第33話 廃妃(2)


 アユルの黒衣にめられたお香の香りがふわりと漂って、それにつられるように魂の抜けたタナシアの顔が横を向く。

「陛下」

 恐怖に震えて今にも消えてしまいそうな声は、ただ、鋭利な視線を呼び寄せただけだった。どうしたら、こんなにも冷たい目を人に向けられるのか。タナシアは、無限に広がる闇のようなアユルの目を見て戦慄せんりつする。

 初めて間近にご尊顔を拝したのは、婚儀の席だった。扇を手渡してくださる瞬間まで、陛下は今のように澄ましたお顔をなさって一度もわたくしを見なかった。まるで、こちらには少しも興味がないと言うように――。

「……陛下、お願いでございます。信じてくださいませ。わたくしは、本当に陛下をお慕い申し上げているのです」

 タナシアの必死な表情が先ほどのエフタルのそれと重なって、アユルは思わず緩みそうになった口元を引き締める。そして、書簡を紫檀したんの軸に巻いて、短刀の切っ先をそうするように軸先を白い喉元に突きつけた。

「陛下は、王女殿の兄に命を狙われたのでございましょう? ですから、わたくしは……!」
「黙れ」
「陛下!」
「余の命を狙ったのは、キリスヤーナ国王ではない。王命を無視してしゃべり続けるなら、この軸先で喉を刺す」

 ラシュリルは今ごろ、素直に華栄殿で王妃を待っているのだろう。だが、ことが終わるまでじっとしておいてほしかっただけで、王妃と会わせる気はさらさらない。
 王宮で繰り広げられるおぞましくて陳腐な闘争を、ラシュリルが知る必要はないのだ。それから、私の残酷さも――。

「ついて来い。これから皇極殿でそなたの罪を明らかにする」

 タナシアの目からほろりと涙がこぼれて、きらびやかな衣装に落ちる。やがてそれは、ぽつぽつと厳かに降る雨粒のように、次から次へと正絹の上で音を立てて弾けた。
 アユルは、タナシアの手首を乱雑につかんで立ち上がると、二巻の詔書しょうしょを持って清殿を出た。

***

「あの」

 ラシュリルは少しだけ肩をすくめて、睨みをきかせる女官に話しかけた。しかし、女官はじっと座って、こちらを睨んだままつんとした顔をして返事をしない。カリンが応戦するようにつぶらな瞳で女官を睨み返して、ようやく「何でございましょう、貴妃さま」と棘のある声が返ってきた。

 そもそも王宮の女官たちは友好的ではないが、特に華栄殿の女官はあからさまに敵意のようなものを向けてくる。異民族であるうえに、王妃さまから陛下を奪う悪しき存在なのだから当然だろう。

「飲み物を用意していただけませんか? できれば、香りのあるものを」
「はい?」
「王妃さまに召し上がっていただきたくて焼き菓子を焼いたのですけれど、紅茶がどうしても手に入らなくて……。王妃さまがいつも飲んでいらっしゃるもので、香りのついたお茶などないですか?」

 はあ、と顔をしかめた彼女は、いつも王妃さまの傍らにいる女官だ。えっと、名前は……。
 いつだったか、何かあればカイエという女官に申しつけてとタナシアが言っていたのを思い出して、ラシュリルは「カイエさん」とにこやかに呼びかけてみた。

 ふいに名前を呼ばれて、カイエの険しい顔が崩れる。しかし、それは一瞬のことで、すぐにまた愛想のない表情に戻ってしまった。

「キリスヤーナの菓子など、王妃さまのお口に合うはずがございません。それに万が一、毒などが入っていたなら一大事です」

 ラシュリルは皿に被せた布を取って、焼き菓子をひとつ食べてみせた。横からカリンも同じように頬張って『あまい』と幸せそうな顔をする。人に害のある毒ではないけれど、ある種の毒であることは間違いない。菓子の甘さは一度覚えたら最後、これなしでは生きていけなくなる。

「ほら、毒なんて入っていないわ。カイエさんもひとつどうぞ」

 さあ、とラシュリルは皿から焼き菓子をひとつ取ると、カイエの手に乗せてにっこりと笑った。眉間にしわを寄せたカイエが、しぶしぶ焼き菓子を口に入れて袖で口元を隠す。そして、もぐもぐと咀嚼そしゃくして思わず「美味しい」と言った。

 ラシュリルが「よかった」と嬉しそうな顔をすると、カイエは少し悔しそうに唇を噛んだあと、観念した様子で茶器を用意してくれた。

「カイエさん、それは何ですか? 可愛らしい花ですね」
「こちらは、王妃さまが好んでお飲みになられている菊花茶の菊です」
「菊花、茶……」
「貴妃さまのお国にもございますか?」
「いいえ。けれど、飲んだことはあります。お兄さまが先王さまに謁見したときにカデュラスで買って来てくださって、それで」
「さようでございますか」
「でも、煎じたお茶しか見たことがなかったから……。菊ってこんなにきれいな黄色なのですね」
「小菊という種類の菊でございます。陛下から賜って大層お気に召したようで、王妃さまは毎朝と昼にこちらを飲んでおられます」

 そう、とつぶやくように言いながらラシュリルは思った。菊花茶の話をどこかでしなかったかしら、と。
 乾燥した黄色の小さな菊花が入った器を眺めて、記憶をさかのぼる。確か、飲んではいけないと言われたのではなかった?
 記憶が鮮明になるにつれて、どくんどくんと鼓動が激しい律動に変わっていく。王宮で煎じられる菊花茶を飲むと――。

 ラシュリルは、カイエの言葉を頭の中で反芻はんすうする。どうして、アユルさまは王妃さまに菊花茶を?
 神妙な面持ちで急に黙り込んだラシュリルに、カイエが「貴妃さま?」と小首をかしげた。

***

 陛下とコルダは何かを示し合わせていたに違いない。ラディエとカリナフは、がやがやと騒がしい皇極殿でアユルの帰りを待ち侘びていた。
 しばしと言った割には長い気がする。しびれを切らしたラディエが立ち上がろうとしたとき、通用口の襖が静かに開いてアユルが戻って来た。その後ろを、タナシアがうつむいてついて来る。

 朝議の場に王妃が姿を見せることは稀だ。仲睦まじい国王夫妻の噂を耳にしていた官吏たちは、タナシアを見て頬を紅潮させ、ひそひそと声をひそめた。
 アユルが高座に腰をおろして、ラディエをそばに呼ぶ。そして、手に持ったふたつの書簡をラディエに手渡した。

 タナシアは部屋の隅に座ると、高座のアユルに向かって深々とひれ伏した。王妃とは王の隣に並ぶことを許される唯一の者であり、臣下と同じ場所に座ることなどあり得ない。
 高座へ上がらずに床にひれ伏すとはどうしたことか。目の前の異様な光景に、官吏たちは驚いて固唾をのむ。

「王妃様。そのような所にかしこまって、どうなされたのです。どうぞ、陛下のお隣に」

 カリナフの落ち着いた声が、静まり返った皇極殿に響く。タナシアはその声におびえて、瞬時、身を震わせて「いいえ」とか細い声で答えた。
 カリナフがタナシアから向かい側に視線を移すと、エフタルが呆然とした顔をしていた。カリナフは、ぱらりと扇を広げて顔の半分を隠してほくそ笑む。念願叶う瞬間が近づいている。そう確信したのだ。

「宰相」
「はい、陛下」
「今そなたに渡した書簡を読み上げろ。一言一句、絶対に間違えるな」
「かしこまりました」

 ラディエは咳払いをして、サリタカル国王から預かった銅の交易に係る詔書から順にキリスヤーナ国王を始末せよとサリタカル国王に命じる詔書まで読んだ。少し間をおいて、ひとりの文官が「陛下」と声を上げた。

「キリスヤーナ国王には死を以て償わせる。それが陛下のご意向でございますか?」

 その文官がそう言うと、今度は別の文官が「陛下」と口を挟んで、最初の詔書にあった銅の量が報告と違っていると指摘した。

「それに、サリタカル国王に命じてキリスヤーナ国王を死罪に処するとは……。これが陛下のご一存ならば、今一度お考え直しくださいませ」
「一存も何も。どちらの詔書も、余には覚えがない」
「覚えがないとは、いかがな意味でございましょう」

 アユルは脇息に肘をつき、エフタルを見てふっと軽く笑った。いつもの堂々とした威勢はどこへやら。エフタルは青ざめた顔に汗を浮かべていた。

「王妃に聞いてみろ。先ほど清殿に戻ったら、王妃が余の書斎に忍び込んで詔書を広げていた」

 ざわ、と殿内がどよめく。どよめきは小波さざなみのように押し寄せて、またたく間に隣の声も聞こえない程の大きさになった。これでは話にならぬと、ラディエが扇で床を打ちつけて「静かにせぬか!」と怒号を飛ばす。
 殿内がしんと静まり返ったところで、カリナフがタナシアに向かって口を開いた。

「忍び込むとは聞き捨てなりませんね。清殿は陛下の許しなく入ってはならぬ聖域。それを王妃様が知らぬ道理がございましょうか。ご説明ください、王妃様。清殿の書斎で陛下が知らぬ詔書を広げて何をなさっておられたのですか?」

 タナシアは顔を上げて、怯えた目でカリナフを見返した。
 優雅な舞を舞う姿とはまるで別人のようだった。淡々とした声も顔立ちも、陛下と同じで怖い。まるで、切り立った崖に追い詰められたような恐怖に支配される。逃げる場所などない。だから、早く罪を告白して楽になってしまいたいのに、出てくるのは涙ばかりで言葉はひとつも浮かんですらこない。

「王妃さまが詔書をお書きになられたのですか?」
「いいえ、カリナフ殿。わ、わたくしは陛下の書斎で、詔書に王印を押しました」

 再びざわめき立つ官吏たちをラディエが制する。カリナフは席を立ってタナシアのそばに座ると、アユルにちらりと目配せした。

「では、どなたが詔書を書いたのですか?」

 タナシアは涙をこぼしながら、とても悲しそうな顔で父親を見た。同時に、皆の視線が一気にエフタルに集中する。

「すべて、わたくしと父上がしたことでございます」
「タナシア!」

 エフタルが叫び、板張りの床を拳で殴りつける。私ではないと、うわ言のように口走るエフタルの胸ぐらをラディエが荒くつかんだ。

「何ということだ」
「詔書の偽造など、前代未聞だ」
「まさか、大臣様がそのような」

 そんな言葉が飛び交う中、やがて、ひとりの文官がのっそりと立ち上がって口上した。カデュラスの法に精通する老齢の文官だ。

「永い歴史の中で、一度もなかったこと。四家の当代と王妃様が死罪相当の重罪に手を染めるとは、国を揺るがす事態になりかねませぬ。陛下、厳正なる取り調べを」

 そのつもりだと、アユルは立ち上がった。

「今この場で申し渡す。エフタルの身分を剥奪して無位の平民とする。タナシアも廃妃として、王家が与えたものをすべて召し上げる。カリナフはふたりを投獄して徹底的に調べろ」

 アユルは高座をおりる間際、エフタルをふり返って拳を握った。
 アイルタユナの不義密通の相手。こんな男をかばって、貴妃様は一族を道連れに非業の死を遂げた。残されたコルダの想像を絶する悲しみを、苦しみをこの男は微塵も知らない。

 間もなくハウエルたちが到着する。それを待ってエフタルの罪をすべて暴き、この手で息の根を止めてやる。

「カリナフ」
「はい」
「エフタルが口を閉ざしたときは、両手両足の爪をはいで指をひとつずつ切り落とせ。死なない程度に生かし、拷問にかけろ」
「御意」

***

 ラシュリルは、一向に戻ってこないタナシアを待っていた。カイエに行き先などを聞いてみたけれど、知らないと一点張り。いつごろ帰ってくるのか全くわからない。

 西陽が射し始めたころ、コルダが華栄殿を訪ねて来た。コルダは女官たちと話をしたあと彼女たちを退出させて、客間にいるラシュリルに王妃様は戻って来ないと告げた。

「ねぇ、コルダさん。王妃さまの諸用って何だったのですか? こんなに長い時間お姿を見ないなんておかしいわ。何かあったのではないかと心配で」
「申し訳ございません、貴妃様。わたくしは存じ上げないのです」
「そうなの……」
「それはそうと貴妃様、アユル様がお待ちです。わたくしと一緒に清殿へお越しください」

 わかりました、と焼き菓子の皿を手にラシュリルは重い腰を上げた。そして、カリンに菊花の入った器を持って来るように言った。
 華栄殿を出て、廊下を渡る。やはり人影はまばらで、いつもの王宮とは違う気がする。
 コルダに案内されたのは、清殿の奥にある広い部屋だった。どうぞ、と言われて部屋に入ると、中央にぽつんと置かれた文机で、アユルが書物を読んでいた。

「来たか」

 書物を閉じたアユルが、ラシュリルに手招きする。ラシュリルはカリンから菊花の入った器を受け取って、アユルの近くに座った。夜の気配が色濃くなり、部屋の中がかげって薄暗い。コルダが燭台に火を灯すと、暖かな橙色だいだいいろの光が部屋に満ちた。

「ラシュリルと話がしたい。ふたりは下がっていろ」

 アユルはコルダとカリンにそう命じて、ラシュリルの手をつかむ。
 ゆらゆらと、揺れる炎に照らされるアユルの顔。いつものように優しい目をして、口元は弧を描いているのに、どこか近寄りがたいような雰囲気がある。ラシュリルはアユルの手を握り返して、少し困った顔をした。

「アユルさま。お聞きしたいことが……」
「私の分をちゃんと残してあるだろうな」
「えっ?」
「焼き菓子のことだ」