第22話 染色


 アユルが清殿に行くと、女官がひとり妻戸つまどの前に座していた。
 女官はそろりと立ち、清殿を開けて鍵をアユルに渡した。女官の顔などいちいち覚えないが、この女官は記憶にある。名は何と言ったか……。ともあれ、この者がいつも王妃の傍らにいて、王から直々に預かった鍵を託されるほど王妃の信頼を得ている特別な女官であることは間違いない。

「先ほど女官長にも言ったが、今宵は華栄殿で過ごす。夜の膳を南殿みなみどのに用意しておけ」
「寝殿ではなく、南殿でございますか?」
「王妃と庭を眺めたい」
「かしこまりました」

 女官が迂闊うかつにも嬉しそうな顔をしたのを、アユルは見逃さなかった。王妃を大事に扱っているふりを上手くやれば、ラシュリルに嫉妬の矛先が向くことはない。
 たおやかに小袿こうちぎの裾をひるがえして、女官が華栄殿に架かる廊下を渡っていく。アユルは、雨に濡れた衣を手ではたいて清殿に入った。

 着物を着替えて、書斎に向かう。途中、閉めきられた殿内の戸を開けて足を止める。雲母を含んだ白い砂利が敷きつめられた庭。まだ降り止まぬ雨に、池の水面みなもが波紋を描いて波立っている。つがいの水鳥を探すと、彼らは池に架かる朱色の桟橋のたもとで、仲良く身を寄せ合って休んでいた。
 しばらくして、コルダがやって来た。

「アユル様、遅くなり申しわけございません。ただいま戻りました」
「久しぶりだな。ラシュリルは宰相と一緒か?」
「はい、王女様は宰相様と皇極殿に。日暮れまでには、宰相様のお屋敷に移られるのではないでしょうか」
「そうか。何か言っていたか?」
「いいえ。ただ、アユル様もわたくしもそばにいないからか、少し不安がおありの様子でした」
「……だろうな」

 アユルは視線をコルダから庭に移して黙ったあと、「ああ、そうだ」とつぶやいて書斎に入った。御座おざに上がって席に着く。そして、紙を広げるために、文机の上に積まれた書物をのけようと手を伸ばした。

 ――おかしい。

 アユルの手が、書物に触れる直前で止まる。眉間にしわを寄せるアユルに、コルダがどうしたのかと声をかけた。

「もうふた月以上も前の記憶で曖昧あいまいなのだが、玉牌は三冊目の下になかったか?」
「はい、おっしゃるとおりです。それが何か?」
「見てみろ」

 コルダがアユルの指先を見る。
 重ねられた書物は全部で五冊。上から三冊は、同じ学問の上・中・下巻だ。キリスヤーナに旅立った日の朝、コルダは下巻の下に玉牌を置いた。机上に出したままでは玉牌に埃ががぶる。それに、長く湿気にさらせば鉱石にカビがはえてしまう。だから、湿気を吸ってくれる書物の間に挟んだのだった。しかし、玉牌の位置が二冊目の下に変わっている上に、揃えておいたはずの書物の角がずれてしまっている。コルダは慎重で几帳面な性格だ。

「アユル様。わたくしはこのように雑なことはいたしません」
「わかっている。だから、お前に確かめた」
「では、何者かが触った……」
「物が勝手に動くわけがない。私が留守の間、清殿に入れたのはただひとり。鍵を持っていた者だけだ」
「アユル様から直接、許しなく入るなと言われたのに、背いたというのですか?」
「さあな。ここに来たのは誰なのか……。それも重要だが、私が一番知りたいのは目的だ」

***

 日暮れの雨の中、ラシュリルはラディエと輿こしをおりて、たいそう立派な屋敷の前に立った。塔のような門をくぐると、大勢の家人がふたりを出迎えた。ラディエが、夫人とおぼしき上品な女性に外套と刀を預ける。言葉もなく阿吽あうんの呼吸でやりとりするラディエと女性に、ラシュリルは無意識に羨望せんぼうのまなざしを向けた。

「王女殿、こちらへ」
「は、はい」

 キリスヤーナ国王の人質なので表立ったもてなしはできないが、と前置きをして、ラディエはラシュリルを邸宅の奥にある離れの静かで広い部屋に案内した。

「ここは晴れた日は日当たりが良く快適だ。まあ、宮殿育ちのあなたには退屈かもしれないが、辛抱してください」
「いいえ、退屈だなんて。わたしにはもったいないくらい素敵なお部屋です」

 ラシュリルは、好奇心旺盛な女童めのわらわのように目を輝かせ、窓から体を乗り出すようにして庭を見回した。三手先みてさき斗栱ときょうが支える軒の端から、雨水がしたたってこけのむした庭石に落ちる音。そして、雨上がりの独特な香りがする湿気を含んだ冷たい空気。
 ラシュリルが目を閉じて、鼻で深く息を吸う。その様子に、ラディエは呆れるように目を細めた。

「陛下も、あなたのようによく笑う御子おこだった。あなたを見ていると、つい昔を懐かしんでしまう」
「宰相さまは、ア……、陛下の小さいころをご存知なのですね」
「もちろんだ。さぁ、もう庭はいいでしょう。明日でも明後日でも、天気のよい昼間に好きなだけご覧ください。キリスヤーナに比べれば暖かいが、冬の寒さは身にこたえる」

 そう言いながら、ラディエが窓を閉める。それから、円座わろうだを手で差した。ラシュリルが素直に座ると、向かい合うようにラディエも腰をおろした。

「忠告したにもかかわらず、あなたは身を引かなかった」

 相変わらずラディエから向けられる目は鋭く、口調も冷たい。けれど、ラシュリルはラディエと行動を共にして、宰相さまは実直で情に厚い人なのだと思うようになっていた。話を聞いてくれるし、言葉は厳しいけれど間違ったことは言わないからだ。怖い印象が勝ってしまうのは、失礼だけれど、顔立ちのせいだと思う。

「怒っていらっしゃいますか?」
「いいや。あれはあなたを試したのだ」
「なぜそんなことを?」

「あなたには耳が痛い話でしょうが、我々はカデュラス人であることに誇りを持っています。神の系譜たるカデュラ家の、陛下に流れる血の尊さこそがその象徴なのです。永い年月、我々はカデュラ家の血がけがれぬよう守ってきました。だが、陛下はあなたを望んでおられる。あなたを妃にするために、あらゆる努力を惜しまないでしょう。それなのに、肝心のあなたが強面こわおもての宰相に脅されて身を引くような腰抜けでは元も子もない。だから、あなたの覚悟を知りたかった」

 確かに耳が痛い話だ。けれど、偽りのない率直な言葉でもある。
 もしもわたしが宰相さまだったら、とラシュリルはラディエの立場を思い量る。王家に異民族を迎え入れるのは、誇りを捨てるに等しいこと。アユルさまとわたしのことを知ってから、宰相さまはとても苦悩したことだろう。それでも、身柄を預かって、こうして真摯に向き合ってくれている。

「どうしました、王女殿。嫌になりましたか?」
「いいえ。どうやって宰相さまに感謝の気持ちをお伝えしようかと考えていました。けれど、言葉が足りなくて」

 髪を耳にかけながら、ラシュリルは困り果てたような顔でほほえんだ。

「感謝とは予想もしない言葉だ。てっきり、恨み言を言われるかと思っていました」
「どうして恨み言なんて! 宰相さまのお気持ちはわかります。わたしも宰相さまのように陛下を大切に思っているもの。でも、宰相さまのおっしゃるとおり、わたしには何もなくて……」
「では、このラディエとひとつ約束していただきたい。陛下にとっては至高の価値があり、私にとっては希望のような約束です」

 それは? と小首をかしげるラシュリルに、ラディエが真面目な顔で言った。

「陛下のそばにある限り、陛下に忠実であること。少しでもよこしまな欲を抱けば容赦しない。そのときは、陛下からこの首をねられようとも、あなたには陛下のそばを辞していただく」

***

 アユルは華栄殿へ渡る準備を済ませて、一通の手紙を書いた。それをラシュリルの玉牌に添えてコルダを呼ぶ。

「はい、アユル様」
「玉牌と一緒にこの手紙を宰相の屋敷に届けてくれないか。ラシュリル宛てのものだ」
「アユル様が華栄殿へお渡りになられたらすぐに」
「それから、キリスヤーナの瑠璃で染めた絹を仕立ててラシュリルに贈りたい」
「かしこまりました。工房に手配しておきます」
「内密にな」
「心得ております」
「よし、王妃のもとへ行く」
「よろしいのですか、アユル様。王妃様とお過ごしになられて、その……。わたくしはアユル様のことが心配です」
「考えがあってのことだ。心配せずともよい。早く先触れを」
「はい、アユル様」

 婚儀の夜と同じように華栄殿へ渡る廊下に立つ。廊下の両端に並んだ女官たち。まるで、あの日に逆戻りしたような光景だ。アユルは、コルダが先触れから戻るのを待たずに華栄殿へ向かった。

 女官に言いつけたとおり、南殿に足つきの膳がふたつ並べられ、そこにきれいに着飾った王妃が座っていた。華栄殿の奥まった所にある南殿は、歴代の王妃たちが手をかけた庭が見ごたえのある隠れ家のような部屋だ。月明かりが照らす風景はおもむきがあるが、残念ながら今宵はしとしとと雨が降っている。

「待たせたな」

 アユルは、タナシアに目を向けて腰をおろした。気恥ずかしそうにうつむくタナシアに手を伸ばし、顔に触れる。タナシアの肌は氷のように冷たかった。庭を眺めたいと言う王の要望に応えるため、真冬だというのに南殿の庭に面した戸はすべて開けられている。王妃は律儀に、ここで長いこと待っていたのだろう。これでこそ、先立って知らせていた時刻より遅れて来た甲斐があるというもの。
 くしゅん、とタナシアがくしゃみをする。

「ご無礼を」
「体が冷えてしまったのではないか? こちらへ来い」
「は、はい、陛下」

 アユルは、おずおずと立ち上がろうとするタナシアの手を引っ張った。足がもつれて、タナシアが倒れこむ。足先が膳に当たって、食器ががしゃんと激しい音を立てた。その音に、隣の間で控えている女官が部屋に入って来ようとした。アユルは大事ないと女官をさげて、タナシアの体を受け止めた。

「……陛下」
「大丈夫か?」
「はい」

 後ろから抱きすくめられて、タナシアは声を震わせる。ずっと願っていた。キリスヤーナから戻った夫が優しく抱きしめてくれることを。
 幸せ。背中に感じるあたたかな体温が、心細さから心を解き放ってくれるような気がする。

「余が留守の間、変わりはなかったか?」

 低い声で耳朶みみたぶをなでながら、アユルは小袿の中をまさぐってタナシアの帯を解いた。そして、首筋に唇を寄せて、衣の上から乳房をつかむ。

「は、はい。なにも……っ」
「サリタカルでそなたの手紙を読んだ」

 会話を続けながら、えりを割って指先で直に胸の頂を刺激すれば、タナシアは体を硬直させたまま息を乱し始めた。

「陛下からの……っお返事、とても、……うんっ、嬉しゅうございました」
「そうか。だがな、王妃」

 胸への愛撫はそのまま、もう片方の手を袴に滑りこませる。三夜の共寝を覚えているのか、そこは軽く触れるだけでしっとりと潤った。指の腹でこりっとした蕾をこね回す。

「たとえ文字であっても、余の名を呼ぶな」
「ふんっ……ん、あん……っ!」
「そなたが持っていた王宮の規則に目は通したか? 余の許しなく勝手をすれば、王妃であっても処罰されるぞ」

 くすくすと、アユルはタナシアの耳元で意地悪く笑った。
 くちゅっと水音を立てる下生えの奥に二本の指を突っ込んで、ざらざらとした膣壁を擦る。執拗な指の攻めに、タナシアは苦悶の声と共に体を震わせて達した。
 アユルは脱力したタナシアの前に立って、結い上げられた黒髪を鷲掴わしづかむ。燭台の明かりに照らされる、しどけなく開いた王妃の口。男の本能を刺激するには充分だ。

 ――王妃をもっと、骨の髄まで染めてこそ、王宮にラシュリルの居場所ができる。

 夜着を左右に開いて、屹立した自身を取り出す。そして、タナシアの口に、それを躊躇なくねじ込んだ。

「……ふんっ、んんっ」

 独特の生々しい匂いが、口腔いっぱいに広がって鼻腔から抜けていく。タナシアが目に涙を溜めながら舌を上下させる。その舌の上を、熱く硬い男の欲望が激しく行き来する。
 小さな口の中を満たし、顧慮こりょなく犯し続ける。やがて、アユルはそのまま口の中に吐精した。恍惚としたタナシアの顔を見ながら、脈打つ自身をゆっくりと抜く。先端でつややかな唇をなぞると、白い体液がべったりとタナシアの顔を汚して糸を引いた。
 口からこぼれた白濁を指先ですくって、指をタナシアの口に入れる。タナシアは色のある息をしながら、アユルの指を丁寧に舐めた。

「今宵は共に眠るか、王妃」

 そう言って、アユルは懐紙を出してタナシアの口を拭う。
 こんなにも従順なのに、言いつけを破って清殿に立ち入るとは。あの玉牌をさげたラシュリルが目の前に現れたら、王妃はどのような顔をするのだろうか。何にせよ、王妃は自分の罪を隠すために見てみぬふりをするしかない。考えを巡らせると、思わず顔が緩んでしまう。
 アユルが笑むと、タナシアはうっとりとした眼差しを向けて嬉しそうにうなずいた。