第23話 深い絆


 カデュラス国宰相、ラディエ・ノウス・カダラル宅の朝は早い。
 庭で放し飼いにされている雄鶏おんどりが、親切に「こけこっこー」と大音量で夜明けを知らせてくれる。ラシュリルは、ぼんやりと目を開けてまた閉じた。そして、布団を頭までかぶった。

「王女殿」

 雄鶏の鳴き声と一緒に耳に届く太い声に、脳が一気に覚醒する。ラシュリルは慌てて飛び起きると、手櫛で髪をかき分けた。

「おっ、おはようございます、宰相さま」

 おりた御簾みすの向こうから、きっちりとした身なりのラディエが正座をしてこちらをじっと見ている。ラシュリルが、天蓋てんがい付きのベッドのような御帳台を出て御簾を上げようとすると、ラディエにそれをとがめられた。

「年ごろの女人が寝起きの姿を男にさらすなど、はしたなきことこの上ない。王女殿にはまず、陛下のそばにはべって恥ずかしくない最低限の行儀作法を習得していただかねばなりませんな」

 こけこっこーと、雄鶏がラシュリルの代わりに返事をする。
 まだ夜明け前の薄暗い部屋を、燭台の明かりが照らしている。一体、宰相さまは何時に起きていらっしゃるのかしら。ラシュリルは、しとねの上に座って眠たい目をこすった。
 すると、目がくりっとした尼削ぎの女の子が、御簾の端を少しだけ上げてするりと入って来た。彼女は隅っこに座って、ラシュリルに会釈した。にこりとした顔が、天使のようにかわいらしい。

「その子はカリンと言いまして、私の末の娘です」
「宰相さま、の?!」
「何をそのように驚いておられるのです」

 だって、とってもかわいい……という言葉を何とか飲みこんで、ラシュリルは居住まいを正した。

「侍女がいないと困ることもありましょう。只今から、カリンがあなたのお世話をいたします。何なりとお申しつけを。もちろん、行儀作法もカリンがお教えいたします」
「宰相さまの姫さまが、わたしの侍女になるのですか?」
「そうです。不服ですか?」
「いいえ、その逆です。わたしよりも身分が高い方がどうして侍女に……」
「カリンは幼いころ病にかかり、声を失ってしまったのです。嫁ぐこともできず、一生を屋敷に閉じこもって終える運命さだめの子。あなたにお仕えできれば、生き甲斐を持てましょう。それに、私の娘ならば、あなたが王宮に行くことになったとき女官として一緒に入宮できます」

 ラシュリルが目を向けると、カリンは嬉しそうにうなずいた。

「ああ、そうだ。大事なことを言い忘れるところでした。王宮からあなた宛の手紙が届いています。カリンに預けておりますので、お受け取りください。私は朝議があるので、これで失礼する」

 ラディエが立ち上がって部屋を出て行く。ふたりきりになると、カリンがそばに来て折りたたまれた紙と桂花の玉牌を差し出した。

「……アユルさまから?」

 カデュラスに着いたら返すと言われたのを思い出して、ラシュリルの顔がほころぶ。添えられた手紙には、肌身離さず玉牌を身につけるようにと走り書きされていた。
 カリンが御簾を巻き上げて、東側のひさしを開く。筋雲の広がる空が、赤い朝焼けに染まっている。ラシュリルは玉牌と手紙を机に置いて、漆塗うるしぬりの文箱ふばこから手漉てすき紙を取り出した。少ない手荷物に忍ばせて、故郷から持って来た大切な一通。朝焼け色と同じ、真っ赤な紅葉もみじが一葉漉き込まれた紙に、美しい文字がよどみなく流れている。

『心の一番深く美しい場所で、貴女を愛している』

 いつまでも色せない紅葉が、会えない間にも深まるふたりの絆のように思えて、文字のひとつまで愛おしく感じる。
 ラシュリルは、文机の隅で筆置きに並んだ筆を見た。
 キリスヤーナにはない筆記用具。先日、サリタカルで初めて筆を使ってお兄さまに手紙を書いた。けれど、硬い金属のペン先と違って、ふにゃふにゃとした筆先を意のままに操るのは至難の業だった。アユルさまにも手紙を書きたいけれど、あんな文字では恥ずかしい……。

 ――きっと、お兄さまは笑うでしょうね。

 ハウエルの笑った顔を想像して、ラシュリルの唇がゆるやかな弧を描く。雄鶏が庭を闊歩しながら、「こっこっこっ」と短く小さな声で鳴いた。

 ダガラ城の北側に牢がある。
 牢と言ってもダガラ城内であることに違いはない。ここに投獄されるのは、入城を許される身分の者ばかりだ。官職や戸籍を金で売買したり、地方から納められる税を横領したりした官吏たち。他には、痴情のもつれから同僚の妻を殺害したという高官もいる。
 そんな牢で、王宮に勤める若い雑用人が拷問にかけられていた。無位の者がここにいるだけでも未聞なのに、拷問の指揮をとっているのは王に次ぐ身分を持つカリナフだ。よほどの罪を犯したに違いない。カリナフの威厳にすごんで、隅っこに固まった門番たちは揃ってごくりとのどを鳴らした。

「見かけによらず、強情な男だ」

 カリナフは、ぱらりと優雅に扇を広げてしかめた顔をあおいだ。両手両足を木椅子に縛りつけられたファユの体のあちこちに、痣や火傷やけどがある。目を背けたくなるような痛々しい姿だが、カリナフはひとつも動じない。

「観念したらどうだ。お前が陛下を射たのだろう?」
「ちっ、ちっちち違います!」
「いくらかばおうとも、お前を利用した者は助けてはくれぬぞ」
「しし、知らない!」
「口のきき方に気をつけろ」

 閉じた扇で打たれて、皮膚が裂けたファユのほほに血がにじむ。カリナフは、血のついた扇を焼きごての先が突っ込まれている火桶に投げた。

「お前の心を軽くするために、ひとつ良いことを教えてやろう。陛下がキリスヤーナへおちになられた折、私は陛下より密命を賜ってさる御方を見張っていた。お前がアフラム家の屋敷に出入りしている武官の縁者であること、私はすでに承知している」

 にやりと笑うカリナフの顔があまりにも美しくて、ファユは顔を引きつらせて体を震わせる。

「その御方にぜひとも失脚していただきたくて、泳がせていたのだ。陛下がお前に目をつけてくださったのはまさに天啓。お前が素直に罪を認めるのなら、命だけは助けてやってもよい」

 カリナフが、焼きごてを握って赤くめらめらとたぎる先端をファユの手の甲に近付ける。恐怖で噛み合わないあごきしませて、ファユは声をしぼり出した。

***

「ハウエルさま、少しお休みになったら?」

 椅子に腰掛けて、ぼうっと一点を見つめるハウエルの肩に、マリージェがレース織りのストールをかけた。薄桃色のストールのやわらかな花模様がラシュリルを思い出させる。自分の浅はかさが、大好きな妹を不幸にした。その罪の意識が、ハウエルから朗らかな笑顔を奪っていた。夜になれば、胸に巣食う苦しみが増して眠ることもできない。まさか妹がカデュラス国王とただならぬ関係であることなど知る由もない彼の苦悩は、極限に達していた。

 こんこん、と扉をノックする音がする。ここはマリージェの私室だ。マリージェは、扉を開けて相手と短いやりとりをしたあと、満面の笑みでハウエルに駆け寄った。

「ハウエルさま、ラシュリルからお手紙ですって!」
「ラシュリルから?!」

 ハウエルは黒い影ができた目を大きくして、マリージェから手紙を受け取ると震える手で封を開けてむさぼるように読んだ。

 拝啓 お兄さま
 お元気ですか? わたしは変わりなく過ごしています。
 お義姉さまやナヤタにもそのように伝えてください。
 それから、不都合がなければお母さまにも知らせてください。
 心配なさらないでね。
 またお会いできる日まで。
 ラシュリル

 みみずがったような、もとい、使い慣れない筆記用具で書かれたつたない筆跡に、ハウエルは思わず声を出して笑ってしまった。久しぶりに聞くハウエルの笑い声に、マリージェの目が点になる。

「面白いことが書かれていて?」
「そうじゃないよ、マリージェ。変わりなく元気だから心配しないでって」
「そう、よかったわ。本当によかった」
「うん」

 ハウエルは、マリージェにほほえんで部屋を出た。そして、執務室に近衛隊のひとりを呼んで、カデュラス国王宛に書簡を書いた。
 僕は間違っていた。妹を犠牲にして取り戻す王権なんて砂上の楼閣だ。カデュラス国王襲撃の件を、陛下の納得がいくまで調べてもらおう。幸いにも、まだ銅の交易は始まっていない。エフタルと手を切って、ラシュリルを取り戻すんだ。
 書き上げた書簡を隊士に手渡して、ハウエルは彼の肩を軽く二回ぽんぽんと叩く。

「君と他にふたりを使者としてカデュラスにつかわす。僕は、カデュラス国王からヘラートを出てはならないと言われているからね。僕の名代として陛下に謁見して、君の手で直接この書簡を渡してほしい」

***

 筋雲が広がって、赤い朝焼けに空が染まる日は必ず雨が降る。
 昼下がり、雨が止んだ隙を見計らって、アユルはひとり庭を歩いた。濡れた玉砂利はより黒くつやめいて、歩みに合わせて心地よい音を奏でる。

「陛下!」

 王妃が葡萄色えびいろ小袿こうちぎの裾を持ち上げて、玉砂利の上を小走りにこちらへ向かって来た。

「朝議からお戻りになられたのですね」
「ああ、つまらないから逃げて来た」

 まあ、とタナシアは袖で口元を隠して上品に笑う。
 庭木の葉はすっかり枯れ落ちて、色鮮やかな花で賑わっていた季節の面影はない。嫁いで来たのは、ちょうど花の季節を終えたころだった。ずっと陛下とふたりで庭を歩きたい。たったひとりの妃として、次の花の季節を迎えられたならどんなに幸せだろう。その次もずっと……。

「王妃」

 アユルは、タナシアに淡々とした表情と声を向けた。夫のただならぬ雰囲気に、タナシアが表情を一転させて神妙な面持ちで「何でございましょう」と答える。

「そなたに預けていた清殿の鍵だが、女官に管理させていたのか?」
「いいえ、ずっとわたくしが持っておりました」
「余が帰還したとき、女官が持っていたのはなぜだ」
「陛下をお出迎えするために皇極殿に出向きましたので、それでカイエに……、女官に一時的に預けたのです。信じてくださいませ。陛下よりお預かりした大切なものを他人任せになどいたしません」
「そうか」

 アユルが表情を緩めると、タナシアはあからさまに安心した様子で胸をなでおろした。獰猛どうもうな歯牙に気付かないのは、鈍感なのか無知なのか。しかし、大胆にも清殿に入り、それをおくびにも出さない。もしや、こちらの考えの上をいくしたたかさを持っているのだろうか。
 アユルは、タナシアの手を取って口付ける。飼いならしの餌付けと同等の行為に頬を染め、素直に反応するあたり、それは感じないが。

「……陛下」
「そなたが以前言っていた夫婦の絆とやらを深めるには、まず互いの信用がなくてはな。王妃が信用に値する優れた人格の持ち主で安心した」
「嬉しいお言葉……。ありがとうございます」

 遠くから、玉砂利の音が近付いてくる。足音だけでコルダだとわかってしまうのが可笑しくて、アユルは必死に笑いをこらえた。コルダはふたりから少し離れた所で足を止め、深く頭をさげた。

「どうした」
「カリナフ様が陛下にお会いしたいとお待ちでございます」
「わかった。カリナフを清殿に連れて来い」

 コルダが去ると、タナシアは悲しそうにアユルの顔を見上げた。ふたりで過ごせる時間が終わってしまう。さっと背を向けて歩きだそうとするアユルをタナシアが呼び止める。

「陛下」
「何だ」
「今宵もお待ち申し上げております」

 アユルは、清殿の書斎でカリナフを待った。
 今宵は清殿でゆっくり一人寝をしようと思ったが、予定を変更せざるを得なくなった。サリタカル国王から証拠として預かった偽の書簡を広げ、アユルは頬杖ほおづえをつく。言質は取った。だが、ひとつ不可解なことがある。

 ――書簡を用意したのも王妃か?

 内容を見れば、まつりごとに関わらない王妃が作れるような代物ではない。
 アユルが頭を抱えていると、コルダがカリナフを先導して書斎に入って来た。カリナフは、御座おざの手前に腰をおろして礼をとった。

「御下命により捕らえてりますファユが罪を認めました」
「余を射たのはあやつだったのだな?」
「はい。タファという武官に命じられたそうです」
「タファ? 聞き覚えのない名だ」
「皇極殿の末席に座る下位の武官でございます。そして、この者は頻繁にエフタル様の屋敷に出入りしておりました」
「ずっと前からそのことを知っていたような口ぶりだな、カリナフ」

 アユルが、カリナフに探るような視線を向ける。

「エフタルから目を離すなと命じたのは陛下ではございませんか」
「そのとおりだな。では、余が襲撃されることもつかんでいたのか?」
「まさか。陛下が慎重な方であることは存じておりますが、従兄弟である私をお疑いになるとは心が痛みます」

 わざと袖で目元をおさえ、カリナフが泣き真似をしてみせる。相変わらず飄々ひょうひょうとした従兄弟には呆れる。アユルはカリナフを近くに呼んで、文机に広げた書簡を指さした。

「陛下が書かれた書簡ですか?」
「やはりそう思うか」
「失礼を」

 カリナフが、書簡を手に持って入念に目を通す。筆跡は見慣れた陛下のものと一致しているように見えるし、王印もしっかりと押されている。カリナフは、アユルの言葉の意味を図りかねた。

「……はい。陛下のお書きになった詔書しょうしょに見えますが」
「これは、帰路でサリタカルに立ち寄った際にサリタカル国王から預かったものだ」
「ですから、陛下が銅の交易について書かれたのでしょう……。いえ、お待ちを。銅の量が違っております。我々が報告を受けたのは、ここに書かれた量の半分だったはず」
「さすがだな。病に臥せている父親に代わって、早く家督を継いだらどうだ」

 ご冗談を、とカリナフは笑うが、その目はまったく笑っていない。

「王印はずっとここにしまってあった。確かに余は銅の交易についてキリスヤーナで書簡をしたためたが、王印の代わりに古語で名を書いた。もちろん、この書簡に覚えはない」
「何たること……」

 カリナフの手が震える。王の筆跡を忠実に真似て詔書を贋造がんぞうするなど、前代未聞の大罪だ。

「余が留守の間、清殿に入れたのは王妃だけだ」
「王妃様? そんな馬鹿な。他にはいないのですか?」

 カリナフが、信じられないと言わんばかりに怪訝けげんな顔をする。

「いない。清殿を施錠して王妃に鍵を預けてキリスヤーナへ行ったのでな。それに、先ほど王妃に確認をしたら、鍵はずっと自分が持っていたと答えた」
「王妃様が贋造したと?」
「王印を押したのは王妃だと考えてもよいが、王妃が政治的な文言を書けると思うか? それも余の筆跡をここまで精密に真似るなど王妃には不可能だ」
「用意された書簡に王妃様が王印を押した……」
「余を害した従者の話をあわせれば、王妃が従う人物も自然と目星がつく」
「陛下。それが真実であれば、いかに四家の者であろうとも死罪でございます」

 カリナフのおののく声に、アユルは口の片端を上げて「そう、死罪だ」と頷いた。