第37話 雨のあと

 キリスヤーナ国王の尋問は数日に及んだ。文武百官の長たちがずらりと並んだ皇極殿で、ハウエルは真摯にそれに答えた。自らの企みを隠すために人質にした妹を取り返すため、時折、圧に耐えきれず泣きそうになりながら。
 そして、大方の尋問が終わって文武百官の長たちが皇極殿を去ったあと、ハウエルはラディエに呼ばれこう耳打ちされた。王女は陛下の妃になった、と。

 この数日、アユルは清殿を一歩も出ていない。アユルはカリナフと別れたあと、牢から皇極殿に向かう途中で急に胸をおさえて倒れてしまったのだ。さらに王家専属の侍医が、度重なる心労により心の臓が弱っていると言ったため大変な騒ぎとなった。

 キリスヤーナでの襲撃に始まり、様々なことがあった。追い打ちをかけるようにエフタル様と王妃様に裏切られて、陛下は御心をも病んでしまわれたのだ。官吏たちは、そう口々にアユルに同情を寄せてその身を案じていた。
 しかし、これは完全なアユルの策で、当の本人は清殿の奥室で悠々自適な生活を送っている。

 これ幸いとばかりに好きなだけ書物を読み、気の赴くままにラシュリルを連れて清殿の庭をそぞろ歩く。本当は清殿を出て王宮の庭に咲く花を見ながら散策したいのだが、仮病がばれては元も子もないのでそれはぐっと我慢した。とは言っても、清殿の庭も相当な広さがあって暇をつぶすのに特別な不便はない。

 夕刻には、ラディエが議事録を手に見舞いを兼ねて必ず外廷のことを報告に来る。アユルはそれに備えて、昼下がりになると夜着に表着うわぎを羽織っただけの姿になり、ひたいに紫色の病鉢巻を巻いて病人になるのだった。夜着の衿を乱れさせて、唇の赤みを消すためにラシュリルの白粉をはたく念の入れようだ。

「朝議にお出にならなくて、本当に宜しいのですか?」

 ラシュリルは、焼き菓子を頬張りながら真剣な眼差しで書物を読み耽っているアユルに尋ねた。伏籠ふせごの中に置かれた香炉から、柔らかな桂花の香りがふわっと立ちのぼる。「よい」と、アユルは書物を閉じてラシュリルの方へ体を向けた。そして、ラシュリルが手際よく伏籠に衣をかけるのを見てふっと柔らかな笑みをこぼした。

「慣れたものだな」
「そうですか? そう言っていただけると、カデュラスの人になれたようで嬉しいです」
「十分だ」

 アユルは上半身だけを少し捻って、文机に置かれた茶器に手を伸ばした。小皿から乾燥させた果実をひとつ茶杯に入れて湯を注ぐ。果実が湯の中でふやけると、熱いから気をつけろと添えてその茶杯をラシュリルに差し出した。

「ありがとうございます、アユルさま。ああ、いい香り。カデュラスの苺は、キリスヤーナのものより酸味があって美味しいんですよ」
「それは良きことだ」

 ふぅと苺茶の熱を冷ますように息を吹きかけて、ラシュリルが茶杯に口をつける。鼻腔を走り抜けるような甘く爽やかな苺の香りにラシュリルの顔が蕩けて、アユルもつられて無意識に頬が緩んでしまう。
 アユルは、ラシュリルが飲み終わるのを待って話を切り出した。

「初めて会ったときのことを覚えているか?」
「もちろんです」
「私を見て、おびえていたな」

 それは……、とラシュリルが、カナヤの森に迷い込む前に食事をした店で聞いた森に棲む魔物のことを説明する。

「アユルさまの目がその魔物と同じ赤い色をしていたから、てっきり……」
「私は魔物だと思われていた訳か」

 なるほど、とアユルは声を立てて笑った。すると、ラシュリルがアユルの顔を覗き込むように見て「でも、あれは見間違いだったみたいです」と言った。アユルは、雨が酷かったからなと、ラシュリルに合せるように答えて話を進める。

「王妃の父親が投獄されているのは知っているな?」
「はい。先日、カリナフさまがそう話しておられましたね」
「私たちが運命の出会いを果たしたころ、ハウエルはエフタルの側近と会っていたようだ。昨日、ラディエが持ってきた記録に書かれていた」

 アユルがさっきまで読んでいた書物を指さして、嫌な予感がラシュリルの胸をよぎる。

「銅の交易に便宜を図ってもらおうとしたらしい。私がハウエルの書簡を受け取ったのは即位したあとだから、その前にふたりは結託していたことになる」

 結託、とラシュリルは良くない響きを持った言葉を反芻はんすうすると、片手を胸元に当てて握りしめた。

「私が矢で射られたとき、ハウエルはラディエが仔細を調べあげる前に忠誠の証だと言ってそなたを人質に差し出した。このことを知られたくなかったのだろうと推察すると辻褄が合う」

 みるみるラシュリルの顔が強張って、茶杯を持つ手から力が抜けていく。アユルはラシュリルの手からそっと茶杯を取ると、机上の茶器のそばに静かに置いた。

「このような話をして悪いな」
「……いえ」
「私は身分を捨てるわけにもいかず、王でなくてはそなたを守れない。そのことを、そなたに分かってもらいたいのだ」

 アユルの真摯な眼差しに、ラシュリルは黙って頷いた。

「幸い実際の交易は私の命令通りに行われている。それに、我が国の高家の者が関わることだから、臣下たちもハウエルを厳しくは追求できない。だが、私がこれを看過すれば必ずわだかまりが生じる」
「アユルさまがおっしゃること……、よくわかります」
「私はそなたとの間にまつりごとを挟みたくない。そのことを皆に知らしめるために、ハウエルにはキリスヤーナ国王の位から退いてもらう」

 夕刻が近付いて、アユルはいつものようにいかにも病人らしい顔つきと格好をして奥室を出て行った。ラシュリルは西陽がさす廊下に佇んで、庭を闊歩する雄鶏を目で追った。
 雲母を含んだ庭の白砂が、濃い橙色の夕日を浴びてきらきらと輝いている。それがハウエルの笑顔と重なって、胸が締め付けられるように苦しい。

 ――お兄さま、どうして……。

 ラシュリルは、部屋に戻って伏籠に被せたままにしておいた衣を両手に抱える。尋問が終わったらハウエルたちと会わせてやるとアユルに言われて、その日のために用意していた衣だった。それを隣の部屋の衣桁に掛けて元の部屋に行くと、丁度アユルが帰ってきた。

「早かったですね。宰相さまは、もうお帰りになったのですか?」
「ああ。私の顔色があまりにも優れないものだから、長居などしては一大事に繋がりかねないと逃げるように出て行った」
「宰相さま……、お可哀そう。アユルさまのことが心配で仕方がないのでしょうね」
「そう言うな。こう見えても、私とて良心が痛んでいるのだぞ」

 ラシュリルが苦笑しながら、手を伸ばしてアユルの額に巻かれた紫色の布を解く。アユルは背丈を合せるように身を屈めると、ラシュリルの後頭部に手を添えて顔を近づけた。

「もう、アユルさま。白粉をはたき過ぎ……」
詔書しょうしょを書いてラディエに渡した。ハウエルはキリスヤーナへ帰国し次第、叔父のミジュティーに譲位することになる」
「……そう、叔父さまに」
「尋問は大方済んだそうだ。明日、ハウエルに会ってもよい。女官長に申しつけて、どこか適当な御殿に席を設けさせよう」

 いいえ、とラシュリルは解いた紫色の布で、アユルの唇にはたき込まれた白粉をぽんぽんと拭う。
 お兄さまとお義姉さま、お母さまにナヤタ。皆に会いたい。話したいことが山ほどあるし、わたしのことは心配いらないって伝えたい。けれど、それはアユルさまのために良くない気がする。

「どうした、楽しみにしていたではないか」
「いざ会うと思うと、何だか恥ずかしくて。ほら、わたしのようなお転婆がカデュラス国王陛下のお妃になっただなんて皆信じられないでしょうし、驚いて腰を抜かしてしまうかも……。その代わりに、たくさんお手紙を書きます。だからお気遣いなさらないで、アユルさま」

 アユルは、にこっと笑うラシュリルの額に自分のそれをくっつけて「相変わらず嘘が下手だな」と言った。

***

 ラディエに牢のふたりについての報告を終えて皇極殿を出たカリナフは、ひとり牢へと向かった。
 地下牢にいるエフタルは、時々気が狂ったかのように大声で叫ぶようになった。かと思えば、牢の隅で縮こまってぶつぶつと壁に向かって何かを喋っている。身分も財も奪われて、ついに人としての尊厳すら失おうとしていた。

 丁度、牢番の武官たちの交代の時間だったようで、宿直の若い武官がカリナフに深く頭をさげた。カリナフは、武官が持っていた鍵と膳を受け取って独房へ急ぐ。
 独房の奥には、タナシアが糸の切れた人形のように呆然と座っていた。カリナフは武官をさげると、膳を持って独房に入った。そして、タナシアと向かい合うように、藁が敷かれた地べたに腰をおろす。

「夕食を持ってきた」
「……ありがとうございます」

 カリナフは、匙で粥をすくってタナシアの口元に運んだ。タナシアが、ひび割れた唇を少し開いて匙を啜る。

「君の取り調べは終わった。あとは、陛下が処罰をお決めになる」
「……はい」
「この不味い食事を口にするのもあと少しの辛抱だ」
「……はい、覚悟しております」

 タナシアの口の端から、粥がつつとこぼれ落ちる。カリナフは匙を置いて懐紙を取り出すと、丁寧にそれを拭き取ってやった。そして、また匙を持って、タナシアの口に食事を運ぶ。数日の断食がたたって、タナシアは壁に体を預けて座るのがやっとの状態だった。

 痛々しいその姿に、カリナフは小さなため息を吐く。
 タナシアが身にまとっているのは、今まで袖を通したことなどないであろう粗末な麻織りの単衣一枚。罪人には、体を清めることすら許されない。高家の令嬢であった名残りすら、今のタナシアにはなかった。
 華やかな輝きを失ってしまった虚ろな目は、カリナフではなく、どこか遠くを向いている。

「外に出たいのか?」
「……いいえ、雨の音がするものですから」

 今日は良い天気だが、とカリナフはタナシアの視線の先を見る。牢の格子の向こうには、落ちかけた夏の西日が差していた。

***

 どこからともなく、甘い香りが流れてくる。アユルは、日毎に強くなるその香りに顔をしかめた。華栄殿の南殿に植えられた梔子が開花し始めたのだ。
 なぜ、母上は梔子を育てたのだろうか。今となっては、理由を知る術もない。しかし、地下牢でエフタルにシャロアと呼ばれたことが、アユルの頭の隅に気持ちの悪い記憶となってこびりついている。
 父上が崩御した夜も、梔子がむせ返るように香っていた。梔子はエフタルの玉牌に彫られた花だ。まるで、王宮をエフタルに支配されているようで不快な気分になる。

「アユルさま」

 湯浴みを終えたラシュリルが、隣に腰をおろす。
 池を臨む釣り殿で、ふたりはささやかな夜風に吹かれた。そこからは、満天の星空がよく見える。ラシュリルが、それを見上げて「きれい」と目を輝かせた。

「本当に、ハウエルと会わなくてもよいのか?」
「はい」
「そうか」
「あの、アユルさま。ずっと気になっていたのですが、どうして病気のふりをしているのですか?」
「エフタルと王妃の件で、私が意気消沈しきっていると臣下たちに思い込ませるためだ。そうしなければ、新しい王妃を迎えろと言われるからな」
「……新しい王妃さま」
「心配しなくてもよい」

 アユルは、ラシュリルの肩に手を回して抱き寄せた。寄りかかる重みが、とてつもなく愛おしい。
 さて、とアユルは空を見上げる。ラシュリルの言う通り、得も言われない美しい星空が果てしなく広がっていた。