
遠くの海から、獣の低いうなり声のようなものが聞こえてくる。海上に吹きすさむ強風と流氷がぶつかって重なり合う音。その昔、他国から流れ着いた旅人が、悪魔の叫び声だと言ったそうだ。確かにその通りかもしれない。昼間の美しい白銀の世界では気にもならないのに、月のない闇夜に響くそれは例えようもなく不気味で恐怖心をあおられる。
「ごめんなさい、驚かせてしまって」
きょとんとするアユルを横目に、ラシュリルはベッドの端にちょこんと腰掛けた。外套を脱いで、そばの机に置く。背中に注がれる視線が痛く感じて、やっぱりやめておけばよかったと後悔の念にかられてしまうけれど、そばにいたい。でも、何を話せばいいのか……。
ふぅっとため息をつくと、ベッドが大きく揺れて後ろから抱きしめられた。耳朶をやさしい吐息がくすぐって、それから頬と頬とがくっつく。
「体が冷たいな」
「……離宮の前で迷っていました。ご迷惑かと思って」
「外は寒かっただろう」
「怒らないのですか?」
「何を」
「勝手に来てしまって……」
「そうだな。夜に忍びこんで来るとは、大胆な王女様だ」
くすっと笑われて、ラシュリルは振り向いた。そして、次の瞬間、「ごご、ごめんなさい!」と叫んだ。勢いあまって、アユルを押し倒してしまったのだ。
均衡を崩した体を支えるための本能的な行動とはいえ、顔の両脇に手をついて、お腹に馬乗りになって、まるで襲いかかっているような格好だ。普段からお淑やかにしておけばよかった。今になって、お転婆な自分を猛省してしまう。
顔を真っ赤にしたラシュリルが、目に涙をためて困り果てる。それがかわいくて可笑しくて、アユルは声を出して笑った。
「そんなに笑わないでください」
「押し倒されるのも悪くない」
「……もう、恥ずかしいのに」
「悪くないが、まずは氷のような体を温めるのが先だ」
二本の腕に体を絡めとられて、ラシュリルはアユルの胸に身を預けた。とくんとくんと、心地いい心臓の音が体温と一緒に伝わってくる。
「お顔を見たら、何だかとても安心しました」
「嘘が下手だな。声が震えているぞ」
「そんなこと……」
「王妃のことは、先に私の口から言うべきだった。許せ」
ラシュリルは、体を起こしてアユルの目をみつめた。
ついさっきまで笑っていたのに、黒い鉱石のような瞳から真摯な眼差しが返ってくる。
「そのことが気掛かりだったのだろう?」
「少しだけ」
「本当に少しか?」
「それは……、少しじゃない、かも……しれません」
「私は、そ……ぬぐっ」
しなやかな手に口をふさがれて、アユルは口ごもった。
王妃さまのことなら、何も言わないでください。ラシュリルが、今にも切れてしまいそうな糸のように細い声で言う。嫉妬などではないことは一目瞭然だった。
一方的に想いを押しつけた挙句に、誰にも言うなとあまりにも身勝手な約束で縛りつけた。そのせいで、信頼する侍女にすら打ち明けられずにいる。それなのに、責め立てることもしない。
アユルは、細い手首をつかんで引き寄せる。その拍子に、ラシュリルの右目から、ぽたっと雫が頬に落ちてきた。
「私は、そなたがいい」
もう一滴、涙が落ちてきた。
ラシュリルの目のふちを親指でぬぐって、アユルはその指を柔らかな唇に乗せる。果実のように瑞々しい唇が弧を描く美しさには、この世のどんな花も敵わない。望むのは、ただひとり。そばで笑ってくれるのなら、どんなことでもしてみせる。
「愛している、ラシュリル」
暖炉の中で、薪がばちっと激しく炎に弾かれた。
「アユルさま」
ラシュリルは、アユルの唇に自分の唇をそっと重ねた。上手なやり方なんてわからない。戸惑いながら軽く触れて離れて、形のいい薄い唇に吸いついてみる。すると、アユルが唇を押しつけて舌をさしこんできた。背中にまわされた腕が、ぐっとふたりの隙間を詰めるように力強く抱きしめる。
「……んふっ」
湿った熱が、接点でゆっくりと交わっていく。じっくりと時間をかけて、舌と舌がねじれながら絡み合った。
視界がぐるりと回転して、ふたりの体が逆転する。
服をまさぐって胸の稜線をとらえる手が、ラシュリルをあの夜に引き戻す。海にさらわれて、月明かりに揺れる海原の波に沈んでいくようだった。あの夜と違うのは深さだろうか。ラシュリルはアユルの体温を抱きしめた。こんなに気持ちのいい温かさを他には知らない。
「ん……んっ」
愛おしいと思う気持ちが、点火した体を支配する。口の中はとろけて、全身の肌がしっとりと湿る。もぞもぞと、まだ触れられてもいないところまで溶けていく。それが恥ずかしくて、思わず足をぎゅっと閉じたけれど、すぐに広げられてしまった。
「はぁ、っ」
唇を解放された隙に、必死に酸素を吸いこむ。走った後のような忙しい呼吸に照応して、胸が大きく上下する。ラシュリルの潤んだ目を覗きこんで、アユルが頬にそっと接吻した。
そうしている間も、角ばった手は動きを止めない。羞恥をあおるように急所をはずして、欲をかき立てるように全身を這いまわる。
もっとそこを触って欲しい。違う、そこではなくて……。ラシュリルの口から、言葉にならない苦悶の声が漏れる。その度に舌が肌を舐め、歯が甘く噛む。いやと言えば、そこを執拗に愛撫された。
卑猥な音と一緒に紅い印をつけられて、一糸まとわぬ肌が異常な熱を帯びてくる。息がそこをかすめるだけで、体が震えて思考が飛んでしまいそうだ。
「ぁん……ふん……っ」
呼吸が苦しくて、頭がぼんやりとする。ラシュリルは、とろんとした目でアユルを見上げた。恥部に、熱いものが当てられている。アユルがそれに手を添えて、愛液でぬかるんだ割れ目を押し広げるように上下させる。
「アユルさま……、わたしっ」
言葉は、最後まで紡がれることなく唇に奪われた。余裕のない、荒い口付けだった。
硬く熱い男の一部が、ゆっくりと芯を押し広げながら入ってくる。貫かれるときの感覚は、苦痛なのか歓びなのか。それを考える余裕はない。震える唇から、短くい息と甘い声が漏れる。ラシュリルはぎゅっと目を閉じ、あごを上げて眉根を寄せた。
「……はぁっ、んっ」
中はたっぷりと潤んで、ぎゅうっと包みこんでくる。少し動くだけで、敏感に応えるラシュリルがいじらしい。
アユルはそのままラシュリルに覆いかぶさって、離れた場所で敷布を握りしめている手に指を絡ませた。弾力のある胸が逞しい胸板につぶされて、違う律動を刻む二つの鼓動が共鳴する。強く、激しく――。
「ラシュリル」
耳を、低い声がかすめる。ふわりとジャスミンが香って、ラシュリルは目を開けた。とても心が安らいだ。激しい心臓の音の奥から、身を焦がすような気持ちがわいてくる。ラシュリルは、手を握り返してアユルの頬に唇を寄せた。
「アユルさま、好きです」
堰を切ったように、想いが弾ける。同時に、今まで大人しく待機していたアユルが動き始めた。擦過の熱に、ふたりの体が深く結びつく。中が、とても熱い。強弱をつけて深い場所を突いて、じらすように浅い所を攻めてくる。ラシュリルの意識が千切れた雲のように散って、びくんと腰がはねた。
「まだだ」
アユルがラシュリルの体を抱き起す。そして、男根を咥えたままぐったりするラシュリルの胸元に顔をうずめて、汗ばんだ柔肌を舐めた。まだ、ラシュリルは霞んだ意識の中をさまよっている。アユルは張りのある胸に手を添えて、上を向いてそそり立つ突起を含んだ。口の中で甘噛みして舌でくすぐり、強く吸い上げる。
「……ふっんっ」
与えられる快感は、逃げ水のようだった。のぼりつめたと思えばそうではなく、次が体を小波のように走る。歓びの果てはどこにあるのだろうか。ラシュリルは、朦朧と息を乱しながらアユルを抱きしめた。あたたかくて、とても幸せな気持ちになる。
「許されるのなら、アユルさまとずっとこうしていたい」
アユルが顔を上げる。
二人はしばらく見つめ合って、どちらからともなく唇を重ねた。貪るように音を立てて激しく、舌と舌を絡ませて解き、向きを変えて繰り返す。繋がった部分が、さらに昂る。先に動いたのはアユルだった。またがって座るラシュリルの腰をぐっと引き寄せる。
真下から最奥を突かれて、ラシュリルは可愛い悲鳴をあげた。頭を突き抜けるような感覚に肌がぞくりと粟立つ。ラシュリルはアユルの肩に手を置いて、今にも崩れてしまいそうな体を支えた。
「動いてみろ」
「どう、やって……?」
「気持ちが良いように、ほら」
腰に手を添えて、導いてやる。すると、恥ずかしそうに頬を染めて、ラシュリルが前後に腰を動かし始めた。
「……こう?」
「そうだ」
余裕ぶって答えてみるが、危うく達してしまいそうになる。
アユルはラシュリルに軽く口付ける。こんなにも可愛らしい女が他にいるだろうか。ラシュリルのたどたどしくて歯がゆい動きに、自然と顔がゆがむ。もう少し身を任せていたい。もっと、もどかしくて淫らな姿を見ていたい。だが、もう限界だ。
「きゃぁっ」
視界がぐるりと回転する。ラシュリルは手の甲で口をおさえた。激しく腰を打ちつけられて、体が大きく揺さぶられる。アユルが、獰猛に肉襞を擦って奥を何度も何度も突いてくる。蜜口からじゅりゅっとあふれた愛液が、後ろの孔まで滴る。
「あっ……、ああっ……!」
ベッドが激しくきしんで、ふたりは同時に最上の果てをつかんだ。
ラシュリルは、アユルの腕の中で微睡んだ。包まれている感じがとても心地よくて、このまま深く眠ってしまいそうだ。
けれど、宮殿に戻らなくては。理由は聞かないで、とナヤタに留守を頼んできた。今ごろ、やきもきしながら待っているに違いない。
「そろそろ、帰ります」
「……ラシュリル」
「はい」
「私たちは一生を共にする。だから、悲しい顔をするな」
ふふっとはにかんで、ラシュリルはゆっくりと起き上がった。そして、身なりを整えてベッドをおりると、外套を羽織ってアユルににっこりと笑いかけた。
「おやすみなさい、アユルさま」
離宮を出て、雪が積もった暗い道をランタンの明かりだけを頼りに歩く。海が、闇夜に不気味な唸り声を響かせている。
「王女様」
聞きなれない声に呼び止められて、ラシュリルは体をびくりと震わせた。
「驚かせてしまいましたね。お許しを」
おそるおそる後ろを向くと、アユルの侍従が立っていた。
こんなに恰幅のいい人だったかしら。ラシュリルは、人影をランタンで照らして小首をかしげる。
「宮殿までお送りいたします」
「わたしは大丈夫です。あなたがいないと、アユルさまが一人になってしまうわ」
「そのアユル様が送ってさし上げるようにと」
「……そう、アユルさまが。ありがとう」
「わたくしに礼は不要です、王女様」
「いいえ、あなたにはお世話になってばかりだわ。ありがとう、さっきは離宮に入れてくださって。それに、カデュラスでも」
「恐れ入ります」
「それにしても、歩きにくくはないですか? そんなに着ぶくれして、まるで雪だるまみたいだわ」
「情けなくも、こちらの冬の厳しさが身にしみてしまって」
「まぁ」
自室に戻ると、ナヤタが今にも泣き出しそうな顔で飛びかかってきた。遅くなってごめんなさい、と謝ってラシュリルは椅子に腰かけた。
「誰も来なかった?」
「はい、大丈夫でした」
ナヤタが、温かい果実茶を淹れたティーカップをテーブルに置く。果実茶でのどの乾きを潤して、ラシュリルはナヤタをそばに呼んだ。
「あのね、ナヤタ。離宮に行ってカデュラスの国王陛下にお会いしてきたの」
「陛下に……。何かのご用で?」
「いいえ、そうではなくて。わたしね、あの方のことが好きなの」
「……ラシュリルさま」
「信じられない?」
「いいえ、ラシュリルさまが嘘をくつくような方ではないことくらいわかっています。ただ、びっくりしてしまって」
「隠し事をして、あなたに心配をかけるのは間違っているもの。だから、あなたにだけは打ち明けるわ」
ラシュリルは、カデュラスでアユルと一夜を過ごしたことを話した。ナヤタは絶句するほど驚いたが、ラシュリルの真剣な言葉を真摯に受け取った。
「お願い。誰にも言わないで」
「わかりました。誰にも言いません」
「お兄さまにもよ?」
「はい、わかっています」
「ありがとう、ナヤタ」
窓の外に目をやると、がたがたと風に震える窓ガラスの向こうに黒一色の世界が広がっている。夜が明ければまた、一転して銀に輝く美しい景色があらわれる。それを繰り返して季節は巡っていく。明けない夜などないし、終わらない冬もない。
――私たちは一生を共にする。
その言葉が夢ではありませんように。そう願いながら、ラシュリルは果実茶を飲み干した。
