
手のひらに乗せられた玉牌を見て、アユルが一瞬、片方の眉をぴくりとさせる。
驚いたのかしら。ラシュリルはアユルの表情をうかがいながら、左胸をおさえて大きな深呼吸を数回繰り返した。訝しんで、探るようなアユルの視線が玉牌を離れてこちらに向く。
他の者が入り込めないほど互いを愛し抜いてこそ、わたしたちは添い遂げられるとアユルさまは言った。だから、わたしが身を引くのは、アユルさまから別れを告げられたときだけ――。
「傷は大丈夫ですか?」
「大事ない。王女殿が話したいことがあると宰相から聞いたのだが、もしや宰相に何か言われたのか?」
「お母さまと玉牌のお話をなさっていたでしょう? だから、大切な物なのだと思って。それに、宰相さまも武官の方も文官の方も、ちゃんと身につけていらっしゃるから」
「そういうことなら受け取る。それに、もう約束は果たしていることだしな」
「わたしの玉牌はまだお持ちですか?」
「もちろん。カデュラスに着いたら返す」
アユルが玉牌の組糸を袴の腰紐に通して、はずれないようにしっかりと結びつける。ラシュリルはアユルの背中越しに机を見て驚いた。机の上に山積みになった分厚い本。そのうち数冊が広げられたままになっている。わくわくしながら、眠るのも忘れて読み耽ってしまう楽しい恋愛小説などではなさそうだ。
「お仕事の邪魔をしてしまいましたね」
「いや、ちょうど休息を取ろうと思っていたところだ」
「……よかった」
「侍女がいなくて不便だろう」
「いいえ、コルダさんがとっても親切なので不便なことはありません。アユルさまこそ、コルダさんがいないと困るのではないですか?」
「静かでよい」
「嘘ばっかり」
「コルダには言うなよ」
はい、とラシュリルが笑顔になると同時に、アユルがごろんと横になる。そして、仰向けになって、目をぱちくりとさせるラシュリルを真下から見上げた。
「疲れた。しばらく膝を借りる」
そう言って、アユルが目を閉じる。太腿の上に乗った頭の重みに、思わず背筋が伸びてしまう。こ、これはどうしたらいいのかしら。ラシュリルは頬が熱くなるのを感じながら、そっと短い黒髪に触れてみた。疲れたというのは本当らしい。心なしか顔色が冴えないように見える。
「首が痛くないですか?」
少し、とアユルが言う。ラシュリルは正座を崩して割座する。それから、小袿を脱いでアユルに掛けた。いつも凛としているのに、今は無防備でとても可愛らしい感じがする。子どもと言うよりは小動物みたいだ。
「わたしは、アユルさまを幸せにしたいと思っています」
「それは頼もしいな」
「本当ですよ。けれど、アユルさまのために何ができるのかと言われたら、何もなくて……」
「やはりラディエから小言を言われたのだな?」
「小言だなんて。宰相さまは、アユルさまのことを心から心配しているのだと思います。って、ごめんなさい。疲れているのに」
目を瞑ったまま、アユルがラシュリルの手をつかむ。
「ラディエに何を言われたか知らないが、私がこうして気兼ねなく身をゆだねるのはそなただからだ。何ができるできないではなく、そなたの楚々な心こそが私には何よりも尊い。それが解らぬ者の言葉など聞き流せ」
「……はい、アユルさま」
「他の者に惑わされず、私だけを信じていろ。私がこの手を離すことはない」
待てど暮せど、一向に王女が出てくる気配がない。
しびれを切らせたラディエは、部屋に入って目をひんむいた。陛下が王女の膝を枕にして、すやすやと寝息を立てているではないか。あまりにも安らかなその寝顔に、ラディエはふと昔を思い出した。
王子は、よく笑う快活な童だった。花もかくやの可愛らしい笑みをこぼし、春を運んでくる清か風のように王宮を駆け回っていた。仕官したばかりのころ、いつかこの方の御代にお仕えできるのだと思うだけで務めに身が入ったものだ。それがいつの間にか、別人のように変わってしまわれた。
「陛下、起きてください。夜も更けてまいりました。王女殿を部屋へお送りいたします」
翌朝、アユルは早くに起きて机に向かった。
昨夜は、せっかく気持ちよく眠っていたところをラディエに邪魔されてしまった。おふたりが一夜共にするにはまだ時期尚早と言うあたりが、愚直で真面目なラディエらしい。今更だが、大事な宰相を労ってそういうことにしておこう。
「さて」
机に広げた上質な紙にさらさらと流れるように筆を走らせる。
床に放り投げられたままの書簡。王宮には、夫の帰りを待ちわびる妻がいる。蒔いた種は順調に芽吹いて、天に向かって葉を広げ、やがて甘い果汁が滴る実をつけるのだ。
王妃が寂しい思いをしていないか、そればかりが気になっている。
じきに帰国する。
それだけ書いて、紙を丁寧に折りたたむ。ふと、ラシュリルに手紙を書こうとして言葉が浮かばなかったことを思い出して苦笑する。本当に愛おしい者には書けないのに、計略的な偽りならいくらでも書けてしまう虚しさ。だが、手懐ける努力は必ず報われる。
アユルは、ラディエを呼んでタナシアへ手紙を送るよう命じた。そして、サリタカル国王を連れてくるようにとつけ加えた。
サリタカル国王が来るまで、まだ時間がある。アユルは、外の空気に触れようと庭におりた。目的もなく、ふらふらと庭を歩く。すると、若い従者が荷を解いているのが見えた。
「大義だな」
突然あらわれた王に驚いて、従者が白砂の上にひれ伏す。アユルは従者に近づいて、地面についた従者の手を見おろした。ただ、何気なく気になったのだ。右手の人差し指の傷が――。
「名は何と言う」
「は、はははい。ファ、ファユともも申します」
「ひとりか? 他の者はどうした」
「は、はい。むむ、向こうで……」
正絹のお召し物から、清々しい香りがする。よいと言われるまで顔を上げることもできない。ファユは、逃げ出したくなるのを必死にこらえた。身分の低いただの従者に、気まぐれで声をかけただけ。すぐに立ち去ってくださる。そのファユの予想は大きくはずれた。信じられないことに、王がすぐ前にしゃがんで手を取ったのだ。
「よ、よ、よよ汚れております。どどっ、どうかお放しください、陛下」
思わず顔を上げると、同じ人間とは思えないほど精緻に整った顔がこちらに向いていた。闇のように深い真黒の瞳が、じっと見ている。草木の葉がかすかに揺蕩うほどの弱風に、王の短い黒髪がそよぐ。
「余は、この傷を知っている」
「は、はい?」
「幼きころ、冬の寒い日に弓矢の稽古をさせられたおり、弓で弾いてこのような傷ができた」
ファユの喉が大きく上下する。王の手が熱い。人の体温とは思えないほど熱く、皮膚が火に炙られているかのようだ。何よりも恐ろしいのは、赤い宝石のように輝く王の瞳。先ほどまで黒かったはずなのに――。
「どうだ。お前も同じ理由でこの傷を作ったのであろう」
「なな何の、こっ、こ事で、ございましょう」
冬だというのに、ファユの顎から汗が玉になって落ちる。あまりの恐ろしさにファユの気が遠くなったとき、ラディエがサリタカル国王を伴ってアユルを追いかけてきた。
「ここにおられたのですか。探しました」
行け、とアユルに命じられたファユが、荷を置き去りにしてその場を離れる。アユルはファユの容姿を記憶して、サリタカル国王の方を向いた。
「キリスヤーナとの銅の交易のことだが」
「はい、承知しております。陛下から正式な書簡をいただいておりますので」
「書簡の内容を書き換えたい。キリスヤーナ国王の要求よりたいぶ少ない量を定めたのだが、少し増やしてやろう」
「はて。もう書き換えられたのではございませんか?」
サリタカル国王の問に、アユルは首をかしげた。書簡を書き換えた記憶はない。そう答えると、サリタカル国王はアユルとラディエを執務室へ案内して二通の書簡を机に広げた。キリスヤーナで書いた署名のある書簡と覚えのない王印が押された書簡が並んでいる。
「王印は国に置いてきた」
「しかし、これは確かに陛下の」
「そうだな。筆跡が余のものだ」
押印のある書簡には、ハウエルは要求したとおりの銅の量が記載され、それを許可すると記されていた。夢でも見ているのか。まったく同じ筆跡の書簡がふたつ。アユルの横で、ラディエが青ざめている。
「陛下、早急に帰国を。大変なことが起こっているようです」
「そのようだな」
二、三日サリタカルでゆっくりしようと思っていたが、そんなことをしている場合ではないようだ。アユルは、昼過ぎにここを発つとサリタカル国王に伝えて部屋に戻った。
サリタカルを出るまで数日かかる。その移動の間に、アユルはサリタカルの国王にキリスヤーナで起きたことや銅の交易のことを話した。
「銅の交易は、素知らぬふりをして王印のある書簡のとおりに行え」
「かしこまりました。交易の記録は随時、陛下にご報告いたします」
カデュラスとの国境でサリタカル国王と別れ、それから六日後、カデュラス国王の一行がカナヤに到着した。
ダガラ城の朱塗りの門が、重たい音を響かせて王の帰還を知らせる。官吏たちが総出で出迎える中、アユルは皇極殿前の広場で馬をおりて石造りの階段をあがった。ふり返ると、遥か向こうを従者たちが荷車を押しながら歩いている。ダガラ城内は神の領域。アユルの他は、自らの足で歩いて皇極殿へたどり着かなくてはならない。臣の最高位にあるラディエも、そしてラシュリルも、この掟に例外はない。
雲一つない空から雨が落ちて来た。おかえりなさいませ、とカリナフが広げた傘をアユルに差し出す。
「余が留守の間、何事もなかったか?」
「はい、陛下。万事つつがなく、平和でございました」
すぐそばで、エフタルがじっと頭をさげている。カリナフの意味ありげな笑みに、アユルは黙って頷いた。そして、声をひそめる。
「ファユという従者をとらえて牢に入れておけ。決して傷つけたり殺したりしないように」
「御意に。陛下、この傘をお持ちください」
「よい。そなたが持って行け」
勢いを増した雨が、白い線を描いて地を叩きつける。キリスヤーナに比べれば暖かいが、冬の雨はやはり冷たい。アユルは足早に王宮を目指した。
タナシアは、皇極殿の廊下に座してアユルを見ていた。キリスヤーナで傷を負ったと聞いた。それも気がかりだけれど、何よりも夫から届いた手紙が嬉しかった。離れていても気遣ってくれていたのだと、胸が喜びでいっぱいになった。
父親におびえて夫を裏切るつらい日々がやっと終わる。これからは、陛下が守ってくださるわ。
「陛下」
タナシアに気付かないまま、アユルが皇極殿の中庭を通り過ぎて行く。
「陛下!」
タナシアの声に気付いたアユルが足を止める。
夫の静かな目が、雨粒の合間からこちらを見ている。再会に感情を湧き立たせる訳でもなく、ただ静かに佇んで雨に打たれる立ち姿は凛としてとても美しい。
タナシアが立ち上がって廊下の端に寄る。アユルはそれを尻目に、王宮に向かって再び歩き始めた。
間もなく、ラシュリルが広場に着く。このまま王宮に入れたいが、それはできない。王宮に暮らすのは、王とその妃、子、そして女官と決まっているからだ。
しばらくは、ラディエが人質の身柄を預かることになっている。これから皇極殿でラディエが貴族たちに事情を説明し、正式な手続きをふんでラシュリルは城下の屋敷に移る。
次にラシュリルが城に来るときまでに王妃との距離を縮めなくては。甘い果実を収穫するために。
玉砂利の音が、ここへ戻って来たのだと強く実感させる。光のない海で、波に飲まれてもがくだけの世界。だが、今はそれすら苦ではない。
王宮の門をくぐったアユルは、出迎えた女官長にひと言だけ告げた。
「今宵は華栄殿へ行く」
