第二話 沈香

 タナシアは瞠目した。
 王宮を出てから、そばを離れるのは日に数回。着替える時と湯浴みの時、そしてカリナフが諸用で出かける夜更けのわずかな時間だけだ。日中はひたすら歩き続けているから、そうゆっくりと顔を見合うことはないのだが、昼食で立ち寄る店でも宿でも、カリナフは寡黙であまり話さない。

 こちらからも話す糸口を見つけられなくて、会話らしい会話をしないまま、ふた月もの時が流れた事に気付く。

 ――どうして、カリナフさまがわたくしの罪を共に……?

 カリナフの手が、頬から離れていく。途端に、ひんやりとした空気が顔に張りついてぶるっと身震いがした。湯浴みを終えてからずっと吹きさらしの縁側にいたせいで、体が冷えてしまったようだ。

「秋の夕暮れはなんとやら、だな。じきに暗くなる。戸を閉めて明かりを灯そう」

 そう言って、カリナフがタナシアに手巾を手渡す。雑に丸められて懐に突っ込まれていたのだろうか。濃紺のそれは酷く皺くちゃだった。
 カリナフは、出自にふさわしく品のある紳士だ。辺境の国司になったからといって、それはひとつも損なわれていない。だから、くしゃくしゃの手巾は不似合いで何だか可笑しかった。

「それは君……、泣いているの? それとも笑っているの?」

 カリナフが、破顔して肩を揺らす。タナシアは、自分が笑っていたのだと気付いた。泣きながら笑うだなんて、きっとみっともない顔になっているに違いない。そう思うと急に気恥ずかしくなって、向けられる視線から逃げるように下を向いて手巾を頬に当てた。

 手巾から、ほのかに沈香の香りがする。焚き染めたにしては香りが薄い。着物からの移り香だろうか。

「君にひとつ尋ねたいのだが」
「ええ、何を」
「私を見て涙するほど、君はその……、陛下をお慕い申し上げているのか?」

 桂花の匂いを含んだ風が、縁側をひゅうと素通りする。表情も声も優しいのに、罪を問われているような圧迫感を感じてしまう。

 答えに窮するタナシアの肩に「これを羽織って」とカリナフが男物のきぬを掛ける。それからカリナフは、静かに立ち上がって部屋に三つある高灯台の皿に火を灯した。

「……ゆ、許されざることと、承知いたしております。ですが、愚かにも断ち切れないのです」
「陛下への情を?」

 次の質問を投げて、カリナフが年季の入った火桶の炭を火箸で突く。

 そう、陛下への情。陛下と夫婦の絆を深めたかった。
 そのためだけに、物心ついた時から教えを受けてきたのだもの。父上が優しかった日など、一日たりとも無かった。常に立ち居振る舞いを注意されて、父娘の会話はいつも王宮と学問の話ばかりだった。

 一日歩き通して、ほっと気を抜く日暮れの刻になると、いつも陛下を偲んでしまう。そして、どこからやり直せば良き今にたどり着けたのだろうかと、取り留めのないことばかりが頭を巡る。
 陛下の御姿を思い出すことさえ、罪の上塗りでしかないと言うのに――。

 積雪から頭をもたげる款冬ふきのとうのように、火桶の中で灰から爪を出している五徳に鉄瓶を乗せて、カリナフがタナシアに手を差し伸べた。

「立てるか?」
「は、はい」
「中に入って。戸を閉めないと、部屋が暖まらない」

 タナシアは肩に掛かったままの衣に袖を通すと、慌ててカリナフの手を取った。
 節くれ立った手がきつく握り返して、タナシアの起立を助けるように引く。舞に興じる優雅な姿からは想像ができないくらい、その手は力強くて硬質だった。

 火桶のすぐ近くの藁蓋わろうだにタナシアを座らせて、カリナフが縁側の戸を閉める。雨の音が遮断された部屋に、しばし沈黙が落ちた。
 カリナフはタナシアの前に腰をおろすと、粗末な円卓に置いてる木箱と傷薬を取った。
 
「初めてまみえた時も、君の髪はそれくらいの長さだったな」
「よく、覚えておいでですのね」
「私にとって、特別な日だったからね」

 確かに特別な日だった。
 十四歳になった王妃の甥を祝うために、先王マハールがシャロアと共にティムル邸に足を運んだのだ。四家とは言え、カデュラス国王が臣の邸宅を訪れるなど過去に例が無い。
 王が臨席する盛大な祝宴で、カリナフは王妃から梅の切り枝を賜って成人の義の日を告げられた。

 懐かしい、とタナシアは小さく笑む。
 着飾ったたくさんの人と花びらの舞う美しい光景が、鮮やかな一枚絵のように記憶に焼きついている。十歳になったばかりの春だった。

 宴の途中で、ティムル家当代の夫人が屋敷にいるわらわを集めて菓子を振る舞った。童たちが次々に菓子を選んで歓声を上げる中、タナシアだけがおろおろと遠くから皆の様子をうかがっていた。

 いつまでたっても菓子を取ろうとしないタナシアに、若草色の小狩衣を着た下げ角髪みずらの童子が近付いて声をかけた。そして、紙に包んだきれいな砂糖菓子と梅の切り枝を差し出した。

 にこりと笑む童子のかんばせは宙を舞う花びらの如く、「どうぞ」と言う声は春の陽気のようだった。

 他家の屋敷に行くのも、他家の者と口を利くのも、タナシアにとっては初めてだった。王が臨席しなければ、ティムル家の屋敷に行く事もなかっただろう。

「カリナフさまと、このようなお話しをするのは初めてですね」

 そうだな、とカリナフが小さな木箱から砕いた香木の欠片を出して火桶に投げる。しばらくすると、清爽な香りが程よく漂ってきた。

 沈香には、心を鎮める効果があるという。
 とても稀少な香木で、カデュラスでは王都でもなかなか手に入らない。特にタナン公国で採れるものは良質で、金にも劣らない高値がつく。カシュで取引されたそれは、厳重な警護のもと国司の許可を得た商人によってカナヤまで運ばれるのだ。

「部屋が暖まれば、すぐに髪は乾くだろう。足を見せて」
「自分でいたします」
「君は、何も考えずにじっとしていればいい」

 はい、と蚊の羽音のような小さな声で返事をして、タナシアがためらいながらそろりと足を出す。

 ただでさえ、夫ではない殿方に体を見せるのは気が引ける。それが足だとしてもだ。
 ましてや傷のある汚い足を触られるのは、言葉にできないくらい恥ずかしい。カリナフさまもお嫌でしょうにと、タナシアは足の指にきゅっと力を入れた。けれど、それは杞憂だった。

「痛むと思うが、我慢してくれ」
「……はい」

 カリナフは穏やかな表情を少しも崩すことなく左手でタナシアの片足を持つと、右手の中指に傷薬をつけて傷にそっとそれを塗った。

「私にとって、本当に特別な日だった」
「ええ。先王さまと王妃さまがお越しになって、とても華やかな御祝いでしたものね」
「そうではないよ、タナシア」

 反対の足を同じように手当てしながら、カリナフが独り言のようにつぶやいた。

「君と、出会えたからね」