
その日、エフタルはいつものように屋敷を出てダガラ城を目指した。輿の御簾を扇の柄にひっかけて街並みをのぞく。日の出の鮮明な曙色がカナヤを染めている。
エフタルは、憂いのため息を一つ吐き出して扇をしまった。
目を閉じれば、まぶたの裏にあの日の光景が映る。着の身着のまま、裸足で屋敷から駆けだした。ダガラ城へ向かう華やかな入輿の列と氷のように冷たい石畳の感触。親友と大切な人を失った日の記憶は、いつまでも色褪せない。
エフタルは、朱門の前で輿をおりて門番に近寄った。昨日の日暮れから夜通し門を守った五人の武官が、エフタルの腰にさげられた梔子の玉牌を見て大袈裟に敬礼する。
「王妃様に謁見する。門を開けよ」
エフタルがそう命じると、朱塗りの大きな門が重たい金属音を響かせてゆっくりと開いた。門をくぐれば、神の領域だ。王家につぐ高貴な身分であろうとも、ここから先は万人と同じように自らの足で歩かなければならない。エフタルは、はるか先の皇極殿を望んで、ぎりぎりと奥歯を噛みしめる。
四家では駄目なのだ。どんなに権威を削ごうとも、この世では神の系譜こそが絶対だ。エフタルは、王宮へ続く石畳を進んだ。地を踏みしめ、一歩一歩に誓いをこめる。王統を手に入れるためなら、人の道を踏みはずしても構わない。
――先王もそうしたではないか。
マハールと共に研鑽を積み、互いを無二の知己と認め合った若き日を思い出す度に心がすさむ。くだらぬことだと人は笑うだろう。だが、捨てきれぬ積年の怨恨。三十年近く前の冬、心から大切にすると誓った女をこの城に奪われ、エフタルの純真な精神と王への忠誠心は粉々に砕け散った。
――下位の女官から生まれた下賤な奴め。死んでもなお、憎い。
女官に起こされて、タナシアは急いで着替えを済ませた。
神陽殿に足を運び、歴代の王たちの御霊に夫の無事を祈願するのが毎朝の日課だった。それは、日の出前でなくては意味がない。しかし、窓に目をやると障子が朝日に赤々と染まっている。
アユルが旅立ってから一日も欠かさなかった。タナシアが祈りの時刻を逃したのは、今日が初めてだった。
「毎日お祈りなされたのです。王妃さまの御心は天に通じておりましょう」
「そう言ってもらえると救われるわ。ありがとう、カイエ」
親しげに名前を呼んで、タナシアは若い女官に笑みを向ける。いつもやさしく真心をつくしてくれるカイエという女官は、かわいらしい妹のようでもあり心を許せる友のようでもある。
「すぐに朝餉をお持ちいたします。お待ちくださいませ、王妃さま」
タナシアは、庭の見える場所に座って朝食を待った。
鳥の清かなさえずりが耳に心地いい。今朝も冷えること。そうひとりごちて、白いため息をつく。キリスヤーナに旅立ってひと月、夫からは何の音沙汰もない。先日、無事に着いたようだと父親から知らされただけだ。
「早くお戻りになられるといいのに」
緋袴の腰帯に、婚儀のときに賜った扇がさしてある。タナシアは、桂花の香りが薄れてしまったそれを後生大事に身に着けている。時折、懐かしむようにそれを広げては夫を思い出すのだ。
「王妃さま」
朝餉を用意すると言って出て行ったカイエが、息を弾ませて戻ってきた。
「そんなに慌てて、どうしたの?」
「エフタルさまがお越しです」
「そう。お出迎えの準備をしてちょうだい」
「それが、もう……」
カイエが部屋の入口を見やる。すると、正装に身を包んだエフタルが荒い足音を立てながら部屋に入ってきた。いかに娘であろうともカデュラス国王の王妃となった身。タナシアの身分の序列は、エフタルよりも上だ。そのことを、由緒あるアフラムの当代が知らぬはずはない。
エフタルは、堂々と上席に腰をおろして脇息にひじをついた。
「父上、早くからどうされたのですか?」
「お前に聞きたいことがあってな」
「何でございましょう」
「王印を見たことがあるか?」
もしかして、婚儀の前に届いた書簡に押されていた印章のことかしら。タナシアは、王印とつぶやいて小首をかしげる。
「あれが持っているであろう。御璽のことだ」
「……いいえ。見たことがございません」
「清殿に置いてあるはずだが、本当に見たことはないのか?」
「はい。わたくしは、清殿に入ったことがございませんので」
「清殿に入ったことがない、だと?」
「は、はい。それが何か……」
エフタルはまた奥歯で苦虫をつぶす。
マハールに嫁いで、王宮を意のままにしたシャロア・ルブーラ・ティムルのような王妃にはなれなくとも、足元におよぶくらいの気概は持って欲しいものだ。誰よりも美しくて賢く、隣に立つ王の威光すら奪ってしまうような王妃――。現王を産んだのは、そういう女だった。
困惑の表情を浮かべるタナシアに、エフタルは顔をしかめてちっちっちっと舌を鳴らす。
「つくづく情けない娘だ」
「……なぜです」
「清殿に呼ばれないとはどういう意味なのか。お前にはわからぬのか?」
「せ、清殿は王にのみ許される場所だと陛下が」
「それを鵜呑みにしたのか、愚か者。お前は寵を得ておらぬようだな」
思いもよらない言葉だった。鋭利な刃物で胸を突かれたような激しい痛みと衝撃が体中を走る。タナシアは、ひざの上でぎゅっと両手を握った。
「まあ、よい。行幸に携帯はしないはず……。とにかく王印を探せ」
「わたくしにはできません。陛下より清殿には入るなと、きつく言われております」
「探せ。お前は王宮の主であろう。誰かに見咎められたとて、口を封じればよいだけのこと」
「口を封じる?」
「ひと匙、毒を盛ればよい」
「何と恐ろしいことを……!」
「先の王妃もそうして王宮を治めた」
「……そんな」
「権力とは、そういうものだ」
にたりとエフタルが笑う。顔は笑っていても、目はぎらぎらと得体の知れない不気味な光を放っている。父は、こんなに醜悪な顔をしていただろうか。
逆らうことを少しも許さないといった威圧が、タナシアを震撼させる。娘の性質を熟知し、篭絡の術を知りつくした者の業。粘性の糸で身動きを封じられ、蜘蛛に捕食される蝶のように、タナシアはエフタルの視線から逃れることができなくなった。
エフタルが去った後も、タナシアは魂のない人形のように座っていた。立ち上がろうとしても、体が動かない。
――陛下、早くお戻りになって……。
タナシアはこの世のありとあらゆる神仏に懇願した。キリスヤーナから戻った夫が、あたたかく抱きしめてくれることを。
***
アユルは、ううっと低い声をだしながら背伸びをして、ごろりと身体を回転させた。夢見心地で、甘い残り香のする枕に顔を深くうずめる。
「……コルダ」
返事がない。どうやら、部屋の中にはいないらしい。
アユルは夜着をまとうと、ごそごそとベッドをおりて暖炉の前に立った。薪は真っ黒な炭になり、炎の勢いはすっかり衰えている。どうりで寒いはずだと、アユルは暖炉に向かって指先から小さな青い火を放つ。そして、火が炭の上で赤い色になるのを待って薪を放り投げた。
「おはようございます、アユル様」
コルダが、荷物を抱えて部屋に入ってきた。アユルが暖炉の前にしゃがんで、鳥の鉤爪のような火かき棒の先で火をつついている。その横から暖炉をのぞいて、コルダは「代わります」とアユルから火かき棒を受け取った。
「火は……、消えていないようですね」
「お前を待とうかと思ったが少し寒くてな。先ほど、私が火を入れた」
「申し訳ございません、もっと早く来るべきでした。……ところでアユル様。火をお持ちで?」
アユルは、コルダの問いかけを無視して食事はまだかと言った。
「もうすぐ朝食が届きます。ナヤタ殿がお持ちくださるそうです」
「ナヤタ……。ああ、ラシュリルの侍女か」
「そうです。ところで、王妃様は変わりなくお過ごしでしょうか」
「さあな。何の連絡もないところをみると、変わりないのだろう」
アユルの素っ気ない返事に、コルダは気を取り直して身支度に取りかかった。
顔の手入れから始め、手足の爪を削る。アユルの体に傷をつけないよう、肌に当てる剃刀の刃先にまで神経を尖らせる。コルダがそこまで用心するのには理由がある。一度、アユルの肌を切ったことがあるからだ。たいした傷ではなかったが、女官たちが大騒ぎして、華栄殿に呼ばれる事態になった。
「だから申したであろう」
マハールの王妃シャロアは、そう言って鞭を手にアユルを睨みつけた。
不義の子をそばに置くなど正気の沙汰ではない。この者は母親を殺された恨みを抱えておる。次はそなたの首を掻き切る気ぞ。シャロアは美しい顔をしかめて、語気を強める。
アユルが、傷は何ともない、コルダを打たないで欲しいと懇願したが、シャロアはコルダの背中に鞭を振りおろした。
「どうした」
アユルの声に、コルダははっとした。過去を、映像として鮮明に思い出すのは初めてだった。まるで昨日の出来事のように、シャロアの冷たい表情や口調までが再現されていた。
「表情が険しいな。ラディエのようだぞ」
コルダは剃刀を湯桶につけて、そんなことはないと笑って誤魔化す。
確かあのとき、アユル様が身を挺して仲裁に入ってくれたおかげで打たれずに済んだ。それからどうなったのか記憶が定かではない。アユル様に詰め寄られたシャロア様とそばにいた女官の悲鳴が聞こえたような気がする。
コルダはこめかみを押さえた。
「具合が悪いのか?」
「い、いいえ。申し訳ございません」
そのとき、アイデルとナヤタが朝食を運んで来た。ナヤタがテーブルに食事を並べ、アイデルがアユルに挨拶する。今日は、銅の交易について協議する予定だ。アイデルは時間を告げて、ナヤタと共に部屋を出て行った。
「いかがですか、キリスヤーナの食べ物は」
コルダが、湯桶を片付けながら尋ねた。
頬張ったパンが、口の中の水分を残らず吸収する。のどに詰まりそうな塊を紅茶で流し込んで、アユルは口に合わないと答えた。
「アユル様、もうじき時間になります」
「そうだな」
離宮から戻ったアイデルは、両手にいくつもの書簡を抱えてハウエルが待つ政務室に急いだ。近頃、階段を駆けあがるのも容易ではなくなってきた。もう十分に老体だ。そろそろ後進に役目を譲るべきだと、アイデルは実感する。だが、とアイデルは机に向かうハウエルを見て息を整えた。キリスヤーナの国運を任せるには、彼はまだまだ若く未熟だ。
「ああそうだ、アイデル。カデュラスから書簡が届いてないかな」
「ございましたよ。こちらです、ハウエル様」
ハウエルが、アイデルから受け取った書簡に目を通す。
書簡には、カデュラス国王の許可が出れば、望む量の銅が手に入るよう手配すると書かれていた。キリスヤーナは小さな国だ。カデュラスと一戦交えるほどの力は持っていない。しかし、即位したてのカデュラス国王が統治する世を混乱させることはできそうだ。
神の権威も今や見せかけなのか? ハウエルは、書簡の結びに書かれた名にほくそ笑む。
「このエフタル・カノイ・アフラムって、王妃様の御父上だろう? カデュラスも内部ではいろいろとあるようだね」
ハウエルが書簡を暖炉に投げ入れる。炎がばちばちと音を立てて、美味そうに書簡を飲みこんだ。
「しかしハウエル様、その方を信用しても大丈夫なのですか?」
「どうだろうね。でもさ、気が遠くなるくらい長いことカデュラスに従ってきたんだ。そろそろ王権を取り戻したいじゃない」
「ハウエル様。どうか、間違いを犯さないでくださいませ」
「間違い? 千年以上も前の忠誠なんて、もうとっくに死んでるよ」
約束の時間になり、アユルはコルダと離宮を出て宮殿へ向かった。回廊の途中で、宰相がふたりを待っていた。
「おはようございます、陛下。ゆっくりお休みになられましたか?」
「ああ。寝たが、体が重い」
わたくしもでございます、とラディエが頭を掻きながらアユルの後ろを歩く。
ベッドでは疲れが取れない。床敷きの布団が恋しいという意味の会話が、コルダの頭で変換される。あれはやはり、相当な体力を消耗するのだ。今日もしっかりと体をほぐして差しあげねばと、初心な侍従がふたりの背後で気合を入れる。
「宰相はどう思う」
「あのハウエルという男ですか?」
「そうだ」
「好青年と見受けましたが……」
「そうか」
「しかし、警戒はすべきかと」
大広間には、キリスヤーナの要人たちが集まっていた。アユルは席に着くなり、銅を必要とする訳を説明するよう命じた。ハウエルが、神妙な面持ちで立ち上がって話を始める。
「我がキリスヤーナの国民は、大半が夏の海での漁で生活しております。船は全てが木造でして、船腹に銅を用いれば海水による腐食を防げますので、船の持ちがよくなります」
なるほど、と相槌を打ちながら、アユルはハウエルの話に耳をかたむけるふりをした。必要な銅の量、製錬についての退屈な説明が延々と続く。しかし、身振り手振りを交えて話すハウエルの表情は、晩餐のときとはまるで違って真剣だった。
話を終えたハウエルが喉を潤そうとテーブルの上のティーカップに手を伸ばしたとき、アユルは許可するとだけ言った。
「陛下!」
ラディエが慌てて立ち上がる。同席していたキリスヤーナの貴族たちも、すんなりと許可が出たことに驚いている。
警戒すべきだと話したばかりだというのに、どういうおつもりか。するどい眼光をアユルに向けて、ラディエは身を乗り出した。
「今の説明で十分ではないか。余が、ハウエルを信頼するということだ」
アユルはラディエに座れと命令した。
警戒して疑うからこそ許可する。アユルはコルダに筆を用意させ、その場で詔書をしたためた。
「これを以て、サリタカルから銅を仕入れるがよい。ただし、その量はそなたが求める量の半分とし、国民の生活のためにのみ使用を認める」
「何と感謝申しあげたらよいのか……!」
ハウエルは頬を上気させて、勝負に勝ったような満面の笑みで感謝を述べた。
アユルが、詔書の最後に名を入れる。いつもと少し書体を変えて、タニティーアの文字をカデュラスの古語で綴った。
出来上がったばかりの詔書をラディエが確認する。次に文官が記録して、ハウエルに手渡された。
「宰相。直ちにカデュラスへ文を出せ。それから、サリタカル国王にも同じように知らせておけ。帰路でまた寄ると添えてな」
「かしこまりました」
ラディエは、ひどく納得のいかない顔で返事をした。
「では、陛下」
すっかり上機嫌になったハウエルが、海を見に行きましょうとアユルを誘う。窓の外は、とても良い天気だった。アユルが快く誘いを受けると、すぐにマリージェとラシュリルが呼ばれた。
先日と同じように、ラシュリルがカデュラス国王と宰相に挨拶する。顔をあげたラシュリルと目を合わせて、アユルは一瞬、表情をゆるめた。
