第26話 嫉妬


 エフタルは、家人たちが並んでひれ伏す廊下を、荒い足音を立てながら離れに向かった。王宮を出る間際、御簾みすの向こうから聞こえてきた女官たちの会話を思い出して、ますます足音が荒くなる。

「陛下が今夜、くだんの女官を清殿へお召しになられるそうよ。ほら、王妃さま付きとして入宮したキリスヤーナの……」
「ご冗談でしょう?」

 聞き違いかと思って足を止めたとき、別の女官がはっきりと言った。王妃さまがお認めあそばした、と。
 はらわたが煮えくり返るとはまさにこのこと。帰国後、が足しげく華栄殿に通っていたのは知っている。それなのになぜ、心をつかめない!

 ――所詮、タナシアはその程度なのだ。シャロアの足元にも及ばぬ。

 呼ばれたことのない清殿に、あろうことか異民族の女が召されるのを、どんな思いで承諾したのだ。つくづく愚かな娘よ。シャロアなら――。
 エフタルが離れの部屋に入ると、例の武官が下卑た笑みで迎えた。武官の顔を見て、落胆するようにため息をつく。まったく、どいつもこいつも使えぬ者ばかりだ。

「笑っている場合か。投獄されたお前の縁者が口を割る前に始末しておけ」
「ファユのことなら心配はご無用でございます、エフタル様。あの者は、自ら命を断ってでも秘密を守ります」
「どうもお前は信用できぬ。世継ぎがまだゆえ殺してはならぬと命じていたのに、致死の毒を使っただろう」
「い、いいえ、滅相もございません。それがしには覚えがないことなのです。ファユには、麻痺毒を塗るように申しつけました。宰相様からの知らせに驚いたのは某の方で……」
「まことか?」

 語尾を上げて、はなはだ信じられぬとエフタルが武官をにらむ。すると、武官は懐から小さな金の筒を取り出した。

「某は、エフタル様のお力添えがあったからこそ立身できたのです。これからもエフタル様に魂を捧げ、誠心誠意お仕えいたす所存でございます。その証に、エフタル様のご命令どおり、サリタカルでキリスヤーナ国王の使節を始末いたしました。こちらを」

「ほほう。これはキリスヤーナ国王の書簡か?」
「さようでございます。部下に探らせましたら、陛下に謁見して直々に渡すよう命を受けていたようです」

 ハウエルの書簡を流し読みして、キリスヤーナ国王も肝の座らぬ男だとエフタルは鼻で笑った。銅の交易に融通をきかしてやったというのに、恩をあだで返すとは何事だ。

 ――己の身の潔白を明らかにしたいだと?

 王がキリスヤーナ国王を調べれば、いずれ我が身にたどり着く。そうなれば、サリタカル国王に送った偽の書簡も白日の下にさらされる。
 忌々しい。キリスヤーナ国王ひとりで罪を被ってくれればよいものを……。
 エフタルはしばらく黙って考えを巡らせたあと、にたりと口の端を歪めた。金の筒に書簡をしまって、それを武官に戻す。そして、扇で口元を隠して声をひそめた。

「死んでしまった使節に代わる者を用意せよ」
「はい?」
「その者にキリスヤーナ国王の見上げた忠誠心を託すがよい」
「……と、言いますと?」
「話の通じないやつめ。まず、偽の使節を謁見させて、その書簡を手渡す」
「……はあ」
「陛下が使節に近付いたら、殺せ」

 驚いて目を丸くする武官を尻目に、エフタルは文台から紙と筆を取る。そして、さらさらと筆を走らせて、書き上げたものを武官に手渡した。

「キリスヤーナ国王を捕らえて処刑するよう書いてある。これを持って行って、この前のように陛下の書簡を作って来い。王印を押して、偽の使節と陛下が謁見する機会をうかがい、サリタカル国王に送る」

 武官は、受け取った紙を慎重に懐にしまってエフタルの屋敷を出た。
 街角を何度か曲がって、人通りの少ない裏通りの茶店に向かう。辺りを警戒するように見回して店に入り、先立って伝えておいた偽名をそこの女主人に告げると、最上階の一番奥の座敷に案内された。そこでは、こんな安い茶店には似つかわしくない貴人が、両脇に女人をはべらせて優雅に酒を呑んでいた。部屋の隅には、きらびやかで勇壮な舞楽面が置かれている。

「カリナフ様」

 武官はそろりとカリナフに近付いて、エフタルから預かった紙を差し出した。カリナフは女人をさげてそれを読み、くつくつと冷笑する。

 ――これはまた、エフタル様もりぬ性分であらせられる。

 猛々しいだけの獣は、追い詰められていることに気付かぬまま、自ら罠にはまっていく。つまりは、浅はかで単純なのだ。

「某はいかがすれば……」
「エフタル様に言われたとおり、偽の書簡を用意するがよい」
「かしこまりました」

 それから、と武官はキリスヤーナ国王の使節のことをカリナフに話した。
 キリスヤーナ国王が身の潔白を証明するためにどんな取り調べでも受けると書簡を使節に託していたこと。陛下に使節を拝謁させ、使節の手から直接その書簡を渡すつもりであったこと。そして、それをつかんだエフタルに使節を始末するよう言われて殺害したことを。
 武官の話を聞いたカリナフは、偽の使節についてもエフタルの命令どおりにするように告げた。

「しかし、それでは陛下の身が危ないのではありませぬか?」
「おいそれと陛下を傷つけさせるものか。使節を見繕ったら知らせろ。それから、書簡ができたら私に見せるように」
「はい」
「ひとつだけ肝に銘じておけ。私はエフタル様のように手ぬるくはない。私の信用を少しでも失えば、牢にいるファユはもちろんのこと、即座にお前は一族もろともこの世から消え去ることになる」

 清寧殿に華栄殿の女官がぞろぞろとやって来たのは、空が夕焼けに染まるころだった。タナシアの女官として入宮しているラシュリルには、カリンが従者としてついているだけだ。名目上とはいえ、主人であるタナシアが身支度を請け負うのは当然のことだった。

 女官たちは無表情でラシュリルを湯殿で磨き、王妃が用意した衣装を着せた。次に、なされるがまま身を任せるラシュリルに化粧をほどこして、小一時間ほどねやの作法を叩き込んだ。

「宜しいですね?」

 三十六項目にもおよぶ作法を列挙し、片眉を上げてそう念を押したのは、カイエという若い女官だった。ラシュリルは、ごきゅっと生唾を飲みこんで肩をすくめる。カリノス宮殿の若いメイドたちは、みんな気さくで和気藹藹わきあいあいとしていたのに、ここの女官たちは実に素っ気ない。心なしか敵意のようなものまで感じて恐々としてしまう。

「それから、明日の朝は華栄殿で王妃さまにご挨拶なさいますよう」
「わかりました」
「では、お時間になりましたので参りましょう」

 ラシュリルは、カリンを清寧殿に残して華栄殿の女官と清殿へ向かった。結局、清殿につくまで、誰ひとり口をきかなかった。
 清殿の前で待っていたコルダが、カイエと言葉を交わしたあとラシュリルを殿内に案内した。

「アユル様が待ちかねておいでですよ」

 心をほぐすようなコルダの笑顔が身にしみる。
 ラシュリルは、コルダの後ろを歩きながら殿内を見回す。初めてここに来たときは、まさかカデュラスの王宮に住むことになるなんて思いもしなかった。
 迷路のような廊下を歩いた先で、コルダが部屋の引き戸を開ける。どうぞ、と言われて部屋に入ると、中央に敷かれた真っ白な寝具の上にアユルが座っていた。

「お待たせしました」
「遅かったな」
「ごめんなさい。わたしのお部屋からは遠くて……」
「にしても、私を一時間も待たせるとは」
「そんなにですか?」

 戸口に立ったまま、時間になったと言われて清寧殿を出たのに、とラシュリルが首をかしげる。その様子に、アユルは何かを察してラシュリルをそばに呼んだ。近くに腰をおろしたラシュリルの腰帯から玉牌をはずして脇の台に乗せ、小袿こうちぎを脱がす。
 色味の薄い地味な小袿。ラシュリルから香油の香りはしない。そして、遅刻。王妃の指示があったかどうかはわからないが、女官が嫌がらせをしたのは明らかだ。

「焦らされているのかと思った」
「そ、そんなことしません。恥ずかしいことを真顔で言わないでください」
「では、王妃が清寧殿に来たか?」
「いいえ。どうしてですか?」
「酷いことを言われたりされたりしたのではないかと心配になってな」
「王妃さまはいつも優しく接してくださいます。今日だって、王妃さまの女官が支度をしてくださったのに、酷いことだなんて」

 ならばよい、とアユルはラシュリルの手首をつかむ。このときを待ちわびた。今日のために華栄殿で夜を明かしてきた。この歓びをラシュリルも胸に秘めているに違いない。しかし、目の前にいるラシュリルは、どこか浮かない顔をしている。

「私が王妃を疑うようなことを言ったのが気に障ったのか?」
「アユルさまは、その……。例えば、王妃さまがわたしのことを心苦しく思っておられても平気なのですか?」
「今宵のことで嫉妬して、そなたに危害を加えるようなら看過しない。心配するな」
「わたしのことを心配しているのではありません。王妃さまのお気持ちを思うと心が痛んでしまって。アユルさまの言葉の意味は、そういうことなのでしょう? 宰相さまから、アユルさまの妃には身分とか政治的な価値が必要だと教えていただきましたけれど、王妃さまも心があるのに……」

 そなたらしいな、とアユルは苦笑する。ラシュリルを案じて言ったことがあだになってしまった。本人は嫌がらせに気付いていないばかりか、王妃の心配までしている。こういう所がよいのだが……。

「なら、やめておくか? このままここを出て清寧殿に戻れば、しかるべきときにキリスヤーナへ帰れる」
「……それも、嫌です。アユルさまとずっと一緒にいたいもの。できれば、その、来世でも……」

 ラシュリルが、ごにょごにょと口ごもって、しゅんと肩を落とす。アユルは思わず吹き出した。

「王妃を気遣いながら来世まで望むとは、思いのほか欲が深いのだな」
「そ、それとこれとは別で……。わたしも気持ちを整理できないのです。王妃さまには申し訳なくて、でもアユルさまのことは好きだし、どうしたらいいのか」
「どうしたらいいのかは、もう何度も言っただろう。添い遂げるために、他の者が入り込めないくらい互いを愛しぬけばよい」

 アユルは、ラシュリルを胸に抱き寄せてごろんとしとねに寝転んだ。腕に乗った重さが愛おしい。まだ乾ききらない髪から香る匂いにさえ安らいで、心が幸福で満たされる。
 ずっとこのままのラシュリルでいてほしい。だが、もっと貪欲であってほしいとも思う。私は勝手だな、とアユルは心内で自嘲した。

「ラシュリル」

 名を呼べば、腕の中からつぶらな瞳が見返してくる。アユルはラシュリルの髪を手でいて、頭のてっぺんに口付けた。そして、すぐに視線を腕の中に戻した。

「そうだな……。そなたと市井で誰にも邪魔されず幸せに暮らせるような来世なら、私も望んでみたい」
「市井って素敵ですね。アユルさまと一緒なら、どこにいてもわたしは幸せです」

 嬉しそうにラシュリルが笑う。
 普通の男は、来世での誓いも立てるのだろうか。確かに、市井の民に生まれ変わったなら、想像もつかないほど幸せかもしれない。

「だがな、ラシュリル。私には来世がない。死ねば、転生できないように魂を焼かれてしまうのでな」
「……魂を、焼く?」
「そう。私は王位を継いだ者として、名と土にかえることのできない枯骸こがいを残して、死後も神を演じなければならない。だから、やはり、来世を夢見るのではなく、現世で命の限りそなたを愛したい」

 強く抱きしめられて、ラシュリルはアユルの胸に顔をうずめた。
 夜着を通して、心臓の強い律動が伝わってくる。幸せにしたいと思っているのに、どうして心が揺らいでしまうのだろう。こんなわたしでは、だめ。わたしが大切にしたいのは、アユルさまなのに――。
 ラシュリルが、力強い腕をかいくぐるようにしてあごを上げると、ふたりの視線が交わった。

「ごめんなさい、アユルさまを責めるようなことを言って。本当は、アユルさまと一緒にいられるのが嬉しい……」

 大好き、と照れながら目を閉じて、ラシュリルが口付ける。
 アユルはちゅっと優しく応えたあと、噛みつくようにふっくらとした唇を食んだ。少し手荒くしてしまっても、今夜だけは許してほしい。逃さないように後頭をつかんで舌をねじ込む。

「……ふ、ん……っ」

 ふたりの熱い息が重なって、くちゅっと唾液が口の端からあふれる。アユルは空いた手で、ラシュリルの太腿を持ち上げて自分の脚に乗せた。わずかに抵抗するラシュリルの舌を強く吸いながら、夜着の裾を割って指先で陰唇をまさぐる。

「……ぁんっ」

 わざと唇と解放すれば、可愛らしい悲鳴があがる。はずれていく理性の縛り。体の隅々まで、互いで満たしたい。愛していると囁いて、アユルはまたラシュリルの甘い唇を貪った。

「もうお休みになられませ、王妃さま」

 カイエが、タナシアの肩に小袿をかける。タナシアは、南殿の廊下に座って長いこと庭を眺めていた。春めいてきた月明かりが、夫の幻影まぼろしを見せる。ここから庭を見ていた夫は、絵巻から飛び出てきた天人のように美しかった。

 ――今ごろ、陛下は王女を……。

 体が覚えている夫の手の動きが、耳に残っている夫の吐息が、淫らなふたりを想像させる。タナシアは、きゅっと唇を噛んで何とか正気を保った。
 明日の朝、夫に抱かれた王女の挨拶を受ける自信がない。けれど、王宮のきまりは絶対で、そうすることで王妃の方が上なのだと示せる。

「カイエ」
「はい、王妃さま」
「明日、王女殿がここに来る前に父上にお会いしたいのです。今から実家に使いを出してください」
「かしこまりました。ですが、その前にお願いがございます」
「何かしら」
「春が近くなったとは言え、まだ夜は寒くございます。早くとこにお入りくださいませ」

 わかったわ、とタナシアは重たい腰を上げて寝所に向かった。そして、つい先日まで夫と一緒に眠った冷たい床に横たわった。