第34話 心安らぐ場所

 口調こそ穏やかだけれど、明らかに言葉を遮られた。胸がどきどきと早鐘を打って、手が汗ばむ。大体、この広い部屋は何なのだろう。
 ラシュリルは心細くなって、肩をすくめて部屋を見回す。あるのは文机ひとつと照明だけで、他には何もない。本当に今日は、みんなどうしたというの?

「ラシュリル」

 自分かられた視線を呼び戻すかのように、アユルが名を呼んで「明日の朝、清寧殿から荷を届けさせる」と言った。つぶさに意味を理解できなかったラシュリルは、驚いた顔で視線をアユルに戻した。

「どういうことですか?」
「今宵は私と過ごし、そのままここへ居を移せ」
「居を移せって……。わたしがここに住むのですか?」
「そうだ。この部屋と次の間、その隣の部屋も好きに使ってよい」

 にこやかな笑みを浮かべて、アユルが流れるような所作でラシュリルの小袿こうちぎの衿をつかむ。そして、するりとそれを脱がせて、代わりに自分が着ていた黒い表着うわぎをラシュリルの肩にふわりと掛けた。そのわずかな風に、燭台の炎が「じじじ……」と濁った音を立てて揺れる。

 本当は、お兄さまとお義姉さまのように寄り添って日々を過ごしたい。けれど、異国での夫婦の形はとても複雑で、アユルさまの妻はひとりではなく、好きだとか愛しているという気持ちや言葉より政治的な価値が何よりも大事だという。

 ――どんなに愛していても、わたしではアユルさまの役には立たない。

 アユルさまに相応しいのは、王妃さまのような人。これから先、そういう人が妃として王宮に来るかもしれない。
 わたしは、アユルさまを信じている。だから、アユルさまを悲しませるようなことはしたくないし、我慢もする。アユルさまのことが何よりも大切だもの。
 それなのにわたしは今、アユルさまの立場よりも自分のことを考えている。愛されて、身に余る幸福の中にいるのに、ひとつ屋根の下いつも一緒にいられるって心の底から喜んでいる。

「どうした、不満か? ならば、気に入る部屋を選べ。書斎以外ならどこでも」
「いいえ、アユルさま。夢みたいで……」
「夢ではないぞ」

 アユルの指が、ラシュリルの頬を軽くつねる。不意をつくアユルの行動に、ラシュリルは気が抜けたように笑った。

「いいのでしょうか、わたしが清殿に住んでも」
「よいから居を移せと言っている」
「王妃さまは……、王妃さまはこの事をご存知で、お許しになられたのですか?」
「なぜ王妃の許しがいる」
「だって、王宮を取り仕切っていらっしゃるのは王妃さま……」
「知っていようがいまいが、王妃には関係のないことだ」

 先ほどつねったラシュリルの頬を指先でなでながら、アユルが「私の言う通りに」と付け加える。ラシュリルは、肩に掛けられた表着に袖を通してこくりと小さく頷いた。すると、アユルが満足そうに笑みながら、視線をちらりと横に向けた。

「腹が減ったな。焼き菓子は明日いただくとして、ひとまず夕食にしよう」
「はい」
「その前に聞きたいのだが、その菊の花は華栄殿で出されたのか? 私と会ったときは持っていなかったと思うが」

 ラシュリルはどきりとした。笑みの消えた真顔に射抜くような目。初めて会ったときと同じように威圧すら感じて身がすくむ。声の響きには、明らかな疑いが含まれている。
 迂闊だった。どうして、菊花茶のことをアユルに聞こうと思ったのか。華栄殿に置いてくるべきだったと、ラシュリルは後悔した。言葉に詰まっていると、矢継ぎ早に次の質問が飛んできた。

「飲めと言われたのか?」
「ち、違います。王妃さまの好きな飲み物を用意してほしいと頼んだらこれが……」
「飲んではいないのだな?」
「はい」

 そうか、と言ってアユルがコルダを呼ぶ。アユルはそばに来たコルダに食事を用意するように命じたあと、ラシュリルが着ていた小袿を手渡した。

「清寧殿からラシュリルの衣を取って来い。それから、これは今宵のうちに焼き捨てておけ」
「かしこまりました。ところでアユル様、カリナフ様がお会いしたいと申されているようで、少し前に皇極殿より使いの者が参りました。火急の用でなければ明日にしていただきましょうか」
「そうしてくれ。明日の朝議前に書斎へ来るよう伝えろ」
「わかりました。では、すぐに膳と貴妃様の衣をお持ちいたします」

 コルダが小袿を手に立ち上がる。そろそろとコルダが一歩進むたびに、薄桃色と白が重ねられた小袿が正絹のなめらかな光沢を伴って、蝶の羽ばたきのようにひらりひらりと翻る。その儚げで寂しい光景に、タナシアの顔が脳裏をよぎった。

「アユルさま、あの服は王妃さまからいただいたものです」
「知っている」

 だから処分するのだと、アユルが言う。その表情と声は冷ややかで、いつもの優しくあたたかな雰囲気の片鱗もない。まるで、これ以上の追求は許さぬと言われているようだった。
 コルダの言葉通り、すぐにカリンが清寧殿から小袿を取って来た。それからコルダとカリンが、手際よくふたつの膳を並べた。ふたりは隣の部屋で控えていると言って、コルダが菊花の入った器を、カリンが焼き菓子が盛られた器を持ってしずしずと出て行った。

 カデュラスの食事は、彩りが美しくて味も上々だ。特に王宮の食事は格別で、貴人たちでも口にできないような高価な食材がふんだんに使われているそうだ。それを裏付けるように、一緒に食事をするとき、いつもカリンが目を輝かせて頬を緩めている。
 ラシュリルは目の前の膳を見て、ほうっとため息をついた。いつもの膳よりも皿数は多いし、そのひとつひとつに細工の凝った鮮やかな色の料理が乗っている。普段の食事よりもずっと豪華だ。

「王宮の料理を作る人は、手先も器用なのですね。料理というより芸術品だわ」
「私が口にするものは、すべてコルダが作る」
「コルダさんが?」
「驚いたか」
「とっても。コルダさんって何でもできて、魔法使いみたい」
「妖術使いの間違いだろう」
「ご冗談を。コルダさんは、アユルさまのことを想って丹精込めて作るのでしょうね。一生懸命な姿が目に浮かびます」

 腕をまくって真剣に料理に勤しむコルダを想像して、ラシュリルの顔が花のほころぶような笑顔になる。アユルは、それが嬉しくてたまらなかった。自分と同じように、ラシュリルもコルダを大切に思っているのだと伝わってくるからだ。

「今日は私だけではなく、そなたにも真心を尽くしたはずだ。だから、嫌いな物が入っていても残さずに食べてやれ」

 もちろんです、と意気込んで箸を持つラシュリルにアユルが微笑みかける。いつもの優しい顔。安心したら、急に食欲がわいてきた。ラシュリルは、根菜の煮物を口に入れて「美味しい」と幸せそうに言った。

***

 仄暗くてかび臭い牢獄を照らす松明たいまつのもとで、カリナフはエフタルを見おろした。
 両手両足を粗末な木椅子に縛りつけられたエフタルの見るも無惨な姿に、カリナフの目が細くなる。

「おのれ……」
「口のきき方にご注意なされませ、エフタル様。あなたは身分を失った上に、これから烙印を押されて罪人に落ちる身。己の命を他に握られて、家畜にも劣る存在になるのです。次にそのような言葉を私に向けたときは容赦いたしませぬ」
「だっ、黙れ……っ、生意気な青二才めが!」

 エフタルがぎりっと奥歯を噛んだ瞬間、左の頬に骨がきしむほど強い衝撃を受けた。カリナフの固いこぶしが、渾身の力で頬を張ったのだ。

「きっ、貴様……っ」
「容赦しないと言いました」
「……まさか、未だに根に持っているのか!」

 声を荒らげるエフタルを尻目に、カリナフは火桶から焼きごてを取る。そして、そばにいた武官に猿轡さるぐつわをかませるよう命じた。
 生まれたときから、かしずかれてきた人だ。今さら態度を改めろと言っても梨のつぶてか、と小馬鹿にしたような冷めた目をエフタルに向ける。

「どうして忘れることができましょう。あの日から、私はあなたに失脚していただくことだけを考えてきました。ですが、私が手を貸すまでもなかった。あなたは自ら地獄に落ちてくださいましたからね」
「やっ……、やめろ、カリナフ!」
「烙印を賜った者の行く末に怖気づいたのですか? 誇り高き四家の当代でありながら、あなたは陛下に二心を抱きました。許されざることをなさったのですから、相応の覚悟をなさいませ」

 カリナフがあごをしゃくると、武官がふたりがかりでエフタルの口に猿轡をかませた。身動きの取れない体で必死の抵抗を試みるエフタルの腕に、カリナフがたぎった焼きごてを押し当てる。エフタルは目を上転させて、聞くに堪えない獣のような声を上げながら呆気なく気を失った。

「他愛のない」

 四家のひとつティムル家の嫡男に生まれ、叔母は王妃という恵まれた身の上。成人の儀は皇極殿で執り行われて、文武百官の前で王直々に加冠賜った。まるで国事のように盛大な儀式だった。だから、自分は思いを寄せる佳人に相応しい身分なのだと信じて疑わなかった。疑う余地がなかったのだ。
 しかし、婚姻の申し入れにアフラム邸を訪ねたとき、神の系譜にあらざる身でいい気になりおってと冷笑された。挙句、娘は神の隣に立ってこそ至高の幸せを手に入れるのだと、平伏した体を何度も足で蹴られた。

 皮膚が焼ける独特な臭いに顔をしかめて、カリナフは焼きごてをエフタルから離して火桶に放り込む。そして、武官にエフタルを地下牢に入れるよう命じた。
 エフタルが、失神したまま武官に両脇を抱えられて地下牢へ連行されていく。

「待て」

 カリナフは武官を呼び止めて、エフタルの腰にさがった梔子くちなしの玉牌を奪うように引きちぎった。
 至高の幸せを手に入れると言ったから身を引いたのだ。それなのに、何だこの様は。腹の底から湧き上がる怒りをこらえるように、カリナフはエフタルの玉牌を握った手を震わせる。

 楽に死ねると思わないでください、エフタル様。あなたは、私欲を満たすためにタナシアを不幸にした。私はもう、あなたに鼻で笑われ足蹴にされた十六の未熟な餓鬼ではない。

「連れて行け。決して目を離すな。自害などさせてはならぬ」

 ふたりの武官は「御意」と声を揃えて、エフタルを地下牢へ引きずって行った。カリナフは牢を出て空を見上げた。ちりばめられた星を従えて悠然と輝く月に、初夏の気配が近付いて来ていることを悟る。
 陛下はあまねく大陸を照らす月、我々はそれに群がる小さな星。カデュラ家は今までもこれからも、未来永劫、最も尊き神の系譜として崇められなければならない。陛下こそが、泰平の世の礎なのだから。

「遅くまで大義だな、カリナフ」

 今日はラディエも遅くまで後始末に追われていたらしい。カリナフは、ゆっくりとふり返って声の主に会釈した。

「宰相様こそ、難儀な一日でございましたね」
「いやはや、ここのところ気の休まるときがない」
「お察し申し上げます。ところで、私と夜歩きをしたくてこちらに?」
「馬鹿を言うな。陛下の侍従から言伝を預かったのだ。今宵は目通り叶わぬので、明日の朝早く清殿に参られよと」
「かしこまりました。では、明朝寝過ごさぬように今宵は真っ直ぐ家に戻ります」
「色男め、ふらふらと遊んでいないで早く身を固めたらどうだ。父君も気が気ではあるまい」
「ご心配なさらずとも、時機が巡って来ましたら襟を正して良き妻を迎えますよ」
「まったく、困った奴だ。それはそうと、二日後にキリスヤーナ国王が登城する。抜かりなきよう用意しておけ」

 はい、とカリナフが歩み出す。カリナフはラディエのお節介で熱い説教を聞きながら、遥か遠くの朱門へ向かった。

***

「大きな月だわ」

 湯浴みを終えたラシュリルは、廊下に出て夜空を眺めた。
 アユルは食事のあと、政務があると言ってすぐにいなくなってしまったし、いつも一緒に眠っていたカリンは、ラシュリルの髪を乾かして荷造りのために清寧殿へ戻って行った。
 ちゃぷんと水音がして、高欄から下を覗くと月明かりに照らされた水面のすぐ下に魚影が見える。庭の向こうから廊下の真下まで広がる大きな池。じっと見ていると、魚影はもう一度ちゃぷんと水音を立てて深くに沈んで行った。

「そのように身を乗り出したら池に落ちてしまうぞ」

 魚に気を取られて気付かなかっただけかもしれないけれど、足音ひとつしなかったし気配も感じなかった。ラシュリルは驚いて振り返る。その瞬間、ふわりと体が浮いて懐かしい香りに包まれた。

「アユルさま、この匂いは……」
「コルダがこれを使えとうるさくてな」
「さすがだわ、コルダさん。アユルさま、ご存知ですか?」
「何を」
「あの石鹸にはジャスミンの香料と花の蜜が練り込まれているそうで、気分を落ち着かせる効果と肌が潤う効果があるのですって」
「道理で……。湯浴みのとき、コルダがしきりに私の背中を触っていた」
「効果を確かめていたのでしょうか」

 ラシュリルは、笑いながらアユルの腕の中で体を丸めた。横抱きにされた体がじんわりと暖かくなる。やっぱり、ここが一番居心地がいい。心安らぐ場所だ。
 アユルが部屋の敷居をまたぐ。わずかな照明に照らされた、寝具以外なにもない空っぽの部屋。明日からここが住処になる。
 体を真っ白な絹の褥におろされて、星が煌めく黒い瞳と視線が交わった。