第30話 罠


「本当に護衛はつけなくても宜しいのですね?」

 カリナフは、皇極殿に向かうアユルを引き止めた。
 殿内にはいつものように官吏たちが並び、キリスヤーナ国王の使者がカデュラス国王に謁見する時を待っている。

 皆の前で使者を捕らえることができれば、こちらにはとても都合がいい。だが、それには危険が伴う。陛下が襲われてこそ、捕縛が可能になるのだ。絶好の機会を逃すまいと進言したのだが、やはりいざとなると躊躇ためらってしまう。
 陛下は国の根幹であり、大陸の安寧のいしずえである。もし、万が一のことがあれば取り返しがつかない。

「いらないと何度言わせる気だ。くどいぞ」
「……やはり、やめておきましょう。もしもの事があれば一大事。別の方法を考えます」
「そのような時間はない。どうした、カリナフ。そなたらしからぬ言葉だな。怖気づいたのか?」

 そう言いながら、アユルが腰から脇差しを抜いてコルダに渡す。カリナフは目を見張った。

「陛下。護衛はいらぬとおっしゃりながら、脇差しを侍従じじゅうに預けるのですか? 相手はただの使者ではないと申しあげたはずですが」
「わかっている。油断させるために丸腰になっただけだ」
「陛下が書簡をお受け取りなる瞬間を狙って、至近から確実に狙ってくるでしょう。まさか、その腰の扇ひとつで敵のやいばかわすおつもりですか? 無謀なことをお考えなら、尚更やめるべきです」
「扇ひとつあれば十分だ。そなたは余計な心配をせず、いつものように座って見ていればよい」
「陛下!」
「勘違いするな、カリナフ。無謀なことを考えているのは向こうであって余ではない」

 一瞬、アユルの黒い瞳孔が赤くきらめく。気のせいか、とカリナフがアユルの目を覗きこむように見た。それを横目に、アユルは薄笑いを浮かべて廊下を歩き始める。

 傷つけるだけでは足りず、殺しにかかってくるとは大胆な。
 娘が王子を産む日を待ちきれず、とうとう自ら王の座につくつもりか。若造ごとき、簡単にほふれるとでも思っているのだろうか。随分となめられたものだ。

 アユルは、カリナフを従えて皇極殿に一歩踏み入る。そして、脇差しを持ってついて来ようとするコルダを制した。
 連れて行けば、コルダは身をていして私を守ろうとする。貴妃様から託された大切な命だ。今日ばかりは、心を鬼にして置き去りにしなくては。

「コルダはここで、余が出てくるのを待て」
「いえ、陛下。わたくしも参ります」
「同じことを二度、言わせるな」

 コルダを残して閉じた扉の向こうで、王の御成が告げられた。

***

「カリン、雄鶏さんに餌をあげてきて」

 うん、と尼削ぎの頭を揺らして庭におりるカリンを見送って、ラシュリルは静かに筆をおいた。同時に、唇から深いため息が漏れる。

 あの雨の夜を最後に、アユルとラシュリルは一度も顔を合わせていない。
 毎朝、雄鶏の餌を持ってくるコルダから変わりなくお過ごしだと聞いて、少しは安心したラシュリルだったが、やはり顔を見ないことには落ち着かない。

「いい天気」

 ラシュリルは、開け放たれた窓に目を向けてぽそっとつぶやく。
 窓から少し離れた部屋の脇で、衣桁いこうに掛けられた目も覚めるような豪華な衣が、とばりのように小風にすそをはためかせている。それは先日、位と一緒にタナシアから下賜されたもので、一度も袖を通さないまま、そこに飾られている。

 王宮を取り仕切るのは、王妃さまのお役目。当然、位を定めたのも王妃さまだということ。
 そう考えると、どうしてもあの夜のことが気になってしまう。呼んでおいてそれを反故ほごにするなんて、アユルさまは絶対にそんなことはなさらないはず。何か、事情があったのだと思う。

 ――激しい雨の中をひとり、どんな気持ちで歩いて来たのかしら。

 雨に濡れた悲しげな顔が頭から離れなくて、胸が締めつけられる。許せと言った声も弱々しく震えて、もしかしたら本当に泣いていたのかもしれない。

「少しでいいから、お会いできないかしら……」

 そう思ってはいるが、簡単にはいかない。
 王宮の規範は厳格に守るべきもので、王もしくは王妃の許可なしに、妃が一存で王の居所を訪ねることは禁忌だ。勝手なことをして見つかったあかつきには、厳罰が待っている。

***

 コルダは命じられたとおり、皇極殿の廊下に座してアユルを待っていた。
 先ほど、殿内からおぞましい叫び声が聞こえてきた。
 雄叫びのようなそれは、アユルの声ではないことは明白だった。しかし、不吉なことが頭をよぎってしまう。

 ――アユル様の身に大変なことが起きてしまったのではないか。

 不安に駆り立てられて、立ち上がっては思い直して座り、また立ち上がっては座り……を繰り返し、コルダのひたいには大粒の汗が浮かんでいた。
 アユル様は、出てくるのを待てとおっしゃった。必ず、無事に戻って来る。念仏のように心の中でそう言いながら、膝の上で拳を握って衝動に耐える。

 どのくらい経っただろうか。コルダにしてみれば、一日も二日も経ったかのように長い時間だっただろう。荒々しく扉が開いて、アユルが出てきた。

「アユル様!」

 コルダは一目散にアユルに駆け寄ると、全身をくまなく確認した。そして、安心した様子でほっと息を吐いて胸をなでおろした。叫び声が聞こえたときは慌てたが、どこも怪我はしていないようだ。
 いつものにこやかな顔に戻ったコルダに、アユルが手に持っていた金の筒を手渡した。

「こちらは?」
「ハウエルの書簡だ。清殿に戻ってきれいにしてくれ。少し汚れてしまったのでな」
「かしこまりまし……」
「どうした」
「これは……、血ですか?」

 コルダは眉間にしわを寄せた。純金に輝く筒には、べっとりと血糊がついている。少し汚れてしまったという程度のものではない。

「私としたことが、刺客を仕留めるときにうっかり力加減を誤ってしまった」
「アユル様がご自分で?」
「コルダ、詳しい話はあとだ。ラシュリルに書簡を見せて、ハウエルの字に間違いないかを確かめたい。そのように物騒なものを見たら、ラシュリルが驚いてしまう」

 アユルが外廷と王宮をつなぐ廊下を渡っていると、タナシアが華栄殿から出て来るのが見えた。アユルはコルダを先に行かせると、しばし足を止めて華栄殿を眺めた。

 清殿をはるかに凌ぐ豊かな色彩は、王宮に並ぶどの御殿よりも美しく華やかで清々しい。天にいるという仙女が住んでいそうな佇まいだ。
 あの夜、王妃はラシュリルと懇意にすると言った。だが、所詮、それは絵空事でしかない。かつて母親がそうであったように、華栄殿に住む者は王妃という立場ゆえにあらゆるものに嫉妬する。

 若造を殺し損ねた愚か者と王の女に嫉妬する王妃。次にふたりが華栄殿で顔を合せるとき、ハウエルを始末する書簡が動く。王妃は必ずエフタルの求めに応じるはずだ。邪魔な妃を正当な理由で王宮から追い出せるのだから。
 外廷と王宮を取り次ぐ女官が向かって来る。アユルは女官と顔を合わせないように、急いで清殿に戻った。

 そのころ皇極殿では、武官たちが右往左往していた。彼らに指示を出して動かしているのは、ラディエとカリナフだ。
 カリナフが武官から得た情報通り、キリスヤーナ国王の使者という三人の男は刺客だった。カデュラス国王への謁見が叶うと、次は直々にキリスヤーナ国王の書簡を受け取ってほしいと要求してきた。

「一体、何が起きたというのだ」

 ラディエが吐き気をこらえながら、仰向けに倒れた刺客に近付く。男は目を上転させて、苦悶に顔を歪めたまま絶命している。辺りには男の血が飛び散って、大きな血だまりができていた。

 陛下が書簡を受け取ろうと、高座たかくらをおりて使者の前にかがんだ瞬間だった。
 ここに倒れている男が、目にも止まらぬ早業で短剣を陛下めがけて振りおろした。これはだめかもしれない。瞬間的に、そんな絶望的な考えが頭をかすめたことは口が裂けても言えない。

 しかし、その絶望的な考えは一瞬で霧となった。
 振りおろされた短剣は、陛下の頸動脈に刺さる前に何かに弾かれてしまった。男はおびえ、小さくうなっていた。そうこうしているうちに、陛下が腰から扇を抜いて、そのつかを男の喉に突き立てた。

 真っ赤な鮮血が吹き上がると同時に響いたつんざくような男の悲鳴。恐らく、誰ひとり目の前で起きたことを理解できなかったはずだ。
 ラディエは、自分の扇を握ってまじまじと見た。
 どのようにすれば、少し力を込めれば折れてしまいそうな白竹の柄で人を刺せるのか。不思議で仕方がない。しかし、何はともあれ、陛下は傷ひとつ負うことなく刺客を捕らえた。

「カリナフ、ここはそなたに任せる。私は陛下に命じられた通り、キリスヤーナ国王をここへ呼ぶ手配をしてくる」
「……はい」
「そなたも驚いたか」
「……ええ。ところで、エフタル様の御姿が見えませぬが……」
「さっき、どさくさに紛れて出て行った」
「まさか逃げたのでは?」
「エフタルはまだ、私たちに見破られていることを知らぬはずだ。それに、皆もキリスヤーナ国王の仕業だと思っている。私がエフタルなら、逃げるよりも次の手を打つが……」

***

 アユルは、王宮の広大な庭の一角にある池の畔でラシュリルを待った。ここは王宮の奥まった場所で、滅多に人は来ない。アイルタユナの事件が起こる前は、コルダとよくこの池で泳いだものだ。
 しばらくすると、コルダがラシュリルを連れてきた。アユルは、ラシュリルの装いに表情やさしく目を細める。キリスヤーナの瑠璃るりで染めた衣が、とてもよく似合っていた。

「このような所に呼び立ててすまないな」
「いいえ。アユルさまのお顔を見られて安心しました」

 そうか、といつもの調子で言って、アユルがラシュリルの手を取った。ラシュリルは一瞬だけ戸惑って、あたたかな手をぎゅっと握り返す。

「コルダは清殿に戻っていろ」
「かしこまりました」

 一礼して深緑の木々が茂る庭に消えてゆくコルダの背を見送って、ふたりは池の中島に架かる切石の反り橋を渡った。

「気をつけろ。私は何度か落ちたことがある」
「ふ、深いのですか?」
「さあな」

 ラシュリルは怖くなって、アユルの手を両手で握りしめた。紺碧色こんぺきいろの池の水は不透明で、どれくらいの水深なのか見当もつかない。時折、魚が跳ねて水面に波紋を描く。

 橋を渡りきると小さな四阿があって、大人がふたり並んで座れるくらいの腰掛けが置かれていた。ふたりは、それに座って一息つく。
 四方を池に囲まれた中島は、まるでぷかぷかと水面を漂う小舟のよう。それに、王宮とは思えないほど静かで、切り取られた別の世界にいるような心地よさだ。

「そう言えば、わたしに見せたい物があるってコルダさんに聞きましたけれど……」
「ああ。ハウエルの物で間違いがないか、これを確認してくれ」

 アユルが金色の筒を差し出す。コルダが洗ってくれたお陰で、惨劇の痕跡は見事に消えている。ラシュリルは筒から書簡を取り出して読むと、ふふっと笑みをこぼして大きく頷いた。

「間違いありません。お兄さまの字です」
「嬉しそうだな」
「だって、身の潔白を明らかにしてわたしを迎えに行きたいって書いてあるんですもの」
「キリスヤーナに帰りたいのか?」
「いいえ。そうではなくて、アユルさまの肩の傷のこと……。お兄さまが仕組んだことだなんてどうしても信じられなかったのです。あっ、でも、誤解なさらないでくださいね。わたしは別にアユルさまのお考えに口を出すつもりはなくて、ただお兄さまを」

 わかっている、と言葉を遮ってラシュリルを抱き寄せる。
 きれいな黒髪に触れて指でけば、やさしく甘い香りがふわりと漂った。会いたかった。胸からあふれる歓びに耐え、ふと目が池の淵に向く。そして、アユルは柄にもなく背筋を凍らせた。

 ここは、滅多に人が来る場所ではない。庭をそぞろ歩いて、偶然ここに辿り着いたのだろうか。だとしたら、とんでもない偶然だ。

 ――なぜ、王妃が……。

 顔がはっきりと見えない距離ではある。しかし、王妃はしっかりとこちらを向いている。いつからそこにいたのかは知らないが、私に気付いていることは確かだ。当たり前か。王宮にいる男は、私とコルダしかいないのだから。

「お、王妃さま。早くここを離れましょう」

 背後でカイエが声を震わせる。タナシアは、四阿を呆然と見つめた。
 少し気分を変えようと庭を歩いていたら、陛下の侍従がひとりでおかしな所から姿をあらわした。どこへ行っていたのかしら。気になって、侍従が出てきた方へ足を向けた。けれど、ただ雑木林があるだけで、引き返そうかと思ったら水音がして……。

「王妃さま。妃とたったわむれているところを盗み見るような真似は……」
「そうですね。でももう遅いわ、カイエ。陛下は気付いてらっしゃいます。じっとこちらをご覧になっているもの」
「……そんな」
「困りましたね。このまま立ち去るのもおかしいですし、どうしたものかしら」
「不届きな王女をご注意あそばしませ。このような人目につく所で、なんとはしたない」
「ふたりのもとへ行って、陛下の行いをとがめるの? 感情に任せて妃の顔に爪を立てるの? そのようなことをしたら、わたくしが首をねられてしまいます」

 アユルは、ラシュリルの肩越しにタナシアを見たまま腕に力を込めた。

「あの、アユルさま」
「何だ」
「その、外では、誰かに見られたら……」

 ラシュリルが、アユルの拘束から逃れて辺りを見回そうとする。アユルは自然な動きでラシュリルの頬を両手で包むと、鼻先を擦るように顔を近付けた。

「このような場所には誰も来ない」
「本当ですか?」
「私はそなたに嘘を言ったことはないと思うが」
「確かに、そうですね」

 はにかんだあと、ラシュリルが頬を染めてにこりとした。
 あの夜、裸足で踏みしめた玉砂利の感触と体中から立ち込めた王妃の匂い。今も、思い出すだけで虫唾が走る。
 アユルは、ラシュリルの目を見つめて微笑んだ。

  ――私はラシュリルと添い遂げるために、王妃を殺す。

 腰掛けに置いた書簡の筒が、石畳の上に転げ落ちて甲高い金属音を立てる。
 アユルはついばむような口付けを何度か落として、舌先でラシュリルの唇をこじ開けた。そして、甘い吐息と舌を絡め取りながら唇を貪った。