第32話 廃妃(1)


 不穏な風のそよぎは、清殿から遠く離れた清寧殿には一切届かない。ここは本来、王の寵愛を失った妃が賜る御殿ごてんで、用済み女の墓という薄気味悪い異名を持っている。

 ラシュリルが王宮に入るとき、アユルはタナシアに命じた。王女に一番遠い清寧殿を与えよ、と。タナシアに懐疑心を抱かせないためだったのだが、結果的に誰の目を気にすることのない自由な生活をラシュリルに与えていた。
 近付く者はそうおらず、清寧殿は実に静かで、時々、ときの流れすら虚ろになる。

「できたわ!」

 ラシュリルは、童女のような歓声をあげて手の甲で額の汗を拭った。その横で、カリンがつぶらな瞳を輝かせる。
 他の御殿と違って、清寧殿は日常生活の様々な不便を解消するための機能が備わっている。食事もそのひとつで、王宮の台盤所からわざわざ膳を運ばなくてもいいように厨房がしつらえてある。どの王の御代か正確な記録はないが、ある妃が食事に悪戯をされたり毒を盛られたりするのを防ぐために、ろくを貯めて造ったのだそうだ。

「カリン、ひとつ食べてみて」

 たすきを解きながら言うと、カリンが待っていましたとばかりに皿に盛られた焼き菓子をひとつ摘んで頬張った。

 先日、ラシュリルに初めての禄が金子きんすで給与された。それも、目が飛び出るくらいびっくりする額を。
 受け取りを辞退すると、女官長は陛下と王妃様のご厚意を無下になさるおつもりかと、あからさまに不快な顔をした。

 そのときラシュリルの頭にあったのは、実子であるハウエルと分け隔てなく育ててくれた継母の言葉だった。継母は、派手な生活を好まない人だった。キリスヤーナは、一年のほとんどが雪に覆われる小さな国だ。民は短い夏の間に漁をして、初冬に瑠璃を採掘する。その慎ましやかな生活から納められた税で、宮殿の暮らしは成り立っていた。

 権威を損なってはいけないけれど、贅沢をする必要はないのよ。

 継母は、幼いラシュリルを膝の上に座らせて、優しく頭を撫でながらそう言い聞かせた。
 だから、ご厚意という気持ちだけで充分だったのだけれど、受け取らないと女官長が罰せられると言うので、仕方なく三分の一だけいただくことにした。それでも相当な額で、好きに使っていいと言われて困ってしまった。

 とはいえ、積まれた金子を見れば欲が湧いてしまうのは人のさが
 ラシュリルは、カリンに城下の市場で焼き菓子クッキーの材料を揃えてほしいと頼んだ。カデュラスの菓子も嫌いではないけれど、やはりキリスヤーナの甘い味が恋しい。

 『普通は衣、髪飾り、お化粧品を買う』とカリンが紙に書くと、「そうなの? でも、それではお腹は満たされないもの。焼き菓子の方がいいわ」と笑顔で答えが返ってきた。使いの女官に買うものを記した紙を渡しながら、カリンは和むやりとりを思い出してくすっと笑ったのだった。

「おいしい?」

 ラシュリルが、少し不安げに尋ねる。カリンは奥歯で焼き菓子を噛み砕き、ゆっくりと味わって『おいしい』ととろけるような笑顔で左右のほほを両手で包んだ。

 マリージェの隣で味見役を務めた甲斐があったというもの。記憶を頼りに見様見真似で作ってみて自信がなかったのだが、カリンの顔を見るにカデュラス人の舌にも合うようだ。

 よかった、と嬉しそうに笑って、ラシュリルは布をかぶせた皿を持って離れに向かった。そして、賜ってから衣桁に掛けたままになっていた小袿こうちぎをまとって清寧殿を出た。
 残念だったのは、焼き菓子にぴったりの紅茶が手に入らなかったこと。

 ――だけど、王妃さまはきっと喜んでくださるはず。

 長閑のどかな陽差しが心地よい庭を歩くと、玉砂利がざくざくと小気味よい音を立てた。横を歩くカリンが、ラシュリルに顔を向けて『似合う。きれい』と口を動かす。

 本当にきれいだ、とカリンは頬を赤くした。
 特別な化粧はいらない。真っ赤な紅をささなくたって唇は果実のように瑞々しいし、髪だって装飾品なんて必要ないくらい艶めいて美しい。つまり、飾らないそのままのラシュリルが一番いい。

「ありがとう、カリン」

 真っ直ぐに見据えた先に、王宮の御殿が立ち並んでいる。
 雨の夜にアユルが見せた表情は、ラシュリルの中で忘れ得ぬものとなっていた。サリタカルで幸せにしたいと思っていますと告げたときの気持ちが、悲しい顔をしてほしくないという思いが、心の中で大きく膨らむ。

 王宮の要である清殿や華栄殿が近付くにつれ、あちらこちらから女官たちの視線が集まってくる。彼女たちは、ひそひそと声をひそめて異国からきた貴妃に奇異の目を向けるのだ。しかし、今日はどういう訳か人影はまばらで、いつもの喧騒もない。
 何だか、変。ラシュリルは、建ち並ぶ御殿を眺めて足を止めた。

 ***

 皇極殿こうぎょくでんでは、キリスヤーナ国王の処分についての議論が山場を迎えていた。というのも、サリタカル国王からキリスヤーナ国王が王都に到着したとの知らせが届いたのだ。
 行幸中の襲撃の件といい、今回の使節の件といい、キリスヤーナ国王は命をもって償うべきである。いいや、それでは足りぬ。五族誅殺がよろしかろう。そんな物騒な言葉が飛び交っていた。

 アユルは高座たかくらで脇息にもたれかかり、どこを見るでもない視線を漂わせて官吏たちの言葉に耳を傾けた。
 五族誅殺を訴えたのは、ラディエの横に陣取る大臣エフタルだ。これがまかり通れば、偽の書簡を使わなくてもハウエルと妹であるラシュリルを消せる。
 アユルには若干の焦りがあった。カリナフと会ってから、朝議に出ている間は清殿をコルダに見張らせている。しかし、王妃に動きはない。

 ――書簡は、王妃の手元に渡っているのか?

 華栄殿での出来事だけは、アユルにもつかめない。それだけが難点だった。女官のひとりでも手懐てなづけておけばよかったかと後悔して、そんな気は毛頭起きないと思い改める。

 手詰まりの状態だった。
 襲撃の件は、証拠を出せばハウエルの潔白は明らかになる。そうすれば、エフタルは偽の書簡を使うしかない。しかし、矢じりのことを伏せて矢毒について偽ったのは真の狙いがあるからで、今使えば効力が半減してしまう。
 どうしたものか、とアユルが天を仰いだとき、コルダがしずしずと皇極殿に入ってきた。

 コルダは朝議を妨げないようにアユルのもとへ行き、言葉を発さずに懐から清殿の鍵をちらりと覗かせた。

「宰相。余はしばし王宮へ戻る。このまま待っていろ」

 突然、そう言って立ち上がったアユルに、鎮まった皇極殿の視線が一気に集中する。かしこまりました、と平然と答えるラディエの横から、エフタルが身を乗り出した。

「陛下、お待ちください!」

 エフタルは、鬼気迫る必死の形相をしていた。それは、アユルに確信を持たせるのに十分だった。

「どうした、エフタル」
「キ、キリスヤーナ国王の処遇について、陛下のお考えをお聞きしておりませぬ」
「しばし、と言っただろう。すぐに戻る」
「ですが!」

 これ、とラディエがエフタルの肩に手をおいてたしなめる。アユルは冷たい笑みをエフタルに向けたあと、ゆっくりと高座をおりて皇極殿を後にした。
 清殿の近くに着くと、庭にラシュリルとカリンの姿が見えた。ふたりがアユルとコルダに気づいて近づいてくる。アユルは廊下に立ったままラシュリルに声を掛けた。

「このような所で何をしている」
「焼き菓子を作ったので、王妃さまに召し上がっていただこうと思って持ってきました」
「そうか。生憎だが、王妃は諸用に出ている。先触れをしなかったのか?」
「はい、うっかりしていて……。出直しますね」

 ばつが悪そうに苦笑いするラシュリルに、次からはちゃんと先触れをしろよと言いかけて、アユルは言葉を飲みこむ。次の機会など無いということを思い出したのだ。

「せっかく来たのだから、華栄殿で王妃を待つといい」
「いいのでしょうか」
「よい」
「わかりました」

 ラシュリルが華栄殿へ行こうと体の向きをかえた瞬間、背後から「私の分も残しておけ」とアユルが言った。

 何も知らないラシュリルとカリンは、楽しそうに顔を見合って遠ざかって行く。アユルは少しの間ふたりの様子に目を細めて、清殿の扉の前に立った。コルダが施錠した扉。中に、罪人が閉じ込められている。

 王妃が、夫恋しさに忍び込むはずがない。そして、先ほどのエフタルの顔。扉に触れると、獲物が罠に掛かった生々しい感触がした。

「コルダ、鍵を開けろ」
「はい」

 蝶番ちょうつがいの重たい音を響かせて、妻戸が開く。しかし、そこに王妃の姿はなかった。恐らく、王妃は施錠されたことにすら気付いていない。アユルはにんまりと口の片端を上げて、一直線に書斎を目指した。

 本当に長閑で快適な気候だ。春鳥のさえずり、窓から入ってくる風も太陽の光もすべてが清々しく感じられる。

 タナシアは、文机に広げた書簡を見つめた。
 一度目よりも簡単だった。きれいに押された王印を指先でなぞると、無意識に安堵のため息が唇から漏れた。
 ずっとここにいたい。こそこそと隠れて忍び込むのではなく、いつか、ここで陛下と過ごしてみたい。
 書物を読む陛下の横顔を飽きるほど眺めて、一息ついて、他愛もない話をして……。夢を見るだけで天にも昇る心地がする。

 顔を上げ、書簡から正面に目を向ける。そこは、書斎の入り口だった。閉じた扉にアユルの優雅な立ち姿を投影して、タナシアの眼差しが恍惚とする。
 今日はどのような色のお召し物をまとっておられるのかしら。白でも黒でも、赤でも紫でも、陛下は何を召されても美しい。

 タナシアの視線がうっとりと熱をはらみ、ぴたりと閉じた扉が呼吸の音よりも静かに開く。泡が弾けるように、夢と現実が入れかわった。一瞬のことだった。

「どうして……?」

 タナシアのつぶやくような独り言を、黒衣の裾のはためきが撃ち落とす。
 近づいてくるのは、恋しく想っていた夫。ふたりで過ごせたらと思っていたのは確かだけれど、こんな状況を望んでいたのではない。

 朝議に出ているのではなかったの。父上はなぜ、陛下を皇極殿に引き止めてくれなかったの。いえ、そのようなことより早く逃げなくては。逃げる……? どこへ?
 タナシアの思考が錯乱し始め、動かない体のあちらこちらが震えだす。

「これは、王妃。余の書斎で何を?」

 文机をはさんで向かい合う涼やかな顔に、タナシアはたじろいで言葉を失った。
 アユルは文机の上を見た。堂々と広げられた書簡は、確かにカリナフから聞いていた通りハウエルを葬るためのものだ。自分でも見分けがつかないほどの完璧な筆跡に、思わず心中で喝采する。
 再び視線を戻すと、おびえきったタナシアの顔には汗が滲んでいた。

「この詔書しょうしょは何だ」
「……い、いいえ」
「王印は仕舞ってあったはずだが?」
「こ、これは……」

 アユルは、タナシアの横にかがんで王印を桐箱に収めた。そして、文机の脇に積まれたいくつもの書簡の中からひとつ手に取ってタナシアの耳元に顔を近付けた。

「そなたは、以前にも同じことをしたはずだ」
「な、なにを……」
しらを切るつもりか?」
「わ、わたくしには覚えが……」
「やはり、余を若造とさげすんだエフタルと同様に、余を見くびっているようだな」
「いいえ、いいえ、陛下! わたくしは陛下をお慕い申しあげております。見くびるなど、そのような……!」

 信じてくださいと、タナシアは必死に首を横に振る。
 アユルはそれを鼻で笑った。
 所詮、王と妃を繋ぐものは親愛などではなく利害でしかない。自覚があるのかないのかは知らないが、王妃にはそれがちゃんと刷り込まれている。妃がねとして育てられるとは、そういうことだ。だから、一度目の罪を平然としたたかに隠し通せたのだ。

 見逃せば次、さらに目をつむればまた次――。
 王妃が王宮に残れば、これから多くの罪にその手を染めるだろう。そして、ラシュリルにも必ず魔の手が及ぶ。

 多くの妃を持ちながら、子をひとりしか遺せなかった先王マハールがいい例だ。四家から嫁いだ王妃シャロアという権力者に屈したからこそ、赤子が生まれる度に死に、孕んだ女が紺碧色こんぺきいろの池に沈んだ。

 浄土のように明媚なのは建ち並ぶ御殿や塔の意匠だけで、中身は血の池がふつふつと湧いた地獄絵図のような世界。それが王宮だ。

「覚悟しろ。余は、そなたが思うよりずっと残忍だ。裏切る者を絶対に許さない」

 手で首を締め上げるようなアユルの低い声に、タナシアはひっと息を詰まらせて凍りついた。