第四話 運河

 カデュラスとタナン公国の境を、東西にユネダ山脈が走る。夜明けに赤く染まる高い山々が連なったそれは、年中白い冠をかぶって大地を分かつように堂々とそびえている。

 タナシアは、膳から山菜の煮物の椀を取って動きを止めた。品数の少ない二膳を並べるのが精一杯の小さな円卓の向かいで、カリナフが黙々と食事を口に運ぶ。

 一晩のうちに、何があったのだろうか。
 腰まであったはずの垂れ髪が、自分の髪と同じくらいの長さになっている。目覚めた時に驚いて、今も信じられない光景を見ているような不思議な感じがする。
 タナシアの視線に気付いたカリナフが、「何?」と片眉を上げて訝しむような顔をした。

「カリナフさま、その髪は……」
「似合わないかな」
「そのような事はありません。わたくしのかもじを作ってくださるとおっしゃったでしょう? 申し訳なくて」
「気に病む必要はない。君の髢になれるのだから、私の髪もきっと喜んでいるはずだ」

 カリナフの唇が優雅に弧を描く。タナシアはそれに応えるように、箸と椀を持ったまま頬を緩めた。
 山菜を口に入れて、もぐもぐと奥歯で咀嚼する。これまで口にしてきた物とは質も味も違う粗末な食事だ。けれど、人の目が無いから気を張りつめなくてもいいし、毒味の必要ない食事は作った人の温もりすら感じられるような優しい味がする。

 ――ああ、幸せ。

 そんな言葉がふわりと心におりてきて、タナシアは一瞬我を疑った。幸せという言葉がこんなにも自然に、そよ風のような穏やかさで胸に吹いた事があった?

 開けてはならない扉を開いてしまったような、怖さと驚きと言いようのない高揚が押し寄せる。幸せとは何なのかしら。アフラム家に生まれたこと? 陛下の正妃になれたこと?
 これまで思っていた幸せの形が、意味が、かすみのようにおぼろになる。

 いけない、とタナシアは自戒した。長閑のどかな時間にかまけて、危うく自分の身の上を忘れてしまうところだった。

「足はどうだ。まだ痛むか?」

 先に食べ終わったカリナフが、火桶から鉄瓶を取って茶杯に湯を注ぐ。白い湯気が、ふわりと絹糸のように茶杯から立ちのぼった。

「いいえ、もう痛みはありません」
「今まで無理をしてきたから、今日はゆっくり体を休めて」
「お気遣いありがとうございます」
「私はこれから街へ行ってくる。部屋には近付かないよう、宿の主人に申し付けておくから心配はいらない」
「御用事ですか?」
「用事という程の事でもない。昼までには戻る」
「わかりました」

 タナシアは、汁椀を取って口をつけた。円卓の向かいで、カリナフが横髪を耳に掛けて折りたたまれた紙を広げる。親しい人からの手紙だろうか。それに向けられるカリナフの優しい眼差しに、ふとそう思う。

 カシュまで、あとどれ程あるのかしら。
 陛下は、決して父上とわたくしをお許しにならない。父上を処したのは、陛下だと聞いたもの。最後に拝した陛下のお顔とお召し物を汚していた赤いものは、父上の血だったのだわ。自ら刑場に足を運ぶほど、陛下のお怒りは深いという事――。

 カシュに着いたら、牢に入れられて一生を終えるのだろう。天寿をまっとうするのか、そうではないのか、それは知る由もないけれど……。

 タナシアが食事を終えると、カリナフはすぐに部屋を出て行った。タナシアは、戸を開けて縁側に座した。雲間から薄く差した日光が、芽吹く季節の日溜まりのように暖かくて心地いい。柱に体を預けて目を瞑る。すると、麻の粗末な衣の中で体が温まって、そのまますうっと意識が遠のいた。

 目を開けると、そばでカリナフが本を読んでいた。慌てて姿勢を正そうとして、肩からきぬが滑り落ちる。太陽の高度が変わって、タナシアが座っている所は日陰になっていた。迂闊にも、長いことうたた寝をしてしまったらしい。

とこに運ぼうかとも思ったのだが、気持ちよさそうに眠っていたからそのままにしておいた」
「お許しください。居眠りなんてはしたない事を……」
「楽にすればいいと言ったはずだ。ここには、君と私しかいないのだから」
「ですが、カリナフさまとわたくしでは天と地ほど身分が違いますもの」

 そうだな、とカリナフの視線が本に戻る。

「実は宰相様から連絡が来て、一刻も早くカシュへ行かなくてはならなくなった。明日は隣町へは向かわずに、この街から船で運河を下るからそのつもりで」
「は、はい」

 それを最後に、カリナフはまた今までのように話さなくなった。
 翌朝、身なりを整えて、ふたりは宿を出た。秋の空は目まぐるしく色を変える。今日は雲ひとつ無いとても良い天気で、乾いた風に市街の賑やかな音が響く。荷馬車を牽引する馬の蹄に、走り回る子ども達の歓声。藺笠いがさから垂れる麻の布を少し上げて、タナシアは空と町並みを垣間見た。

 運河を航行する船が寄港する場所は、田舎町で最も栄える大きな通りを抜けた先にあるという。
 その通りを歩いていると、カリナフが急に立ち止まった。そして、店先に出ていた恰幅のいい初老の男と言葉を交わした。

「船の時間までまだ余裕がある。少しだけ寄り道をしよう。藺笠を取って、ここへ座りなさい」

 カリナフが背負っていた荷を置いて、店先の縁台に腰掛ける。タナシアは急いで荷をおろすと、藺笠を脱いでカリナフの隣に座った。そうして待っていると、先ほどの初老の男が小皿に乗せた砂糖菓子と飲み物を持って来た。

「カリナフさま、これは」
「懐かしいだろう? 思い出話をしたら食べてみたくなってね。どうぞ」
「ありがとうございます」

 タナシアは、カリナフが差し出した砂糖菓子を受け取って目を輝かせた。まるで、童心に返るような心持ちだった。

「春になったら、梅の切り枝を君に贈るよ」

 朗らかなカリナフの声に、ちくりと胸が痛む。
 あの日、ティムルのお屋敷を出て家へ帰る途中、御簾をおろした輿の中で父上からお叱りお受けた。お前は第一王子の妃になるのだと何度言えば分かる。王子以外の者と親しくしてはならぬと教えたであろう。
 いただいた梅の切り枝の花をむしり取って、父上は怒り任せにそれを手折って外へ投げた。

 何も言えなかった。他人から何かを貰うのは初めてで、嬉しくて嬉しくて、花が枯れるまで大切に飾っておこうと思っていたのに……。
 捨てないで。父上の怒りが恐ろしくて、そのたった一言が言えなかった。

 思えば、わたくしの日々はお顔も存じ上げない第一王子さまのためにあった。だから余計に、婚儀で陛下が向けてくださった笑みが尊く感じられたのかも知れない。

「ご覧、タナシア。向こうに高い山々が見えるだろう?」
「ええ」
「あれは、陛下の祖であられる初代王が地に降りたとされる神聖な山だ。その袂を流れる大河の流れを人の力で変えて、運河が整備された。昔、運河がまだ大河だったころは、死者の魂が河を渡ってユネダ山脈から天に帰ると信じられていたそうだ」

 どうしてそのような話を? 言葉にはせずに、タナシアは首をかしげた。カリナフが硬貨を出して縁台に置く。そして、荷を背負った。

「天に帰った魂は、またいつか新しい命に生まれ変わる」
「……ええ」
「王妃だったタナシアは、死者となって王宮を出たのだ。だから、君も言い伝えの通りに生まれ変わるといい」

 さあ、行こう。はい。
 静かなやりとりのあと、タナシアは立ち上がった。藺笠を被ろうとすると、もう君を知る者もいないだろうからとカリナフが言った。
 運河は海のようだった。対岸は遥か遠く、こちらからは望めない。波止場には、数隻の大きな船が停泊していた。カリナフが、船乗り場で身分の証である玉牌と通行証を役人らしき男に見せた。

 ちゃぷんちゃぷんと岸に打ち寄せて跳ね上がる波。運河の水は深い緑色をしていて底が知れない。落ちたらどこまでも沈んで、きっと苦しさにもがいて死んでしまう。怖い。
 舷梯に足をかけてためらうタナシアの手を、カリナフが握る。そして、下を見るなと言って一気に舷梯を登った。