第35話 任務

 頬にかかった髪を、アユルの指がすくう。ラシュリルは、その手に自分の手を重ねて頬を擦り寄せた。ほのかにジャスミンの香りのする手は、すべすべとした肌触りとごつごつと骨の感触がする不思議な手だ。この手がとても好き。触られると、ふわふわとした幸せな夢の中に導かれるようで、たまらく好き――。

「アユルさま……」
「どうした?」
「……あたたかい」

 アユルは、ラシュリルの仕草を黙って眺めた。
 一番遠い御殿に住まわせて、満足にそばにいてやれなかった。故郷を離れて知る者もなく、そのうえ奇異の目にさらされて心細いときもあっただろうに、泣き言ひとつ恨み言ひとつ言わず幸せそうに笑んでくれる。いつもそうだ。

 可憐なようで逞しく、奔放なようで我慢強い。感情豊かで純朴で、何もかもが身分や血筋の尊さなどを優に越えて敬服の念を抱かせる。
 雨上がりに雲間からさす陽光のように心に差し込んで、一番深く美しい場所を照らし導いてくれる唯一無二の光。私もそうでありたい。守り抜いて、笑顔を照らす唯一無になりたい。

「あたたかいのは私ではなく、あなたの方だ」

 何に驚いたのか、ラシュリルが動きを止めて目を大きくした。そのころころと変わる表情が可愛らしくて可笑しくて、真剣に思いを伝えたいのについ顔が緩んでしまう。

「好きだ、ラシュリル」

 嬉しいと頬を染めながらはにかんで、気恥ずかしそうに顔を背けようとするラシュリルの小さな顎をつかまえて口付けを落とす。息継ぎに開いた唇から舌を挿し込んで――。それだけで理性はすぐに失われ、体の一点が熱くなって脈打ち始める。

「……ふ、んっ」

 ラシュリルが息を乱し始めると、アユルは体を少し起こしてラシュリルの夜着の腰紐を解いた。
 あらわになったのは、キリスヤーナで見た積雪のように白く、しかし日溜まりのように心地よい熱を帯た肌。唇で鎖骨をなぞって首筋に顔を埋めれば、繊麗な体がぴくんと強張って心音が騒がしくなる。もう何度も肌を合わせているのに、示す反応は少しも変わらない。初々しくて無垢で、その愛おしさに狂おしいほどの愛情が湧き上がる。

「これからはずっと一緒だ。ずっと……」

 首の薄肌を強く吸われて、ラシュリルは甘い吐息と共に小さく喘いだ。
 ずっと一緒……。その言葉にひとつ気付かされる。これまでは、一緒に過ごす時間の他はアユルさまがどこで何をなさっているのか、知ることもなかったし気にも留めなかった。けれど、これからは違う。

 信じているのに、心が揺らいでしまうのはなぜ……。
 アユルさまが他の御殿で夜を明かすとき、わたしはここでひとり穏やかでいられるかしら。清殿を出て行くアユルさまを、気持ちよくお見送りできるのかしら。

 ――きっと、心細くて寂しくて泣いてしまう。

 ああ、わたしは何て浅ましいの。これ以上ないほど慈しんで深く愛してくださっているのに、大切な人を困らせる感情に胸を埋めつくされて、それでも尚、愛し愛される喜びを得ようとしている。

「だ、めっ……」

 アユルが、胸から腹へ順に赤い痕をつけながら閉じた太腿を撫でる。ごつごつとした手は、じらすように肌の上を迷走して、淡くさらりと生えた繊毛の奥をとらえた。
 張りのある胸の中心を唇と舌で愛撫しながら、秘裂を二本の指で押し開いて花芯を指先で捏ねる。しっとりとそこが湿り気を帯びて、太腿から自然と力が抜けていく。

 アユルは自身の夜着をくつろげると、白い太腿の間に体を滑り込ませた。はすでに硬起している。早く繋がりたい欲望をぐっと抑えて、ラシュリルに覆いかぶさる。体よりも心を満たし満たされたかった。
 しかし、頬に口付けようとしてアユルは困惑した。笑っていたはずのラシュリルが、泣いていたのだ。
 痛いことをしてしまっただろうか。それとも、無理強いしてしまっていたのだろうか。かける言葉を探しながら、恐る恐るラシュリルの顔に触れる。

「私が悲しませているのだな?」
「悲しいのではないの……。ごめんなさい」
「悲しくもないのに涙をこぼして非もなしに謝る理由は何だ」

 ラシュリルは、しばらく困ったような顔をして答えなかった。理由を知りたいと、アユルが穏やかに言う。するとラシュリルが、声を震わせて言葉につまりながら答えた。

「アユルさま……。どこにも……、どこにも行かないで」

 おかしな事を言うのだなと言いかけて、アユルははっとする。ラシュリルは王妃のことを知らない。そのことをすっかり失念していた。
 ああ、そういう意味か。ラシュリルの目尻から流れた涙を人差し指の先で拭うアユルの顔が、嬉しさにほころぶ。

「わかった。どこにも行かないと約束する」
「……アユルさまは、いつもわたしに優し過ぎます。たまには叱ってください。わたしは、身の程知らずな自分が情けなくて恥ずかしくて……」

 顔を両手で覆って、ラシュリルがしどろもどろになる。
 アユルは体を起こして、屹立した先端をぷっくりとしたラシュリルの花芯に押し当てた。円を描くように花芯を弄って、次は陰唇を割って上下させる。

 無論、すべてを許すわけではないが、とアユルはにんまりとした。
 ラシュリルの愛を疑ったことは一度もない。しかし、素直なままでいてほしいと思いながら、もっと貪欲になってほしいと相反することを望んでいた。ずっと、その言葉を待っていた。

「愛している。愛している、ラシュリル」
「アユルさま、わたしも……っ、んっ!」
「私を他の者に譲るな。私はそなたがいい。もう、片時も離れたくない」
 
 硬く漲る先端が、秘裂を割って押し入ってくる。そこは、くちゅといやらしい音を立てながらアユルを奥に誘った。

「……あ、んんっ」

 一度口付けを落とし、アユルがもどかしそうに眉根を寄せてゆっくりと動き始める。まだ十分に潤っていなかった中は、隙間なくぴたりと密着した蜜襞と熱塊が擦れる度に蕩けて、すぐに摩擦が小さくなった。
 首をのけ反らせて苦悶の表情を浮かべるラシュリルを眺めながら、アユルが動きを早める。押し寄せる快楽を逃そうと、脱ぎ捨てられた夜着を握るラシュリルの手に指を絡ませて、アユルは奥を突き上げた。

***

 淡い朝焼けに染まるカナヤの大路を、カリナフは数名の供を連れ立って歩いた。早朝の、まだ眠りについているカナヤに鳥の囀りが心地よく響く。今日は輿ではなく、かちで行きたい気分だった。
 ダガラ城の朱門で供と別れ、ひとり白い石畳を踏みしめる。真っ先に目指すのは、皇極殿でも王宮でもない。彼の人が捕らえられている牢だ。

 長い距離を歩いて牢に着いたカリナフは、牢番から鍵を受け取った。ついて来ようとする牢番に持ち場を離れるなと命じて、足早に独房へ向かう。
 独房の前に、昨夜出されたと思しき食事が手付かずのまま置かれていた。

「タナシア」

 カリナフが呼ぶと、奥で人影がごそっと動いた。起きてはいるようだが、返事はない。
 近いうちに、タナシアもエフタルと同じように烙印を賜る。いや、とカリナフは重いため息をついて頭を振る。食事も摂らない有様では、烙印を賜るより先に命が尽きてしまう。

「君は、陛下に背いた罪を償わなくてはならない。死を選ぶ自由はないのだ。食事を用意させるゆえ、きちんと食せ。朝議が終わったら確かめに来る」

 はい、と弱く細い声がした。カリナフは牢番に鍵を戻すと、独房の食事を新しいものと替えるように申しつけて皇極殿へ急いだ。
 皇極殿の女官に取り次ぎを命じて、どれくらい待っただろうか。随分と経ってから侍従が皇極殿にやって来た。

「お待たせして申し訳ございません、カリナフ様」
「陛下はお目覚めか?」
「はい。どうぞ、こちらへ」

 外廷と王宮は、一本の架け橋のような廊下で繋がっている。王とその妃たちが暮らす特別な場所。おいそれと気安く立ち入れる所ではない。
 カリナフは、コルダの後ろを歩きながら扇を広げる。昔、叔母が絵巻に描かれる天界のように高貴で美しい所なのだと言った。叔母の言葉に間違いはない。ここから見渡す景色は、異世界に迷いこんでしまったのかと錯覚してしまうほど、神が棲むに相応しい威厳と常春の華やかさに満ちている。

「陛下は昨夜、心穏やかにお休みになられたであろうか」
「ご安心くださいませ、カリナフ様。よくお休みになられたご様子でした」
「それはよかった。立て続けに様々なことがあって、御心を痛めておられぬかと案じていた」

 清殿に入ってそのまま侍従のあとをついて行くと、辿り着いたのはいつもの書斎ではなく広間だった。廊下から池に向かって鯉の餌を投げるアユルのそばに腰をおろして、カリナフが「陛下」と深く一礼する。

「堅苦しい挨拶はよい。エフタルは口を割ったか?」

 カリナフは、牢でのエフタルの様子を報告した。それから、タナシアが食事に手を付けていなかったことをつけ加える。
 アユルが、顔色ひとつ変えずに「そうか」とだけ言った。実に素っ気ない返事だった。カリナフは無意識に小さく息を吐く。そして、ふと部屋の中に視線を向けて一瞬だけ息を止めた。

「貴妃様……?」

 そこには、深い群青色の小袿をまとったキリスヤーナの王女がちょこんと座していた。向こうも驚いているようで、目を丸くして顔を強張らせている。

「挨拶が遅れてしまい申し訳ございませぬ。ご無礼つかまつりました、貴妃様」

 カリナフが、体をラシュリルに向けて丁寧に礼をとる。ラシュリルもそれに応えるように床に手をついて頭をさげた。ラシュリルが元の姿勢に戻ると、カリナフは再びアユルに向き直った。

「陛下、折り入ってお話ししたきことがございます」
「何だ」
「人払いを」
「わかった」

 餌をひと掴み池に投げて、アユルはラシュリルとコルダに隣の部屋で待つように命じた。ふたりが部屋を出て行き、静かに部屋の戸が閉まると同時にカリナフが廊下の床に額をつけた。

「先に申し上げておきます。私は、陛下に揺るがぬ忠誠をお誓いしております」
「知っている」
「先立って願い申し出ておりましたこと、どうかお許しください」

 アユルは、叩頭するカリナフを見下ろした。
 血の繋がりを無視しても、カリナフが信頼できる有能な臣であることは重々承知している。だが、カリナフの願いを叶えてやるということは、目を瞑るということ。そして、もしもそのことが世に知れれば、王としての権威は完全に失墜し、元の木阿弥どころか事態は最も悲惨な未来に向かって突き進んでしまう。

「お許しいただけるのでしたら、私は官職を退いて陽の当たらぬ所に身を潜めます。決して、陛下に害が及ぶような真似はいたしませぬ」
「そなたが官職を退くことこそ、余への裏切りではないか?」
「そのようなつもりで申し上げたのではございません。曲解なきよう」
「確か、タナン公国との国境にアフラム家の所領があったな。そなた、その土地を直轄しろ」
「……は」

 タナン公国との境は、初代カデュラス国王が地に降りたとされる神聖な場所だ。それを管轄する任をアフラム家が代々担ってきた。古くから関所が置かれて交易の要として栄えてはいるが、カナヤから遠く離れた辺境の地であることに変わりはない。アフラムの当代に任命された官吏が赴任して治めるのが通例だが、陛下は今、直轄せよと仰った。

「どうした、カリナフ。余に揺るがぬ忠誠を誓っていると言ったではないか。私情にとらわれて、余が与える任務を拒むつもりか?」

 淡々とした声に、カリナフは顔を上げてアユルを仰ぐ。胸を突き刺すような冷たい視線と表情。いつも皇極殿で見る王の顔だ。

「よもや、従兄弟だからと容易く許すとでも思っていたのか?」
「……いいえ、そのようなことは」
「余は禍根を残したくない。それが、そなたの願いに対する答えだ」
「御意に」
「一連の目途が立ったら、速やかに任地へ赴け」
「かしこまりました。謹んで拝命賜りまする」

 隣の部屋では、ラシュリルが胸をおさえて座り込んでいた。
 どういうことなの? エフタルさまと王妃さまが牢に……?
 昨日、のうのうと焼き菓子なんかを作っていた間に、王宮ではとんでもないことが起きていた。
 戻って来なかった王妃さまと焼き捨てられた衣。詳しいことはわからないけれど、とにかく王妃さまの身に何かがあったのだとラシュリルは膝を抱えて身を小さくする。

 カリナフがアユルの御前を辞すると、カリンを先頭に女官たちが荷を抱えてぞろぞろとやって来た。殺風景だった部屋は、女性らしい色合いの帷子かたびらが掛けられた几帳や新しい調度品などが置かれて華麗なる変身を遂げた。引っ越しは昼過ぎまでかかり、最後にコルダに抱えられた雄鶏が庭に放たれた。
 朝議を終えて戻って来たアユルに、ラシュリルが雄鶏について説明を求められたことは言うまでもない。

 そして予定より三日遅れて、キリスヤーナ国王ハウエル・ナダエ・キリスが、妃とラシュリルの生母であるラウナと侍女ナヤタを連れてダガラ城の朱門をくぐった。