必要なのはわかるけれど、とラシュリルは玉牌を握ったまま膝を抱える。身近にハウエルとマリージェを見てきたラシュリルにとって、それはとても悲しい響きだった。異民族だと拒否されることよりも、アユルがあわれで言葉にならない。王宮の美しい夜を思い出して、余計に胸が締めつけられた。

 ラディエが部屋を出ると、すぐそこにコルダが立っていた。コルダはいつになく真剣な顔をして、ラディエに近付いた。

「宰相様。陛下の了承を得てのことですか?」
「盗み聞きとは、無礼な侍従め」
「聞き耳を立てていただけです。陛下より王女様のことを任されていますので。それで、陛下はこのことをご存知なのですか?」
「そんなわけがあるか。ここに来るまで、陛下に考えを改めるようしつこく進言したが、気持ちは揺らがないと一蹴されてしまった。王女殿もそうでなくては不幸になるだけだ。私の言葉で諦めがつくような気持ちなら、その程度だということ」
「あの、宰相様」
「何だ」
「怖いお顔立ちのせいか、いまいち宰相様の優しさが伝わらないのが非常に無念でなりません」
「コルダ。貴様、陛下の侍従だからと調子に乗るなよ」

 コルダの脇腹を小突いて、ラディエが表情をやわらげる。ラディエが去ったあと、コルダは少しだけ戸を開けて中の様子をうかがった。ラシュリルは、座ったまま玉牌とにらめっこをしている。しばらくひとりにしておこうと、コルダはそっと戸を閉めて部屋を離れた。

 その夜、ラシュリルは用意されたカデュラスの衣装を着てアユルの部屋に向かった。レースがひらひらとした服は見苦しいとラディエが苦言を呈したのだとか。何よりラシュリルを驚かせたのは、薄桃色や赤を重ねた小袿こうちぎを選んだのがラディエだということだった。衣装を吟味するラディエを想像して、お父さまみたいだと思わず笑みがこぼれてしまう。

「心は決まりましたか、王女殿」

 前を歩くラディエに聞かれて、ラシュリルは「はい」と答えた。城内の一際豪華な扉を開けて、ラディエが中に入るよう言う。ラシュリルは、ごくっと喉を鳴らして部屋の奥を目指した。

 そのとき、アユルは眉間にしわを寄せて手元に届いたばかりの書簡に目を通していた。陛下ではなくアユル様と書き出された書簡には、夫の帰りを待ちわびる妻の言葉がつづられている。突きつけられる現実。カデュラスに戻れば、否応なしに王妃との暮らしが待っている。心が熱を失って、一気に冷えていくようだ。
 アユルはタナシアの書簡を床に放り投げた。それからひと呼吸おくくらいの差で、ラシュリルが部屋に入って来た。

「久しぶりだな」

 アユルがそう言うと、ラシュリルは何も言わずに視線をはずしてそこに腰をおろした。王女殿がお話ししたいことがあるそうで、とラディエから聞いていたアユルは、ラシュリルの様子を不思議に思いながら立ち上がる。そして、ラシュリルの前に座ってうつむく顔を覗きこんだ。

「アユルさま」
「うん?」

 やっと声を聞けたのに、それを喜ぶような心境になれない。ラシュリルは、ごそごそと胸元からアユルの玉牌を取り出した。心は決めたけれど、いざ口にしようと思うと勇気がいるし、やっぱり迷いが生じてしまう。わたしが決めたことは本当に正しいのかしら、と。
 ラシュリルは、アユルの手を取って手のひらに玉牌を乗せた。

「ずっとお預かりしていたアユルさまの玉牌を、今お返ししますね」