第27話 王妃様の秘密


 うららかな春にはまだ少し遠い。けれど、月夜にささやくように響く雄滝の音が、さらさらと清らな季節の訪れを告げている。

「……ぁんっ!」

 ぱんっと腰を打ちつけられて、ラシュリルは絹のしとねに突っ伏した。その背に覆いかぶさるように、汗ばんだ肌が密着する。力なく投げ出した手に絡む指。耳にかかる吐息。そのどれもが熱くてたまらない。

「アユルさま……、もう、んっ」

 顔を横に向けて、はぁはぁと切れぎれの息をしながら許しを乞うと、その息を奪う勢いで口を塞がれた。さらに、中を穿ったままのたぎりに最奥を突かれて苦悶に喘ぐ。

「ぁ……ふっ、んんっ」

 うつ伏せの体勢で動かれると、いつもと違う所に当たって、苦しいような気持ちいいような変な感じがする。舌を深く絡めるような濃厚な口付けも、心地よく淫らな衝動をつき動かしておかしくなってしまいそうだ。

 唇が離れる間際、アユルが「愛している」と言った。
 今夜、何度目の愛しているだろう。今日のアユルさまは何だか変。そんなことを思った瞬間、体を起こしたアユルが激しく動き始めた。徐々に上りつめていく感覚に、ラシュリルはぎゅっと敷布を握りしめる。

「あっ、あっ……、んんっ、だめ……っ!」

 抽送しながら、アユルがラシュリルの上半身を抱きかかえた。弓なりにしなった体を後ろから突き上げられて、ラシュリルはあっけなく意識を手放してしまった。

「……アユルさま」

 乱れた息の合間に夢見心地で名を呼べば、ほほや首にやさしい口付けがおりてくる。体に巻きついたたくましい二本の腕。背中にぴたりとくっついた肌。整わない息と汗の香りが、普段と違ってどきっとする。けれど、思考も体もふわふわとしていて、すべてが夢みたい――。

 アユルは、くたっと枝垂しだれたしたラシュリルの体を仰向けに寝かせた。自身を引き抜いた蜜口から、ふたりの体液が混ざった白い粘液がどろりと流れ落ちる。
 もう、どれくらい時がたったのか。早く休ませなければ、明日に差し支える。だが、どうしても今夜は心ゆくまで愛したい。

 体重をかけないように覆いかぶさって、短い息を吸ったり吐いたりしている唇に自分のそれを重ねる。それから首筋に顔をうずめれば、力のない手が頭をやさしくでた。

「ああ、ラシュリルの匂いがする。甘い桂花の香りが……」

 低くささやくような声が、鎖骨のあたりをかすめる。カデュラスに来てから、一度も桂花のお香は使っていない。けれど、ラシュリルはアユルの頭を撫でながら「よい香りですか?」と尋ねた。答えの代わりに、薄い唇が肌をたどって乳房を食む。

 じじじ……、と燭台のろうそくから煙が一筋ゆるやかに立った。櫛形窓の真っ白な障子に、夜半よわの月明かりに揺れる木々の影が映っている。ラシュリルの視線がそちらに向いていることに気付いたアユルは、視界を遮るように顔を近付けた。

「何を見ている」
「窓を。幻想的でとってもきれい……」

 アユルは、ラシュリルの頬にかかったびんのほつれ毛を指でのけながらふっと軽やかに笑った。

「わたし、変なことを言いましたか?」
「そうではない。この世にこんなに美しい夜があるのかと目を丸くしていたのを思い出しただけだ」
「嫌だわ。そのときのわたしは、きっと変な顔をしていたでしょうね」

 恥ずかしい、とラシュリルが上気する頬を両手で包んではにかむ。アユルはその手首をつかんで敷布に縫いとめた。夜など足元にも及ばない。この世の何より、純粋な心こそが美しいのだから。当人にその自覚がないところがまた、よい。
 さて続きを、と唇を重ねようとすると、ラシュリルがきりっと鋭い目を向けてきた。

「アユルさま、もうだめですよ。夜も遅いし、これ以上は体が持ちません」
「私を満足させよと女官たちに教えられただろう?」
「まっ、まっ、満足って……!」

 にやりと上がるアユルの口角に、ラシュリルはごくっと喉を鳴らす。早く夜明けがこないかしら。このままでは本当に体がおかしくなってしまうかもしれない。ああ、宰相さまの家の雄鶏おんどりが恋しい。夜明け前の高らかな鳴き声が――。

 ひとりでどきまぎしていると、角ばった指がつぅと鎖骨をなぞった。宝石をちりばめたような漆黒の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。左肩に残る痛々しい傷跡。ラシュリルはそれにそっと触れた。

「もう、痛くありませんか?」
「何ともない」
「本当に? 早く休んだ方が」
「そうきたか」
「違います。痛そうだから、その……」
「冗談だ」
「えっ?」
「愛している、ラシュリル」

 心を一瞬で懐柔する魔法のような言葉が、耳介じかいから体の中に染み込む。やっぱり、夜明けはまだこなくていい。ラシュリルは覆いかぶさるアユルの背に手を回して、ぎゅっと腕に力をこめた。

 翌朝、ラシュリルは早くに清殿を出て清寧殿せいねいでんで身なりを整えた。そして、言いつけ通りの時刻にカリンと華栄殿かえいでんへと向かった。あちこちで女官たちがラシュリルを見て、ひそひそと口元を袖で隠す。

 華栄殿の近くの渡り廊下にさしかかったとき、後ろからカリンに小袿こうちぎの袖を引っ張られて、ラシュリルは「なぁに?」とふり返った。カリンが前方を指さして、伏せてと言う。カリンの指がさす方に目を向けると、華栄殿の方からひとりの男がこちらに向かってきた。

「あの方は?」

 ラシュリルが問いかけると、カリンは「いいから」と廊下にひれ伏した。ただ事ではないその様子に、ラシュリルも慌ててひれ伏す。しばらくして、足音がすぐ近くで止んだ。

「これはこれは、キリスヤーナの王女ではないか。ああ、昨夜は陛下のご寝所に召されたのであったな。これから王妃様の所へ挨拶に参るのか?」

 男の衣から、奇妙で独特な香りがする。ラシュリルは座ったまま男の顔を見上げた。ラディエとはまるで違う、あたたかみのない男の表情に背筋がぞくりとする。

「おや、この顔を忘れたのか? が人質としてこの国に来た日に皇極殿こうぎょくでんで会ったであろう」
「ごめんなさい。あのときは皆さまの顔を拝見する余裕がなくて」
「では、よく覚えておけ。私はエフタル・カノイ・アフラム。この国の大臣であり、王妃様の父でもある。異民族がそのように許しなく顔を上げて私を見るなど言語道断。恥もなく陛下のそばにいるというのなら、カデュラスの礼儀をわきまえられよ」

 あまりの威圧にラシュリルが気圧されていると、隣でカリンがエフタルに会釈した。

「おお、そなたはラディエ殿の末の姫君ではないか。話には聞いていたが、何とも憐れなことよ。このような厄介な者の世話を仰せつかるとは。王妃様に上申して実家に帰れるよう手配してもらうがよい。私からも折をみて王妃様に言っておこう」

 ふるふるとカリンが首を横に振る。エフタルは面白くなさそうな顔をして、王女を華栄殿へ連れて行くよう言った。そして、立ち上がるラシュリルを舐め回すように見て、さげすむように鼻を鳴らした。しかし、ラシュリルが横を通り過ぎようとしたとき、エフタルは物の怪でも見たかのように顔を凍りつかせた。

「待て」
「はい。えっと……、エフタルさま」
「その玉牌は何だ。なぜキリスヤーナの者がそれを持っている」

 これは、と答えようとするラシュリルの袖を引っ張って、カリンが「早く。時間」と口を動かす。エフタルはちっと舌打ちをして「早く行け」とあごをしゃくった。その様子を、向かいの廊下の角から見ていたアユルは、コルダを手招きで呼んだ。

「見たか、コルダ」
「はい。エフタル様は王妃様とお会いになっておられたようですね」
「夕刻にラディエとカリナフを清殿に連れてこい。よいか、エフタルが城を出たあとにだぞ」
「かしこまりました」
「私は朝議に出てくる。ラシュリルが清寧殿に戻ったら、あれを届けておけ」
「御意に」

 タナシアは華栄殿の一室でひとり、ラシュリルを待っていた。婚儀の日に賜った菖蒲あやめの扇からは、もう、少しも桂花の匂いはしなくなった。

「陛下」

 か細い声が、爽やかな風に消える。望んで王妃になったわけではない。けれど、心惹かれてしまった。ぱちんと菖蒲の扇を閉じて前を向く。御簾みす蔀戸しとみども上げられて、視界の先には白砂が敷かれた美しい庭が広がっている。昨日の宴の名残はとうに消え去り、澄んだ春鳥のさえずりだけがにぎやかだ。もう春ね、とひとりごちたとき、衣擦きぬずれの音と共に王女が部屋に入ってきた。

「王妃さまにご挨拶申しあげます」

 ラシュリルは、習ったとおりに下座に座って深く頭をさげた。王女殿、と声が掛かって顔を上げる。
 ぱらりと開くタナシアの檜扇ひおうぎ。美しい月夜の花が描かれて、親骨からきれいな飾り糸が垂れている。

 そう言えば、王妃さまっておいくつなのかしら。見た目には、年はそれほどかわらないような気がする。それなのに、あふれるような気品がまぶしい。見ているだけでどきどきしてしまう上品な所作に、ラシュリルの目が釘付けになる。それに気付いたタナシアが、檜扇で口元を隠してほほえんだ。

「あなたが気を遣ってはと、女官はさげてあります。楽になさってください」
「ありがとうございます、王妃さま」
「これから永い時を共に過ごすのですから、仲良くいたしましょうね。さあ、近くにいらして」

 ラシュリルはおずおずと立ち上がって、言われたとおりタナシアの前に腰をおろした。

「あら、王女殿。えりが乱れているわ。わたくしが直して差し上げましょう」
「すみません、失礼なことを……。自分でいたしますから」
「いいのですよ」

 タナシアが閉じた檜扇を置いて、ラシュリルの胸元に手を伸ばす。白くて柔らかな手が、衿を整えながら下におりていく。ゆっくり、ゆっくり、腰帯に結ばれた玉牌を目指して――。

「今日は気候もよいのであなたと庭をそぞろ歩こうかと思ったのですけれど、宴の疲れで体調が優れなくて」
「昨日もお加減がよくなさそうでした。大丈夫ですか?」

「ええ、こうしてじっとしていれば何ともありません。次の機会に、庭をご案内しますわね。王宮の庭は四季折々、いつもきれいな花が咲いて見飽きません。もう春の花が芽吹き始めたころ。あなたにもぜひご覧いただきたいわ」

「王妃さまとお散歩できるなんて、とっても嬉しいです」
「そう言っていただいて、わたくしも嬉しいわ。よかった、あなたが心穏やかな優しい方で」

 たわいもない会話をしながら、タナシアはラシュリルの玉牌をつかんだ。しっとりと肌になじむ鉱石の感触。そして、彫られた模様に赤い飾り紐。間違いない。これは清殿の書斎にあった物。確信するとますますわからなくなってしまう。
 あのとき清殿にあったということは、キリスヤーナに行く前に陛下が持っていたということ。それが今、王女の腰にある。一体、どうなっているの?

「王妃さま?」

 ラシュリルの声に、タナシアはびくりとした。それを気取られないように、自然な動作で玉牌から手を離す。
 嫌な予感がする。たった一夜のことで、世界が崩れてしまったような恐怖に飲み込まれてしまいそう。

 ああ、息が苦しい。陛下は、あなたが触れてもいいような方ではないの。あの方にふさわしいのは、選ばれた高貴な者。王妃であるわたくしだけ。どうしてわたくしをこんな気持ちにさせるの。

「王妃さま、具合が悪いのではありませんか?」

 ラシュリルは、タナシアの顔を覗きこんだ。タナシアは、目にじわりと涙をためて胸をおさえている。カリンに人を呼ぶように頼むと、すぐに華栄殿の女官が駆けつけた。

「せっかくお越しいただいたのに、見苦しいところをお見せしてしまってごめんなさいね。あなたもお疲れでしょうから、清寧殿へ戻ってお休みになるといいわ。わたくしも失礼して横になりますね」

 清寧殿に戻ったラシュリルは、カリンと縁側に座って一息ついた。何気なく腰帯に結んである玉牌を手に取る。お母さまがキリスヤーナに行く前に高貴な人から譲り受けたという品。常に肌身離さず身につけるように言われてそうしているけれど、エフタルさまも王妃さまもこの玉牌が気になる様子だった。

 ――何か特別な物なのかしら。

 とんとん、とカリンがラシュリルの肩を軽く叩く。見ると、カリンは眉尻をさげてひどく悲しそうな顔をしていた。

「どうしたの?」
『大丈夫?』
「わたしを心配してくれているのね。エフタルさまの言葉は気にしていないから大丈夫よ。ありがとう、カリン」

 その日の昼。華栄殿にカデュラス国王の侍従がやって来た。王女を妃にするという宣旨と今宵も王女を寝所に召すという言伝ことづてを携えて――。

 タナシアは、文机に広げた宣旨を呆然と眺めた。
 今朝エフタルと会ったとき、タナシアはひとつ打診を受けていた。近々、また王印を押してもらいたいと。その書簡があれば、陛下の手がついた王女を王宮から追い出せるそうだ。
 一度目は、罪の意識に苦しんだ。けれど、今は?

 ――陛下をわたくしひとりのものにできるのなら……。

 いえ、やはりいけないわ。陛下に背くことは二度としないと誓った。でも、このままでは陛下の御心を王女にさらわれてしまう。
 この罪は、胸に秘めたまま死ぬまで背負っていけばいい。父上とわたくしの秘め事として――。

 タナシアは、宣旨をたたんでカイエを呼んだ。開け放たれた丸窓から入ってきた柔らかな風に、豪華なかんざしの飾りが、しゃらんときれいな金属音を立てた。