第25話 歓春の宴


 冬らしいてつくような寒さがやわらぎ始めたころ、カデュラスの王宮では歓春の宴を催すのが古くからの習わしだ。それは、命が芽吹く春の訪れを祝うもので、取り仕切るのは王妃と決まっている。

 マハールの御代では、王妃シャロアの権勢を誇示するかのように、それはそれは盛大に行われていたという。四家の面々が顔をそろえ、マハールの目の前でシャロアに拝謁したそうだ。王妃様のご威光は陛下をしのいでおられる。そんな噂が、貴人たちの間でまことしやかにささやかれたのだとか。
 シャロアが急死して三年。王妃不在となり宴は開かれなかった。しかし、タナシアが王妃となったことで、再び開催されることとあいなった。

「初めてのことで、不安ばかりなのです」

 タナシアが、ラシュリルを清寧殿せいねいでんへ案内して王宮の作法などを簡単に説明したあと、ゆったりとお茶を飲みながら、数日後に予定されている歓春の宴の話に触れて眉尻をさげた。
 清寧殿は、周りを竹林に囲まれた静かな御殿だ。使ってある木材などは一級品なのだろうが、外観は御殿というにはあまりに質素で慎ましい。清寧庵せいねいあんと呼ぶほうがしっくりくる。

「あら、ごめんなさいね。ここに来たばかりのあなたに話してもわかるはずもないのに」
「いいえ、王妃さま。わたしにお手伝いできることがありましたら、何でもおっしゃってください」

 やさしい方ですのね、と向けられる笑顔に、ラシュリルの心がちくりと痛む。
 宰相さまからは、王妃様は何もご存知でないと聞いた。ただ、人質の処遇に困った陛下のためにあなたを引き取ってくださるのだと。

 ラシュリルはタナシアに笑顔を返しながら、笑うのってこんなに難しかったかしらと内心で戸惑ってしまった。
 アユルさまと一緒にいたい。今まで自分の気持ちばかりを考えていたけれど、こんなにおおらかで人の良さそうな王妃さまをだますようなことをしてもいいのだろうか。身分や政治的な価値に重きをおく結婚だとしても、王妃さまだって心を持ったひとりの人なのに――。

「あなたを王宮でお預かりするためには身分が必要ですので、わたくしの女官としただけです。それは便宜上のこと。あなたは何もなさらなくても宜しいのですよ。キリスヤーナにお戻りになられる日まで、仲良くいたしましょうね」
「……はい、王妃さま」
「それでは、わたくしは歓春の宴の用意があるので失礼しますね。あとは、宰相殿の姫君にお任せしますけれど、困ったことがあったら華栄殿のカイエという女官に申しつけてください」

 ラシュリルの横で、カリンが礼儀正しくタナシアに一礼する。ラシュリルが頭をさげようとしたとき、タナシアが言った。

「そうだわ。わたくしは外のことにうとくて知らなかったのですが、キリスヤーナの方も玉牌をお持ちなのですね」

 しゃらん、と高く結われたタナシアの髪に挿されたかんざしが音を立てる。ラシュリルは自分の腰帯に目を向けた。

「キリスヤーナで玉牌を持っているのは、わたしだけです」
「あなただけ?」
「ですが、これはわたしではなく母の物で……」
「そう、母君さまの玉牌なのですか。また改めてあなたのお話を聞かせてください。キリスヤーナのことも知りたいわ」
「はい」

 一瞬、今までやさしくほほえんでいたタナシアの表情が冷たくなったのは気のせいか。ラシュリルは背筋に冷たいものが走るのを感じながら、タナシアを見送った。

「ラシュリルの様子はどうだ」

 アユルは、清殿の一室で夜の膳に箸を伸ばしながらコルダに尋ねた。無事に清寧殿に入られたようだと答えが返ってきて、内心でほっと胸をなでおろす。それに、歓春の宴の準備に追われて、少なくとも三日は王妃から夜のお誘いがかかることはない。

「嬉しそうでございますね、アユル様」
「まあな」

 コルダが熱い玉露を淹れる。それを見て、アユルは「そうだ」と箸を置いた。

「いかがなされました」
「お前が華栄殿に用意した酒だが、あの不味い酒は何だ」
「蛇酒でございます。サリタカルの山奥に棲むまむしを数年も漬け込んだ大変稀少なものでして、ぜひ陛下にと侍医長が」
「尻を出せ」
「は?」
「不気味な物を私に飲ませるとは。私自ら杖刑じょうけいに処してくれる」
「いえ、アユル様。落ち着いてわたくしの話をお聞きください」
「黙れ」

 アユルはすっと立ち上がって、乗馬用の短鞭を棚から取る。それで手のひらを軽く打ちながら迫ると、コルダは「ひい」と後ずさりして両手で尻をおさえた。そして、情けない声で「やさしく打ってください」と懇願した。

「何がやさしくだ、馬鹿者」
「申し訳ございません。尻の痛さを想像したら、つい」
「確かに、尻など叩いてお前が動けなくなっては私が困るな。今回は許すが、二度目はないぞ」

 まったく、と呆れた顔でアユルは座って食事を続ける。そして、コルダの方を向いてまた「そうだ」と言った。

「こ、今度は何でございますか?」
「お前、キリスヤーナで私が頼んだことを覚えているか」
「王女様の身をあらためて報告せよとの密命でございますね」
「いろいろとあって、すっかり忘れていた」
「王女様の母君様ともお会いになられたことですし、もう不要でございましょう」
「いや、今から報告しろ」
「長くなりますが、宜しいですか?」
「構わない」
「では」

 コルダは調べたことを、少しも違えることなく主人に報告する。アユルは終始神経を尖らせて、ラシュリルから聞いた話と相違がないかを慎重に探りながら聞いた。

 三日後、華栄殿で歓春の宴が行われた。ほんわりと暖かな陽差しが気持ちのいい日だった。女人たちの装いが春色の重ねに衣替えされたことも相まって、今日の華栄殿は、一足先に春が訪れたかのような華やかさだ。

 王と王妃、そして宰相を筆頭に高位の者が臨席する大掛かりな祝宴に、ラシュリルは圧倒されて、末席にカリンとふたりで借りてきた猫のように座っていた。女官の中には、異国の王女を見てこそこそと耳打ちし合う者もいたが、そんなことに気付く余裕もない。

 広大な庭に設けられた大きな舞台に、管絃かんげんの奏者と舞楽面をつけた舞い手が上がる。演じられる曲目は、はるか昔、大陸が乱世だったころに実在した美貌の名将の逸話にちなんだものだという。博識なカリンが先日、その逸話が書かれた書物を王宮の書庫から探して見せてくれた。

「ありがとう、カリン。あなたのお陰でとっても楽しいわ」

 カリンが嬉しそうに頷いて、舞台を指さす。次の瞬間、甲高い囃子はやしがこだました。異世界にいざなうような美しい管絃のしらべと優雅な舞に、ラシュリルは我を忘れて魅了される。
 そんなラシュリルの様子をしばし眺めて、アユルは隣に座っているタナシアに空っぽの盃を差し出した。

「王女をそなたの女官としたのか」
「はい。わたくし付きであれば、不躾に扱われることはございませんもの。ですが、女官の仕事をさせるというのではなくて、名目上のことですのでご安心くださいませ。それに、庭に近い女官たちの席からは、カリナフ殿の舞がよく見えましょう。カリナフ殿は当代随一の舞い手と名高い方。王女殿が喜んでくださるとよいのですけれど」

 アユルが「そうか」といつもの口調で言うと、タナシアは酒の入った漆器を手にとって盃を満たした。小さな盃の中で、透明な液体が小波さざなみを立てる。

「美しい女だな」

 ぼそりとつぶやいて、アユルはタナシアが注いだ酒を一気に飲み干した。タナシアがアユルの独り言を言葉として理解するには、時間が必要だった。やっと言葉を嚥下えんげしたとき、さらに信じられないひと言が静かに、しかし雷鳴のとどろきのような威力で落とされた。

「今宵、王女を余の寝所に」

 聞きたくない。本能が、美しい雅楽のや観衆の楽しそうな笑い声まで一気に遮断する。自分の左胸の心音さえも感じなくなって、タナシアはアユルの顔を凝視したまま呆然とした。

 ――陛下は今、何とおっしゃったの。

 王女の何が、夫の目をきつけたのだろう。タナシアは小首をかしげて目を見開いた。舞ではなく、末席の一点を見つめる夫の横顔。美しく整った容貌かたちは目元も口元も優しげで、瞳には慈愛の念すら宿っているように見える。
 菖蒲あやめの扇を手渡してくださったときのやさしい笑み。夜の御殿おとどでの淫らな御姿。そのどれもが、唯一の妃である自分ひとりだけのもの。未来永劫、陛下の御髪おぐし一本さえ他に譲りたくない。ましてや、異民族の女人などには――。

「この国の衣をまとうと、天女さながらだな。キリスヤーナ人であることを忘れてしまう」
「お、おたわむれを。王女殿がいずれキリスヤーナへ帰る身であること、陛下が一番わかっておられるはずです。それに、異民族の者を陛下の寝所にはべらせるなど、わたくしは王妃として」

「王妃」
「は、はい、陛下」
「いつぞや命じたはずだ。王命には、はいとひと言で従えと。王妃がそのようでは秩序が乱れる」

 アユルの淡々とした声と冬の凍てつく寒気かんきのような冷たい目に、タナシアは戦慄した。いつだったか、寵を得ていないと父上に言われたことがある。そのときは、そんなはずはないと否定できたのに、今は実感できてしまう。怖い。陛下に愛されなくなるのが怖い。
 表情を凍りつかせて、わなわなと唇を震わせるタナシアの沈黙が、アユルの怜悧な狡猾さを加速させる。

「返事もしないとは。ああ、そうか。余を若造と呼んだ父親と同じく、そなたも余を軽んじているのだな?」

 思いもよらない言葉に、タナシアの呼吸が一瞬とまる。早く謝罪してお怒りを鎮めなければ。そう思うけれど、射抜くような冷たい目が恐ろしくて声が出ない。さらに「興ざめだ」と鼻を鳴らされて、タナシアの思考は完全に停止してしまった。

 澄み切った青空のもとに響き渡っていた管絃のしらべが止んで、舞い終えた貴公子が舞台の上で舞楽面をはずす。同時に、ため息と歓声が混じったざわめきが起きた。

 宴が終わり、ラシュリルはタナシアの近くに行って宴に招いてくれたことの御礼と挨拶をした。アユルや賓客たちはすでに退出していて、華やかな宴の名残りだけが殿内に満ちている。

「楽しんでいただけて宜しゅうございました、王女殿。それで、あなたにお伝えしなくてはならないことがあります」
「はい、王妃さま」
「陛下が今宵、あなたをご所望なされました。のちほど、華栄殿の女官を清寧殿につかわします。ねやでの作法なども女官が指南いたしますので、粗相なきようお務めを」

 ラシュリルは、きょとんとして「はい」と間の抜けたような返事をした。カデュラスの暮らしに慣れてきたとは言っても、まだ馴染めないことがたくさんある。それに加えて、王宮には様々な規則やしきたりがあるようで、時々、こうして頭がついていかなくなるのだ。

「戸惑っているようですね」

 そう言って、タナシアがはらりと檜扇ひおうぎを広げる。その悲しそうな憂いの顔がまた、ラシュリルの心に刺さる。
 そばにいるというのは、こういうこと。誰かを傷つけてしまう。王妃さまのことを耳にしたときから覚悟していたはずなのに、目の当たりにすると心の揺らぎをおさえられない。

「あなたには申し訳なく思います。陛下のお手がついた方を王宮から出すことはできません。キリスヤーナへ帰る日を待ち侘びておられたでしょうに……」

 タナシアは同情する言葉をかけながら、丹念にラシュリルを観察した。
 黒曜石のような瞳も色付いた唇も、申し分がないほど美しいとは思う。けれど、王宮は女の園。美しいだけなら他にもたくさんいる。わからない。一体なぜ、夫は王女を見初めたのか。毛色の違う王女に興味がわいたのだろうか。遅くまで独り身を貫いた挙句に、女官を追い出してしまうような陛下が?

 タナシアの目線が、下におりていく。
 王女が持っている玉牌も気になる。清殿にあった物に見えて仕方がない。この手に取って見ればすぐにわかるけれど、そんなことをして陛下の耳に入れば、清殿に忍び込んだことが露見してしまう。

 ――口惜しい。

 こんなことになるのなら、王女を引き取ったりしなければよかった。真っ黒な気持ちの悪いものが、胸につかえて息が苦しい。夫が今夜、王女を抱くのかと思うと気がおかしくなってしまいそう。

「王妃さま? どこかお悪いのですか?」

 ひどく心配した様子で王女が近付いて来る。
 気が弱く、王妃の器ではないと父上になじられたこともある。けれど、この身には高家の血が流れ、今はれっきとしたカデュラス国王の正妃。異民族の分際でわたくしに触らないで。けがらわしい――。
 タナシアは檜扇を閉じて、にこりとほほえんだ。

「宴で少し疲れてしまっただけです。本当にやさしい方ね。わたくしは大丈夫ですので、早く清寧殿に戻って支度をなさって」