第三話 思慕

 吊り灯籠の明かりが照らす薄暗い廊下が、奥に向かってまっすぐ伸びている。自分たちの他に宿泊客はいないのだろうか。建物がきしむ音以外には、物音ひとつしない。
 冬へ向かって深まる秋の夜更け。廊下の床板が裸足にひんやりと冷たくて、思わずぶるりと身震いしてしまう。

 短刀を腰に差して、腕に引っ掛けていた表着うわぎに袖を通す。沈香の効果は確かなようで、タナシアはいつもより早く床についてすぐに眠ってしまった。

 立ち止まったまま、カリナフは両の手で自分の容貌を確かめた。眉、まぶた、鼻筋、口へと順に指先を滑らせる。誰もが陛下に似ていると言う。叔母上までもが、我が子アユルのようだと言っていた。
 恐れ多くも、大変栄誉なことだ。しかし、これがタナシアを苦しめる。顔を合わさずに行動を共にすることは出来ず、かと言って、形を変えるために顔を切り刻むわけにもいかない。

 ――どうしたものか。

 はぁ、と重たいため息をついたあと、カリナフは一番奥の部屋を目指して歩き出した。
 陛下と共に過ごした時間は長くなかったはずだ。本当に、断ち切れぬほどの深い情を抱いているのだろうか。

 にわかには信じられないが、思えば自身も同じだと気付く。思慕とは不思議なもので、確固たる理由もなくある瞬間に心に芽吹くのだ。
 歓春の宴で舞を終えて雅楽面を外した時、タナシアの顔は陛下の方を向いていた。舞など、見ていなかったのだろう。

 戸口に赤い紙が挟んである部屋の前で足を止める。その紙を引き抜くと、カリナフは戸に顔を近付けた。

「私だ」

 そう言うと、そっと引き戸が開いた。そして、中からカリナフと変わらない年頃の小柄な男が顔を出した。彼はカリナフの側仕えで、名をエンデという。カリナフの成人の義から半年ほど経った頃にティムル家にやって来て、かれこれ十年ほどの付き合いになる。

「若様、どうぞ」

 エンデは、カリナフの護衛と王都との連絡を担っている。エンデとタナシアに面識が無い事は、タナシアが王宮を出る前に調べてある。しかし、用心するに越したことはない。タナシアの素性が知れないように、カリナフは距離をとってついて来るようエンデに命じていた。
 明かりのそばに腰をおろしたカリナフに、エンデが封書を手渡す。

「宰相様の使者よりお預かり致しました」
「これだけか? 他に言伝ことづては?」
「特には」

 カリナフは、ラディエの印章で封緘された封筒を丁寧に破いて手紙を取り出した。これは公的な書簡ではなくて、あくまでも私的なものだ。カシュの状況に紛れて愚痴や恨み言のようなものがつらつらと並んでいる。

 タナシアが生き延びた事は、アユルとカリナフしか知らない秘事。ラディエは、カリナフが呑気に気ままな旅を楽しんでいると思っているのだ。

 四家が処されるという前代未聞の事件が起きたあとだ。さぞ、ご苦労をなさっておられることだろう。ラディエの憔悴した顔が思い浮かぶ。
 一言で言えば、さっさとカシュへ行って国司の仕事をしろと書かれたそれを読んで、カリナフは苦笑いした。

「宰相様がお怒りになっている。悠長に旅をしている場合ではないようだ」
「いかがないさいますか?」
「隣町へ出て山越えをしようと思ったが、運河を下るとしよう。手配を頼む」
「かしこまりました」
「丁度よかった。妻が足を痛めていて、カシュまで歩かせるのは気の毒だと思っていたところだったからな」

 妻? と小首をかしげるエンデに、カリナフが笑いながら短刀を渡す。意味が分からず、エンデはさらに首をかしげた。

「私の髪を切って、急ぎ髢を作ってくれ」
「急ぎと言われましても、このような田舎町では無理です。カシュなら、職人がいるでしょうが」
「ならば、お前は先にカシュへ向かえ。新居の手入れと人を揃えておいてもらえると助かる」
「若様おひとりで不便はありませんか?」
「旅にも慣れてきた。問題は無い」
「それでは、仰せの通りに致します。道中お気をつけください」

 部屋に戻ると、タナシアはぐっすりと寝入っていた。心身ともに疲労困憊なのだろう。
 カリナフは、タナシアのそばに座って肩まで布団を掛けてやった。安らかな寝顔に、安堵の笑みがこぼれる。
 他の子らと菓子すら取り合えなかった。陛下のそばで幸せになれるわけがない。王宮に上がるべきではなかったのだ。

「タナシア」

 君は、明日も私を通して陛下を見るのだろうか。許される日は来ないのに、断ち切れぬ陛下への情に苦しみ続けるのだろうか。

「もう、忘れてしまえ」

 かぶりをそっと撫でる。
 陛下は世をあまねく照らす月であり、我々はどのような身分、地位にあろうとも、それに群がる小さな星に過ぎない。この世は、カデュラ家を礎に太平を保っている。それを崩せば、大地には焦げと死の匂いが染みついて、空は暗雲に覆われてしまう。真っ先に失われるのは、罪なき民の命だ。

 何があろうとも、私の陛下への忠誠は揺るがない。陛下からタナシアを処せと命ぜられれば、必ずそれに従う。

 ――ただし、その時は私も生きてはいない。

 陛下が願いを聞き入れてくださった瞬間に、私の命はタナシアの命とひとつになった。新天地で君が新しい人生を穏やかに送れるように、命ある限り努力を惜しまない。生きていて良かったと思える日が来たなら、それが何よりの喜びだ。

 カリナフは音を立てないようにタナシアから離れると、燭台の火をふっと吹き消した。