第31話 狩り


 先王マハールの御代、王宮には王妃と他に十八人の妃がいて、さらに数多あまたの女官が暮らしていた。王宮の記録を見ると、歴代の王の中には三十余名の妃を持った者もいる。
 ダガラ城の奥に造られた王宮という豪奢で広大なおりの中で、崇高な神の血筋は守られ、千数百年もの永きにわたって受け継がれてきた。

 重なったふたりの影。
 御年二十五になられるまで独り身でいた陛下が異例なのであって、このような光景は王宮の茶飯事だったのだろう。
 高家に生まれた女人なら、誰もが王宮での暮らしに憧れ、妃の座を夢見るのだと聞かされて育った。お前はその頂に座り、神の隣に立つことを許されるのだとも言われた。父上の言葉は、それこそが至高の幸運であるかのような響きを持っていた。

 しかし、カデュラス国王の正妃になった幸運は、同時に不運なのだと思い知らされる。すがっても、夫は花園を舞う蝶のように、ひらひらと移り気に飛んで行ってしまうのだから。
 タナシアは、四阿あずまやから目をそらすように体の向きを変えた。

「華栄殿に戻りましょうか、カイエ」
「は、はい。王妃さま」

 しゃらん、と歩みに合わせて髪に挿したかんざしの垂れ飾りの澄んだ音が響く。
 タナシアは池から離れた所で足を止め、四阿をふり返ってきゅっと唇を噛んだ。ふたつの人影はひとつになったまま、一向に離れる気配がない。

 ――いつまで、ああしているつもりなのかしら。

 日の高いうちから、それも外で、何とはしたない。やはり、異国の者をはべらせるべきではなかった。きっと、王女が陛下にあのような破廉恥な行いをさせているに違いない。誠実で気品に満ちた御方が、ああも堕ちてしまわれて……。何と憐れなのでしょう。

「カイエ」
「はい」
「先に行って、父上を華栄殿に呼んでください」
「かしこまりました」

 カイエが急ぎ足で立ち去る。それを見送って、タナシアはゆっくりとした足取りで華栄殿へ向かって雑木林を歩いた。
 あれはそう、確か、一度目の書簡を持って来たときだった。先の王妃さまがどのように王宮を治めておられたのか、父上がちらりと口にしたことがあった。

 ――ひとさじ、毒を盛ればよい。

 恐ろしいと思ったけれど、今はそれも必要なのではないかと考えてしまう。陛下の尊厳を、王妃としての立場と矜持きょうじを守るには、それ相当の覚悟がいるということ。

 菖蒲あやめの扇から桂花が香った瞬間、わたくしの心は陛下だけのものになった。
 王女が現れる前に戻れば、きっと思い出してくださるはず。婚儀の日を心待ちにしているとつづったお気持ちと美しくやさしい笑顔を――。

 それに、夫婦の情を持ってくれるのなら王女にしかるべき地位を与えると言ったわたくしに、陛下はお応えになった。それをないがしろにして王女を寵愛なさるのなら、飛んで行ってしまわないように蝶の羽をもいでしまえばいい。蝶を誘惑する悪しき花を摘んでしまえばいい。

「王妃様にご挨拶申しあげます」

 アユルのものと聞き間違えそうなほどよく似た低い声に、タナシアはびくりとして顔を上げた。考え事をしているうちに、いつの間にか清殿近くの庭に出ていたらしい。視線の先、渡り廊下でひとりの公達きんだちが座ってひれ伏していた。

 タナシアがきざはしをあがると、公達が広げた扇で顔を隠して体を起こした。白い直衣のうしの上を、さらりと黒髪が流れる。ダガラ城に入城を許された男子で、垂れ髪なんて破天荒な恰好をしているのはひとりしかいない。ティムル家のカリナフだ。

「宴では素晴らしい舞をご披露いただきました。礼を言います、カリナフ殿」
「礼など恐れ多いこと。王妃様に春のよろこびをお届けできたのなら、私の喜びも一入ひとしおでございます。お望みであれば、いつでもお呼びください。王妃様のために舞いますので」
「当代一の舞い手と名高いあなたの舞をいつでも見られるとは、とても贅沢ですわね」

 優雅な所作で口元を袖で隠して笑顔を見せるタナシアに、カリナフが扇を下げてやさしい目を向け「王妃様の特権でございます」と冗談めかして言った。

「ところでカリナフ殿。王宮で何を?」
「はい、王妃様。陛下にお目通り願いたく、清殿を訪ねるところでございました」
「……そう。陛下はしばらくお帰りになられないと思います。陛下の侍従じじゅうに伝えておきますから、外の御殿ごてんでお待ちになって」
「はて。取り次ぎの女官はそのようなこと言いませんでしたが」
「女官は知らないのでしょう。陛下が妃と仲睦まじくお戯れになっていることを」

 何と、と驚くカリナフの横をタナシアが通り過ぎる。カリナフは、先ほどと同じようにひれ伏してタナシアに礼をとった。

***

「……っん、もう、だめです。人に見られてしまいます」

 ほんの少し唇が離れた隙に、ラシュリルはアユルの肩に手をついて力いっぱい押した。そして、アユルの唇に赤い紅がついているのに気付いて、懐から取り出した手巾で顔を真っ赤にしながらそれをそっと拭った。

「このような所には誰も来ないと言っただろう」
「ですが、王宮にはたくさん人がいますし……」

 きょろきょろと辺りを見回してみると、確かに誰もいない。恥ずかしさを誤魔化すように、落ちた金の筒を拾ってアユルに手渡す。アユルはそれを受け取って、隣に座れと言った。

「ラシュリル」
「はい」
「ハウエルをここへ呼んだ」
「お兄さまがカデュラスに来るのですか?」
「ああ。それに、そなたの母君と侍女を連れてくるよう申しつけてある。ゆっくり話しをする機会を作ってやるから、楽しみにしていろ」
「嬉しい! ありがとうございます、アユルさま!」

 ラシュリルが勢いよく飛びついて、アユルがそれを抱きとめる。ついいつもの調子で、やってしまった。ラシュリルはアユルの首に巻きつけた腕に力を入れて、小声で「ごめんなさい」と謝った。

「いつかのように押し倒されるのかと思ったぞ」
「……うっ」
「冗談はさておき、礼を言うのは私の方だ。あの夜、そなたの優しさに救われた」
「そんな……。わたし、アユルさまに何もしてあげられませんでした」

 それどころが、わたしのせいでアユルさまは苦しい思いを……。それは口にせず、ぐっとこらえる。傷口を広げるような言葉は言いたくなかった。

 カデュラス人ではないこの身が、王宮に住んで身分を賜る。カデュラスに根付く考え方を思えば、王妃さまの気遣いでそれが叶う訳がない。アユルさまの庇護ひごがあってこそなのだと、ラシュリルは胸を締めつけるようなアユルの悲しい表情を思い浮かべた。そして、もう二度とあんな顔をしてほしくないと切に思う。

「そのようなことはない。私はあのとき、心から愛されているのだと実感した。そなたが笑い、私に触れる度に私は満たされて強くなる。だから、これからもずっと、そなたらしさを失わないでいてくれ」

 あの夜と同じように、背に回された腕が強く体を引き寄せた。若葉の香りを乗せた陽春のさやかな風に、ふたりの髪と池の水面みなもがさわとそよぐ。
 ラシュリルは、アユルを抱きしめて「はい」とほほえんだ。

***

 タナシアが華栄殿に戻ると、すでにエフタルが客間に座して待っていた。眉間に深いしわが刻まれた顔を見るに、機嫌は良くなさそうだ。

「お待たせしてしまって申し訳ございません、父上」
「よい」

 相変わらず上座を占領して堂々としているエフタルを横目に、タナシアはカイエが淹れた茶を飲んだ。

「タナシア」
「はい、父上」
「あの女は何者だ」
「あの女とは?」
「異民族の女のことだ」

 ああ、とラシュリルの顔を思い浮かべて、タナシアは茶器を置いた。

「貴妃がどうかいたしましたか?」
「王子を産んだわけでもないのに貴妃の位を与えるなど、お前は一体何を考えておるのだ。貴妃とは王妃に次ぐ身分であるぞ。わかっているのか」
「お怒りをお鎮めくださいませ。わたくしも仕方がなかったのです」
「とにかく、あの女を始末せねば」
「父上はどうしてそのように貴妃を目の敵になさるのです?」

 エフタルは、ぎりっと奥歯を噛み締めて黙りこむ。
 若造を殺し損ねた。急がなければこちらの身が危うい。そして、王宮に突如あらわれた脅威。忘れられるはずがない。王女の腰にあった玉牌は、不義密通の罪で一族郎党打ち首となったアイルタユナの物だ。

 ――あの女は何者だ。アイルタユナと繋がりがあるのか?

 死人が宿怨を晴らすために遣わしたとでも言うのか。馬鹿ばかしい。とにかく、キリスヤーナ国王とその妹を一掃しなくては。
 エフタルは書簡をタナシアに渡して、にたりと薄気味悪い笑みを浮かべた。

「先ほど、キリスヤーナ国王の使者が陛下を害そうとした」
「何ですって?」
「幸いにも陛下には何事もなかったが、あの女はキリスヤーナ国王に陛下を殺せと命じられているかもしれぬ」
「……何たること」

 タナシアは、エフタルの言うことが理解できずにうろたえた。
 それが本当なら、先ほど見たものは何だったのか。陛下は、自分を害そうとした者の縁者とあのようなことを……?

「一刻も早く手を打たねば、陛下があの女の手にかかってしまう」

 エフタルの畳み掛けるような言葉が、考えを巡らせるタナシアの胸に警鐘を鳴らす。

「この書簡があれば、陛下を守れるのですね?」
「そうだ」
「ですが、前のときとは違って、今は陛下がおられます。清殿に忍びこんで王印を押すのは無理です」
「やつが朝議に出ている間にやれ」
「わかりました」

 アユルは、ラシュリルの手を引いて清殿へ急いだ。コルダが血相を変えて、カリナフ様がお待ちになっていると知らせに来たのだ。コルダが青ざめていたのは、王妃直々に池へ行って陛下を呼んで来るように言われたからだ。

 アユルとラシュリルが清殿の広間に行くと、カリナフが居住まいを正して深く頭をさげた。
 ふたりが座るのを待って面を上げたカリナフは、アユルの隣に座るラシュリルをじっと見て、それから軽く会釈した。

「陛下に内密のお話がございます」
「わかった。ラシュリルはコルダと庭を見てくるといい。春の花が咲き始めて彩りが美しくなってきたところだ」

 はい、と顔をほころばせて、ラシュリルが部屋を出て行く。それを見守るような慈愛に満ちたアユルの眼差しに、カリナフはふっと軽く笑って扇を広げた。

「仲睦まじく戯れていると王妃様からお聞きしたときは耳を疑いましたが、本当のようですね」
「王妃に会ったのか」
「ええ、陛下がお戻りになられる前に」
「それで、内密の話とは?」
「宰相様は、キリスヤーナ国王を呼び寄せる手配をなさっておられます。刺客はふたりとも捕らえて、城内の牢に入れてあります」

 そうか、とアユルが相槌をうつ。カリナフは警戒するように辺りを見回したあと、エフタルが華栄殿に行ったようだと落ち着いた口調で告げた。
 それは、ハウエルを殺せとサリタカル国王に命じる書簡が、王妃の手に渡った可能性を示唆している。

 永い歴史の中で、四家の者が裁かれたことは一度もない。初代王が与えた永世の身分は、そう簡単には剥奪できないものだ。王の身を傷つけた罪だけでは、牢にぶち込むのが関の山だ。しかし、王の書簡を贋造がんぞうした罪は重い。

 あとは、王妃が書斎に入って王印を押す機会を作ってやればいい。そうすれば、エフタル諸共、王妃までも正当な理由で処せる。重罪の先に待っているのは、斬首刑だ。

「今日は大変な目にあわれたというのに、妃とお戯れになった挙句、そのように笑いを浮かべて……。私は陛下が恐ろしくてなりませぬ」
「そう言うな、カリナフ。余はただ、狩りを楽しんでいるだけだ」
「狩りですか?」
「ああ。獲物に気付かれないように追い詰めていくのが、狩りの醍醐味というものではないか」
「……なるほど」
「話はそれだけか? 余はもうしばらく貴妃と戯れたいのだが」

 笑いながらアユルが席を立つ。カリナフはそれを呼び止めて、額を床に擦りつけるようにひれ伏した。

「陛下にお願いがございます」
「大袈裟だな」

 次の瞬間、アユルはカリナフが口にした願いに目を丸くした。
 それからの数日は平和だった。もちろん、投獄された刺客は拷問にかけられ、表向きにはキリスヤーナ国王の罪を暴くような調べが進められている。

「王妃さま、おひとりで大丈夫ですか?」
「心配しなくても、二度目ですから大丈夫ですよ」

 遠くから、朝議の刻を告げる太鼓の音が三度聞こえた。この太鼓は、王が朝議に出るときに鳴らされる。
 大丈夫と言ったはいいが、心臓はばくばくと破裂しそうなほど激しく鼓動して、書簡を握りしめる手もじっとりと汗ばんでいる。

 ――もう、これきりなのだから。

 胸によぎる罪悪感を打ち消すように、心中、そう自分に言いきかせる。
 ことが済めば、陛下は王女を失った悲しみに暮れるでしょうけれど、それも一時ひとときのこと。以前のように、わたくしのもとへ戻って来てくださる。今度こそ、陛下を誰かに盗られたりしない。絶対に。

 タナシアは、華栄殿の色鮮やかな扉を開けて辺りを入念にうかがった。女官もまばらで、人の目は極めて少ない。
 カイエを残して、足早に清殿へ伸びる廊下を渡る。女官を置いていない清殿は、裸同然で完全に無防備だった。清殿の扉に細い指を突き立てて一気に体重をかけると、扉が重たくきしむ音を立てながらタナシアを殿内へと招き入れた。
 その一部始終を、誰よりも王に忠実な男が見ていたことに、タナシアは気付けなかった。