第24話 王妃様と王女様


 その夜、アユルは華栄殿かえいでん南殿みなみどのの廊下から庭を望んだ。雨は夕暮れ前に上がり、今は薄い月明かりが差している。
 高欄こうらんのつるりとした手触りが、昔の記憶を呼び覚ます。ここは、幼少期を過ごした場所だ。初夏になれば、庭に植えられた梔子くちなしがむせ返るような甘美な香りを漂わせる。梔子を植えたのは母だった。

 母とたくさんの女官に囲まれて過ごす日々は、この世の春を謳歌するようにとても賑やかで華やかなものだったように思う。これ以上ないほど大切に扱われ、思い通りにならかなったことなどひとつもない。望めば何でも手にできたし、とがめる者もいなかった。それが、王宮という狭い世界の中でだけ通用することなのだと知ったのはいつだっただろうか。王は与える側ではなく、与えられる側なのだと知ったのは――。

「陛下」

 タナシアに腕をつかまれて、過去から今に引き戻される。
 湯浴みを終えたばかりのタナシアからくゆる香油の匂い。女官が用意したのか、それとも自分で選んだのか。王宮には、王を悦ばせる道具が揃っている。アユルはタナシアの手を取って、ふっと軽く笑った。上目にこちらを見つめる目はうっとりと絡みつくような熱をはらんで、真っ赤な唇が物欲しそうに少しだけ開いている。

「庭をご覧になっておられたのですか?」
「考え事をしていた」
「どのようなことをお考えに?」

 ここは寒い、とアユルはタナシアの手を引いて部屋の中にいざなう。南殿の座敷には、屠蘇とその酒が入った漆器と菊花を煎じる鉄器の乗った円卓が置かれ、そのすぐ横には床の用意がされていた。
 アユルはタナシアを体が触れ合うほど近くに座らせて、手ずから青磁の盃に菊花茶を注ぐ。

「キリスヤーナの王女の話は聞いたか?」

 青磁の盃を手渡してアユルが尋ねると、タナシアは「はい」と静かに頷いた。とは言え、王宮は現世うつしよとはかけ離れた女人たちの住処すみかで、政治が絡んだややこしいことは誰も話さない。タナシアが王女について耳にしたのは、陛下が人質を伴って帰国なされたという風の便り程度のことだ。

「王妃に王女を預けたい」
「わたくしに、でございますか?」
「処遇に困っているのだ。王女が罪を犯したわけではないから投獄はできない。かと言って、いつまでも宰相の屋敷に置いておくわけにもいかないしな。どうしたものかと頭が痛い」

 アユルは盃一杯の屠蘇の酒をぐっと一気に呑み、いかにも苦悩しているかのような難しい顔で深いため息をついてみせる。しかし、特別な演技は必要なかった。傷に障らないものを、とコルダが用意した酒が、この世の酒とは思えないほど不味かったからだ。一体、どんな生薬を混ぜてあるのか。口に残る味も最悪だ。

 ――まさか、気味の悪い爬虫類を漬けこんだ酒ではあるまいな。

 コルダめ、と盃を持つ手に力が入る。そんなアユルの顔を見て、タナシアは困っている夫の力にならなくてはと意気込んだ。

「お任せくださいませ、陛下」
「引き受けてくれるのか?」
「陛下のお役に立てるのでしたら、これ以上の喜びはございませんもの」
「さすが王妃だ。これでうれいから解放される。では、王宮に入れる身分と御殿を与えて面倒を見てやれ」
「はい」
「そうだな……。与える身分はそなたに任せるが、御殿は一番遠い清寧殿せいねいでんにするがよい」

 かしこまりました、と嬉しそうに笑って、タナシアが菊花茶に口をつける。ごく、ごくとゆっくり上下する白いのど。母がどのような心持ちで妃たちに菊花茶を飲ませていたのか、それが少しわかるような気がする。

 アユルは、タナシアが青磁の盃を円卓に置くと同時にその体を抱き寄せた。道具だと思えば、体を差し出すのは容易いこと。
 敷かれた床の枕元に置かれた香炉から、柔らかな桂花が香る。今ごろ、同じ空の下で何をしているのだろうか。早く、早く手の届く所に――。

「陛下……っ」

 高家で大切に守られてきた珠玉の肌をさらして、タナシアがあられもない声を出す。粘液で潤んだ女陰ほとを貫いて、アユルは目を閉じて眉根を寄せた。雨でも降っていれば、雨音がわずらわしい声をかき消してくれるのだが、今宵は無情にも静かな夜だ。

「はん……っ、あっ……!」

 思考から聴覚を切り離して、愛しい顔を思い浮かべる。ぐじゅっと音を立てて締めつける肉襞にくひだをえぐりながら大きく息を吸えば、桂花が狂おしい気持ちをかき立てる。アユルさま、と呼ぶ屈託のない笑顔が脳裏をかすめ、アユルは身震いした。まるで自慰。タナシアの腹に散った精液に、アユルの顔が愉悦の笑みで満たされる。
 アユルは気怠い体で立ち上がって夜着をまとった。そして、意識朦朧で浅く口呼吸するタナシアを残して華栄殿を出て行った。

***

「眠くなりましたか?」

 ラディエの声に、ラシュリルは目をごしごしと擦った。その横で、カリンがあったかい果実茶を淹れる。

「ごめんなさい。無理を言って講義をお願いしたのはわたしなのに……」

 ラディエがダガラ城から帰って来たのは、夕方より少し早い時間だった。
 考えてみれば、カデュラスのことを何も知らない。このままでは、アユルの足手まといにしかならないと思ったラシュリルは、ラディエに頭をさげて講師になってほしいと頼んだのだった。
 教えてもらいたいのは、身分やしきたり、王宮のこととかその他にもいろいろとたくさんある。ラディエは快く引き受けてくれたのだが、熱が入りすぎて、気付けばもう真夜中になろうとしていた。

「これはすまない。王女殿が真剣に聞き入ってくれるものだから、つい夢中になってしまった」
「いいえ。宰相さまのお話はとてもわかりやすくて面白いので、わたしも時間を忘れてしまいました」
「そう言ってもらえると嬉しいが、王女殿に無理をさせてしまっては陛下にお叱りをうけてしまう。今日はこのあたりでやめておきましょう」

 ありがとうございました、とラシュリルは丁寧に頭をさげた。ラディエが退出したあと、カリンが寝床を整えてくれている間にも時間を惜しむように文字の練習をする。アユルさま、と筆先で紙に書いてみると、少しは努力の成果が出ているようだった。
 カリンが、御簾をおろしてラシュリルの肩を軽く叩く。寝支度ができたと知らせてくれたのだ。

「遅くまで付き合わせてしまって、ごめんなさいね」

 ラシュリルが申し訳なさそうに言う。カリンは、かぶりを振って「大丈夫」と口を動かした。声を失った分、カリンは表情や動作で感情を伝えるのが上手い。くりっとしたつぶらな瞳がくしゃっと細くなって、その度に心が癒やされる。

「明日も早くから雄鶏おんどりさんに起こされるわ。早く寝ましょう」

 明かりを消して、ラシュリルとカリンは御帳台の中で向かい合って横たわる。姉妹のように打ち解けたふたりは、こうして寝付くまで話をする。ラシュリルが、雄鶏の新雪のような真っ白な羽と熟れた苺のような真っ赤な鶏冠とさかの気高さについて語ると、くすくすと笑うような息遣いと体の震えが伝わってきた。結局、ふたりが眠りについたのはだいぶ時間がたってからのことで、翌朝に早く寝なかったことを後悔する羽目になるのだった。

 半月ほどがたち、ラシュリルがラディエ宅での生活に馴染んできたある日。ラディエが詔書を手に朝議から帰って来た。それは、キリスヤーナ国王の人質を王妃が預かるという内容だった。
 愛しているとつづった手紙と同じ筆跡の詔書に、ラシュリルの目が丸くなる。

「心の準備は宜しいか、王女殿」

 ラディエは、ラシュリルと向き合って腕を組んだ。先日、カリナフから恐ろしい話を聞いたばかりだった。サリタカルで見つかった陛下のものではない詔書。それに王印を押したのが王妃様ではないかという話だ。
 カリナフが密命を受けて、ある御仁の身辺を捜査している。もしもそれが真実ならとんでもない大罪だ。

 だが、とラディエは目を細める。
 何よりも陛下が恐ろしい。毎夜のごとく華栄殿に渡り、王妃様と仲睦まじく過ごしていると貴人たちの間で噂が立っている。王女のことを知った今、それを鵜呑みにするほど頓珍漢ではない。

 ――王妃様に王宮の門を開けさせるとは……。

 正攻法では王女を王宮に召し上げることなどできない。だから、虎視眈々と時機をうかがいながら大罪を利用しているのだ。冷静に、獲物を追い詰めながら――。

「王妃さま……」
「タナシア・セノル・アフラム様です。先日お教えしたとおり、このカダラル家と同じく四家のひとつであるアフラム家の方です」
「どのような方なのですか?」
「奥ゆかしい方です。どこかの風変わりな王女様とは違って」

 ラシュリルより先にカリンが笑う。ひどいわ、とカリンに向かってほほを膨らませるラシュリルを見て、ラディエはひとり頷いた。

 同じころ、キリスヤーナ国王の書簡を持った三人の近衛隊士が、サリタカルの王都を過ぎようとしていた。この辺りにくると、いかに他国の文化が交流する地点とは言えども、キリスヤーナ人の風貌は目立つ。彼らが今夜の宿を探しあぐねていると、ひとりの好々爺が近付いてきた。白髪に曲がった腰、やさしそうな目元と口調が、いかにも良い人そうだ。

「お困りのようだが……」
「宿をさがしているのですが、今夜はどこも空きがなくて途方に暮れております」
「それは難儀なことだの。どれ、わしの家にお寄りになるかね?」
「宜しいのですか?」

 にこりとする好々爺に、三人は希望の光を見出したような笑顔でついて行った。しかし数日後、原生林の奥で彼らの遺体が見つかる。身ぐるみを剥がされた彼らの状態はあまりに悲惨で、身元が割れることはなかった。そして、ハウエルの書簡も忽然と消えていた。

***

 タナシアは、早起きをして清寧殿へ向かった。清寧殿は、本来は妃のための御殿で、王宮の一番奥に位置していた。すぐ裏には小川が流れていて、朱塗りの橋が架かっている。その橋を渡った先に、神陽殿しんようでんがある。
 今日はキリスヤーナの王女を王宮に迎える日だ。夫の助けとなるべく、入念に清寧殿の中を確認する。調度品や衣服など、準備に手抜かりがあっては面目が立たない。

「王女殿はおいくつくらいの方なのかしら。陛下にお聞きしてみたけれど、わからないとおっしゃって……。お若いらしいのですけれど」
「もうすぐお会いするのですから、それから小袿こうちぎの色などは変えても差し支えないかと思います。何なりとお申し付けくださいませ、王妃さま」
「あなたには苦労をかけますね」
「過分なお言葉、痛み入ります。それはそうと、間もなく刻限でございます。早く皇極殿へ」
「そうね。急がなくては」

 タナシアは、カイエを連れて皇極殿へ急いだ。途中でアユルの姿を見つけて、小走りで追いかける。

「陛下」
「そのように息を切らして何事だ」
「清寧殿へ行って来ました」
「そうか、大義だな」
「王女殿にお会いするのが楽しみでございます」
「キリスヤーナとの今後にも影響することだ。頼んだぞ」
「はい。陛下のお力になれるよう、誠心誠意尽力いたします」

 婚儀の日を彷彿とさせるように高座たかくらに並んだ王と王妃に、文武百官がひれ伏す。皇極殿の末席で、ラシュリルも周りと同じように身を低くした。

「面を上げろ」

 聞き慣れた声が静かな殿内に響く。皆が顔を上げて姿勢を正すと、すぐに「王女をここへ」とアユルが言った。ラディエの屋敷での生活を経たお陰で、カデュラスの衣装にも慣れたし、それらしく振る舞えるようにもなった。ラシュリルは立ち上がり、しずしずと歩いて高座の前に座した。

「カデュラス国王陛下にご挨拶もうしあげます」

 ラディエに言われたとおりアユルに礼をとって、次に体を少し横に向ける。そして、「王妃さまにご挨拶もうしあげます」とタナシアにも同じように礼をとった。

 ――この方が、王妃さま……。

 顔を上げたラシュリルに、タナシアが友好的な笑みを返す。
 確かに、どこかの風変わりな王女と違って、とても上品な雰囲気が漂っている。アユルさまに相応ふさわしい人とは王妃さまのような方なのだわ、とラシュリルは思った。

「王妃、王女を連れて行け」
「かしこまりました」

 タナシアが高座をおりて、こちらへとラシュリルに言った。
 アユルはちらりと右に視線を向ける。ラディエの横で、エフタルが苦虫を潰したような顔をしていた。王女を王妃に預けることに、最後まで反対したのはエフタルだった。
 タナシアとラシュリルが、皇極殿を出る。それを見計らって、アユルがふたりを追う。

 廊下を歩く途中で、タナシアは足を止めて後ろをふり返った。王女は艶のある黒髪を背で結わえ、質素な小袿に身を包んでいる。華やかな装飾もなく、派手な化粧もしていない。それでも充分に美しかった。仄暗ほのぐらい不安が胸にかすみがかる。

「王妃」

 夫の声に、タナシアははっとした。わたくしは今、何を考えていたの……。嫌な胸騒ぎを鎮めるように左胸をおさえて、ぎこちない笑顔を作る。

「これから朝議でございましょう? 宜しいのですか、陛下が席をはずして……」
「そなたらを見送ったらすぐに戻る」

 アユルの視線がしっかりと自分に向いていることにタナシアは安心した。そして、何気なく王女をもう一度見た。緋袴の腰帯に結ばれた玉牌が、小袿からちらりとのぞいている。緑色の鉱石に赤い飾り紐。翡翠ひすいの感触をはっきりと覚えている。あれは、清殿の書斎に――。
 その玉牌は、と口走ってタナシアは慌てて口をつぐむ。

「どうした、王妃。顔が真っ青だぞ」
「い、いいえ、陛下。すぐに王女殿を清寧殿にご案内さしあげます」
「ああ。あとは任せた」

 タナシアが一礼して背を向ける。
 その一瞬の隙に、アユルはラシュリルと目を合わせてほほえんだ。ラシュリルが、王妃とともに王宮へ続く廊下を曲がって行く。ふたりの姿が見えなくなるまで、アユルはずっとその様子を見ていた。