第一話 秋雨

 さわさわと秋の雨が庭に降る。
 縁側に座って軒下から灰色の空を仰ぐと、乾いた風に溶けた甘い香りが鼻をくすぐった。どこかで、桂花が咲いているのだろう。

 王都を出て、どれくらいの日が経ったのか。季節の移ろいから、ふた月ほどの日が過ぎたのではないかと思う。まだ旅は序章。遠い砂漠の先にあるというタナン公国との国境に着く頃には、春の草木がきれいな花を咲かせているだろうと言われた。

 タナシアは、正座を崩して痛む足に手を伸ばした。両足の人差し指の内側は、草履の花緒が擦れて血が滲んでいる。足袋を履いていても、それは何の役にも立たない。それに、むくんだ足首と脹脛ふくらはぎがじんじんと鈍く痛む。

 今まで袖を通したことのない質素な着物に身を包んで、麻布を垂れた藺笠いがさで人目を避けながらひたすら歩を進める日々。高家に生まれて、屋敷の中で奥ゆかしく過ごしてきた身に、荷を背負ってかちでゆく旅路は酷くこたえる。体だけではなく心にも、だ。

 しかし、これは罪と命への償い。
 至高の位にある夫を裏切った。そのせいで、罪なき親族たちが天寿をまっとうできずに斬首刑に処された。生き延びた呵責が、日を追う毎に心を無数の針で刺すように深く苛む。

『未練を捨て、二度と余の前に現れるな』

 ぽた、ぽた。
 雨音に隠れて、頬を滑った涙が膝に落下して衣の上で砕けた。何もかも失った。陛下も身分も、何もかも、大切なものはすべて失った。

 婚儀の日に時を巻き戻して、陛下にお会いしたい。そうしたら、二度と道を誤らないのに……。

 未練を断ち切る術を、誰か教えて。
 愚かな自分を悔いながらも、まだ陛下への想いを捨てきれない。
 雨がキリスヤーナからお戻りになった陛下の優美な御姿をそこに描いて、どこからともなく香る桂花が陛下の優しい笑顔を思い出させる。

 婚儀の日、わたくしは幸せだった。四家に生を受けたことを、心から感謝した。

「タナシア」

 近付く足音に、タナシアは急いで涙を拭った。桂花の匂いに紛れて、清爽な沈香じんこうの香りが背後からふわりと流れてくる。その直後、床板がきしんですぐ後ろに人の座る気配がした。

「少し冷えるな」
「……ええ」

 陛下に似た声。王宮で聞き違えたことはないけれど、こうして顔を見ずに話かけられると、陛下がそこにいらっしゃるのではないかと錯覚してしまう。

「もうすぐ夕食が届く。早く髪を乾かして、足の傷を手当てしよう」
「自分でいたします、カリナフさま」
「……」

 雨脚が強まって、男の低い声をかき消す。何とおっしゃったの? 聞き返すのは失礼な気がして、タナシアは足の痛みをこらえて居住まいを正した。

「無理をせず、楽にすればいい。ここには、私と君のふたりしかいないのだから」

 タナシアが素直に好意に甘えると、髪をひと房つかまれて扇でゆっくりとあおがれた。一族が刑に処された日に切り落とされた髪は、まだそのときの長さを保ったままだ。

「疲れただろう」
「……少し」
「足が痛むか?」
「……少し」
「この雨では、明日も地面がぬかるんで歩きづらそうだな。一日ここでゆっくり休息するか」
「宜しいのですか? わたくしは平気ですので……」
「私も少し、疲れた」

 私は花街を歩き回ったことしかない箱入りだからね、とカリナフが笑った。
 カリナフと言えば、成人の義でカデュラス国王直々に加冠賜ったティムル家の跡取りだ。叔母は先王マハールの王妃であり、現王アユルの従兄弟として、これから家督を継いで華々しい一生を歩む有望株だったに違いない。

 それが突然、タナン公国との国境にあるカシュを直轄せよとの下命を受けて、王都を離れることになった。それによりティムルの家督は彼の弟のものになり、カリナフは辺境を治める一介の国司へと落ちてしまった。

 王宮の裏門を出て、タナシアが連れて行かれたのはカリナフが所有するティムル家の別邸だった。カナヤの中心地ではなく郊外に建つ屋敷は、本邸と変わらない豪奢な門構えだった。そこで数日だけ静養して、すぐに旅が始まった。

 なぜ死を免れたのか。その理由は、未だ教えてもらえていない。かつて四家としてアフラム家が代々治めてきた領地で、一生罪の重さに耐えていけということなのだろうか。

 カリナフが、別の場所で髪をひと房つかんであおぐ。カリナフは着替えや食事の世話以外、タナシアの身の回りのことを何でもしたがる。申し訳なくて幾度か断ったけれど、すべて聞き流された。

 宿を取るときも、必ず夫婦だと偽ってひとつの部屋で寝食を共にする。それについても、タナシアは別の部屋の方がよいのではいなかと進言したのだが、贅沢はできない、君の身に何かあれば私も無事ではいられないと一蹴された。

 もちろん寝床は別々で、一緒にいるからといって何があるわけでもない。しかし、罪人の女と過ごすのは彼の汚点にしかならないはずだ。カリナフが未婚であるからこそ、タナシアは余計にそのことが気掛かりだった。

「隣の街に着いたら、君のかもじを作ろうか」

 優しい物腰で、カリナフが言う。これが陛下だったなら、どれほど嬉しいだろうか。目の奥がまた熱くなって、じんわりと目に涙がたまる。

 陛下は、わたくしの名を呼んではくださらない。陛下は、わたくしに優しく語りかけてはくださらない。今までもこれからも、もう、永遠に――。

「どうした?」
「いいえ、髢ですか……」
「この長さでもかまわないと私は思うのだが、君はそうではないだろう?」
「わたくしもかまいません。どうか、わたくしにお情けをかけるような事はなさらないでください」
「手持ちの心配なら要らぬ。私が髪をおろせばよいだけのことだ」

 驚いたタナシアが振り返ると同時に、カリナフの手からタナシアの髪がすり抜ける。

「大切な御髪おぐしなのでしょう?」
「別に。ずっと父上や宰相様から注意されていたから、任地に着く前に切ろうと思っていた。もちろん、君が嫌でなければの話だが」

 アユルに似た面差しで、カリナフがやんわりと笑む。タナシアの目から、こらえていた涙がほろほろとこぼれ落ちた。

「私を見ると、陛下を思い出してしまうのだろう?」
「……お許しください、カリナフさま」

 視界が滲む。陛下への未練を断ち切れない。情けない自分を見透かされている。わたくしはこのまま、罪に罪を重ねて生きていくのだろうか。

「タナシア」

 温かな手の平がそっと、涙に濡れた頬を包む。とめどなくあふれる涙を拭いながら、カリナフが優しい声で言った。

「君はひとりではない。私がいる。私が共に罪を背負うから、もう陛下を思い出して泣くな」