第36話 禍根

 身支度を終えたアユルは、部屋を出ようとしてふと立ち止まった。後ろを歩いていたコルダが、アユルの次の行動を予測して、視界を妨げないように軽やかな身のこなしでささっと横へ退ける。

 ラシュリルが清殿の奥室に居を移してから、アユルは書斎で仕事をするとき以外、食事をする時もくつろぐ時も眠る時も奥室で過ごしていた。これでは貴妃様の気が休まる時が無いのでは……と案じたコルダが、それとなくアユルに進言してみたもののどこ吹く風でまったく聞く耳を持たない。

 とは言え、ひとりの妃と四六時中を共にして、妃の元から朝議に行くというのはアユルの見聞や経験の中には無いことだ。ましてや、ラシュリルは異国で育った者。時に、アユルは戸惑ってしまうことがある。毎朝の日課がまさにそうだった。

「行ってらっしゃい、アユルさま」

 鈴を転がすような声に振り返ると、奥でラシュリルがにっこりと笑って小さく手を振っている。
 王を見送るとき、誰しも黙って平伏するのが礼儀だ。だから、初めて「行ってらっしゃい」と言われた時はどう応えて良いものか分からず「ああ」とぶっきらぼうな返事をしてしまって、皇極殿に着くまで粘着質なコルダの小言を背中に浴びる羽目になった。

「い……、行ってくる」

 アユルはぎこちない笑みを返し、少し降ろされた御簾をくぐって扉の方へ足を向けた。廊下を歩きながら、背後でコルダが笑いを噛み殺しているのを察知して気恥ずかしさに拍車が掛かる。

「コルダ、いい加減にしろ」
「申し訳ございません。アユル様があまりにもらしくございませんもので」
「優しくにこやかに返事をしろと、散々、私に説教を垂れたのはお前だろう」
「それはそうでございますが。難しいのでしたら、貴妃様にあのようなご挨拶はお控えいただくよう申し上げます。やはり、王宮での礼儀作法は守るべき……」
「いや、よい」
「はい?」
「……嫌ではないから、ラシュリルを咎めるような事はするな」

 コルダはアユルの耳朶みみたぶが赤く染まっていることに気付いて、嬉しそうに「かしこまりました」と言った。
 ふたりが清殿を出ると時を同じくして、外廷の方から朝議の刻を知らせる太鼓の低い音が聞こえてきた。途端に、アユルの顔からはにかむような笑みがすっと消えた。

 いよいよキリスヤーナ国王の尋問が始まる。
 アユルは左胸の下辺りを右手でおさえて、硬い鉱石の感触を確かめた。懐に忍ばせているのは、今朝ラシュリルから借りたアイルタユナの玉牌だ。

「コルダ」

 歩みを止めて、アユルはゆっくりと身をひるがえす。コルダが、わずかに驚いた顔で「はい」と返事をした。
 いつか、コルダに身分を与えて王宮から出してやりたい。過去に縛られずにコルダの人生みちを生きてほしいと思っている。だが、自分に誰の血が流れているのかを知ったならどうするだろうか。きっとコルダの事だから、自害して忠義を尽くそうとするのだろう。

「アユル様?」

 アユルにじっと見つめられて、コルダが小首をかしげる。
 アイルタユナは、数日におよぶ激しい拷問にひとり耐えた。手の骨は砕けて、愛おしい我が子の手を握り返すこともできなかった。
 今さら、過去に思いを馳せても詮無いこと。あれこれ考えても、時間を巻き戻すことはできないし、死んだ者は生き返らない。アイルタユナの罪は、もう十分にそそがれたはずだ。だから、事実はこの胸に死んでも秘めておく。大切なコルダのために――。

「いかがなさいましたか?」
「これからもよく務めろよ」
「は、はい。もちろんでございます、アユル様」

 突然どうなされたのだと、コルダが難しい顔で首をひねった。その顔がまた可笑しくて、アユルは声を立てて笑った。外廷から、また太鼓の音が聞こえてきた。

「アユル様、笑っている場合ではございません。急ぎましょう」
「私は牢へ行く」
「これからでございますか? もう朝議が始まっておりますよ」
「よい、私がいなくても有能な宰相がいるからな。お前は皇極殿へ行って、キリスヤーナ国王の尋問は任せると宰相に伝えて来い」

 コルダが礼をとって去っていく。アユルは少し遠回りをして牢へ向かった。
 太陽の光でつやつやと黒く輝く玉砂利を踏みしめて、ざくざくと心地よい耳障りの足音を聞きながら庭の景色を楽しむ。王宮の庭では、初夏の花々が美しさを競うように開花していた。

 牢に着くと、独房の近くにカリナフの姿があった。カリナフは、すぐにアユルに気付いて駆け寄ってきた。

「朝早くから大儀だな」
「恐れ多いお言葉、痛み入ります。おひとりでこちらに来られたのですか?」
「ああ。それよりもそなた、朝議に出なくてもよいのか?」
「宰相様がおられます。私がいなくとも問題はないかと」

 カリナフの言葉に、アユルは「確かにな」と苦笑する。カリナフには、エフタルとタナシアの取り調べに関する全権を委ねている。それでここにいるのだとアユルは察した。

「エフタルに話がある。奴はどこだ」
「地下牢に入れております。私がご一緒いたします」
「地下牢にも武官を配置しているのだろう?」
「はい、もちろんでございます」
「ならば案じることはない。そなたはタナシアの取り調べを進めろ」
「御意に」

 アユルは、地下へ続く狭い石階段をおりた。地下牢が近くなる毎に、じめじめとした気持ちの悪い湿り気が肌にまとわりついてくる。地下牢は四方を石壁に囲まれていて、暗く陰湿で、数日そこに入れられたら気が狂ってしまいそうな所だ。
 牢は、ふたりの大柄で屈強な武官に見張られていた。松明の光が届かない牢の奥から「ううぅ……」と不気味な唸り声が聞こえてくる。

「エフタルを余の前に跪かせろ」

 アユルは武官に命じると、牢の前に置かれた椅子にどっかりと腰掛けた。武官が、鍵を開けて牢の中に入る。ふたりはアユルの顔色をうかがって、うずくまる肉付きのいい体の両脇を抱えた。

「ううう……っ」

 焼けただれた左腕の激しい痛みとそこからの高熱におかされて、エフタルは夢とも現とも知れぬ心地を朦朧と彷徨っていた。ずりずりと体を引きずられながら、意識が夢を見るように過ぎ去りし日々を遡る。

 どうして、未練を捨てきれなかったのか。
 良き妻を得て愛らしい子にも恵まれたのに、幸福が心に根付くことはなく、怨恨だけがくすぶり続けた。幸せそうに赤子のタナシアを胸に抱く妻の顔を見ながら、全く別の女の面影を追っていた。

「目を開けぬか、無礼者!」

 石床の上に体を投げられ、顔や胸を打ちつけた衝撃でエフタルはようやく夢から覚めた。這いつくばるような格好で顔を上げて目を開く。すると、すぐ近くに武官とは違う別の気配があった。

 椅子に座ってじっとこちらを見ているようだが、高窓からさし込む一筋の陽光を背にしているせいで輪郭しか分からない。逆光のまぶしさにくらむ目を凝らして、エフタルは光の陰影が描く顔立ちに唇を小刻みに震わせた。

「……シャ、ロア」

 かすれた声に応えるように、人影がゆっくりと立ち上がって近付いて来る。しかし、距離が縮まる毎に幻は消え、よく見慣れた顔が視界の中ではっきりと像を結んだ。

「何事だ、エフタル」
「……へ、陛下」

 唖然とするエフタルに冷ややかな視線を向けて、アユルは武官に地下牢を出るように言った。そして、ふたりきりになると、かがんでエフタルを睨みつけた。

「余に向かって先の王妃の名を口走るなど、無礼にも程がある。死者の幻影でも見えたのか?」
「お許しを……」

 アユルはエフタルの視線を捕まえたまま、懐からラシュリルの玉牌を取り出した。それをエフタルの目の前にかざして、表情のわずかな変化をも見逃さないようにじっと見据える。
 ラシュリルの母親は、アイルタユナが王の妃であり、梔子の男がエフタルだとは知らない様子だった。だとすれば、真相を知るのはこの世でただひとり――。

「この玉牌に見覚えはあるか?」
「そ……、それは、陛下がご寵愛なさっておられる異民族の王女の物でございましょう」
「いいや、お前は知っているはずだ。本当の持ち主を」
「本当の持ち主? 何の事やら私には……」
「王の妃との密通は、一族郎党道連れの死罪だろう。それなのになぜ、お前は罪を免れてのうのうと生きている」
「……さぁて。そのような事、口になさらぬが陛下のためと心得まするが」
「言われなくともそうする。何も、過去を暴きたくてこのような話をしているのではない」
「聡い御方で心底安心いたした。どこで知ったのか見当もつかぬが、陛下の御代の安寧のためにも知らぬ振りをすべきだ。何があろうとも、王家と四家の名誉だけは守らねば」

 優位な立場を知らしめるように、エフタルがふんと鼻を鳴らして気味の悪い笑みを浮かべる。アユルは、エフタルの胸ぐらを掴んで力任せに引き寄せた。

「あの事を覚えているのなら何よりだ。よいか、余はアイルタユナとコルダのために口を閉ざすのだ。そのことを、ゆめゆめ忘れるな」
「ふ……、偉そうに」
「お前には、必ず死罪を言い渡す」
「初代王に賜った永世の身分を剥奪した挙句に、四家の当代を手打ちにするなど正気の沙汰ではない。ただで済むと思うでないぞ!」

 エフタルが声を荒らげる。しかし、返ってきたのは「そうか」と波のない静かなひと言だった。アユルの手が、エフタルの胸元から離れる。待て、とすがるエフタルの手を振り払って、アユルは地下牢をあとにした。
 その足で独房へ行くと、ちょうどカリナフが取り調べている最中だった。しばらく、外からその様子をうかがう。

『陛下、お願いがございます。王妃様をお捨てになられるのでしたら、どうか、どうか、私の元へおつかわしください』

 カリナフがそう言ったのは、タナシアを捕らえる前のことだった。聞いたときは耳を疑った。確かに、昔は妃を下賜するといったことがあったらしいが、正妃をそうした前例はない。何より、タナシアは禁忌を犯した罪人だ。

 ――私は、ラシュリルと添い遂げるために王妃を殺すと決心した。

 王家は、永い年月をかけて雨滴が少しずつ少しずつ岩を削るように権威を削がれてきた。妃の後ろ盾に守られて、臣下の言う通りに裁可の印を押すだけの飾りに過ぎず、神と崇められるにはあまりにも粗末な存在に成り果ててしまった。
 転がり込んできた好機を逃したくはない。王家に背いた咎人の血を絶ち、本来手元にあるべき権を必ず取り戻す。後々、禍根となるものは絶対に残さない。

 カリナフは実に淡々と、木椅子に縛られたタナシアを取り調べていた。タナシアが言葉に詰まると上を向かせ、包み隠さず話すように迫る。

「我々は臣として第一に陛下への忠誠を誓わなくてはならぬ。この期に及んでエフタル様をかばうような真似はするな、タナシア」

 拷問のような荒々しいことはしていないようだが、鬼気迫るカリナフの表情からはタナシアへの恋情など微塵も感じない。
 アユルは独房を離れて、牢獄の前の広場でカリナフを待った。昼が近くなって、空から強烈な陽差しが降り注ぐ。初夏ともなれば、灼熱の太陽がカデュラスの空に燃え始める。

 ――もうすぐ一年が経つのか。

 ぼんやりとそんなことを思って何気なく空を眺めれば、綿菓子のような白雲が気持ちよさそうに浮かんでいた。熱を孕んだ風が吹き抜けて、アユルの黒衣の裾がふわりと羽ばたく。
 陛下、と呼ばれてアユルは振り返る。一段落したのか、カリナフがこちらへ向かってきた。

「カリナフ」
「はい、陛下」
「父君はどのような容態だ」
「床に臥せたまま変わりございませぬ。緩やかに、最期の時が近付いているのでしょう」
「そうか……。憐れな」
「もったいないお言葉でございます」

 アユルが、庭を歩こうと言って歩み出す。カリナフは素直に「はい」と答えて、アユルの一歩後ろをついて行った。

「タナシアの取り調べが終わったら、速やかに報告しろ。余が直々にタナシアの首をねる」
「なりませぬ。陛下の御手を罪人の血で穢すなど」
「罪人だが王妃であった者だからな。下々の手で処されるのは王家の恥だ。そなたはタナシアの遺体を処分して、そのまま任地へ向かえ」

 後ろから聞こえていた玉砂利の音が止む。アユルも歩みを止めたが、振り返ることはしなかった。

「……陛下」
「そなたとこのように今生の別れを迎える日が来るとは、夢にも思わなかった」
「そばを離れる不忠をお許しください、陛下」
「余の心持ちが分かるのなら、全身全霊を捧げるつもりで任に当たれ。彼の地は、エフタルが私腹を肥やすために官位を売買し、不正が横行していると聞く。よく治めよ」

 カリナフが、なりふり構わず玉砂利の上に座して深く頭をさげる。必ず陛下のご温情に報いると叩頭したまま声を震わせるカリナフを残して、アユルは再び歩き出した。