
早朝、アユルは隣で寝息を立てるラシュリルを起こさないようにそっと御帳台を出た。「う、ん……」と身じろぐ声が聞こえたが、構わず奥室をあとにして書斎へ向かう。書斎では、コルダが身支度の道具を揃えて待っていた。
「アユル様、おはようございます」
「早いな」
アユルが御座に上がると同時に、コルダが「どうぞ」と白湯の入った茶杯を机上に置く。アユルは文机の前に座ってそれを飲むと、まじまじとコルダを見つめた。
「いかがなさいました?」
「清殿にも女官を置こうと思う」
「あれほど嫌がっておられましたのに……。何か至らぬことがございましたでしょうか」
「そうではない、お前はよくやっている。ラシュリルもいることだし、お前と宰相の娘だけでは不便だろう。女官長に適任の者を選ぶよう申しつけておけ」
「は、はい」
「紙を」
慣れた手つきでコルダが紙を広げて墨を磨る。アユルは、すらすらと筆を走らせてふたつの詔書を書いた。墨が乾くのを待って、文机の引き出しから出した王印を押す。
「朝食は奥室にご用意いたしますね」
「いや、今日はここでよい。ラシュリルにもそのように伝えてくれ」
「……はい」
「別に、ラシュリルと諍いをした訳ではない。今日は、妃に現を抜かして呆けていられないからな。この書簡を用意したら支度を頼む」
ここ数日と違って、アユルの表情も声色もいつものようにすっかり冷静を取り戻している。コルダは、真顔で「かしこまりました」と返事をして詔書を紫檀の軸に巻くと、早速アユルの支度に取り掛かった。
アユルが皇極殿に着いたのは、定刻よりもたいぶ早い時間だった。官吏たちの姿もまばらだ。アユルは皇極殿の本殿ではなく、その隣にある書院にラディエを呼んだ。ラディエは、昨日とうって変わって別人のように清々しい顔をしたアユルを見て面食らった。
「陛下、もうお体の具合はよろしいのですか?」
「この通り大事ない」
「ようございました。昨日などはお顔の色が真っ青で、気が気ではございませんでした」
「そうか。早速だが、今日の朝議でエフタルとタナシアの死罪を言い渡す。もちろん、ふたりだけではなくアフラム一族をこれに準ずることとする。ハウエルの処遇は昨日の詔書通りだ。それから……」
アユルに合図されたコルダが、ラディエに書簡をひとつ手渡す。ラディエは、それを広げて表情を曇らせた。
「この詔書は一体……。カリナフをタナンとの国境に赴任させるとは、どういうご了見ですか。カリナフはティムルの家督を継ぐ身ですぞ。辺境などへ行かせてはなりません」
「今後、エフタルのように権力を笠に着て我が物顔で好き勝手をする者が出ないよう、この機に不正に手を染める官吏を粛清する。彼の地は、まさにその巣窟であり膨大な富が動く交易の要地だからな。信頼できる者に治めさせる」
「陛下のおっしゃる道理はごもっともです。されど、カリナフは」
「余は、そなたの意見を聞きたくてここに呼んだのではない。そなたが手にしているのは勅旨だ」
「……は」
「宰相として、皆を余の命令に従わせろ。そなたが助言するのは、余が道を誤ったときだけで良い」
腹を決めたようなアユルの力強い眼差しに、ラディエは気圧されると同時に心を震わせる。
歴代の王たちは臣にあまりにも多くの権を与え過ぎて、自らそれを畏れなければならなかった。大樹の幹が中から腐るように、この国は官吏たちに蝕まれてきたのだ。
しかし、陛下は違う。王家と臣の一線を画して四家にすら容赦なく制裁を加え、寵愛しておられる王女の兄をも公平に処罰なされた。
そのうえ、道を誤ればそれを正せとは、なんと自信と信頼にあふれる言葉なのだろうか。荒削りだった刺々しさが、研磨されて鍛えられ、鋭さは増し靭やかになったような強さ。この御方にお仕えできる歓びを今、心の底から実感する。
「不服か?」
「滅相もない。陛下の御代をお支えする一助となれることの幸福を噛みしめているのです」
大袈裟な、とアユルが笑う。ラディエは、書簡を元のように巻いて懐にそれを差した。そして、上座に向かって叩頭し拝命の意を示した。
「星読みの師に吉日を占ってもらえ。即位してからろくなことがない。邪気を払う儀式と快気の宴を清殿で催すとしよう。盛大にな」
「御意に。すぐに手配いたします」
朝議の刻を告げる太鼓の音が響く。アユルは、ラディエを従えて本殿へ向かった。
この日、エフタルとタナシアを筆頭にアフラム一門死罪の勅命が発せられた。加えて、アユルに矢を放ったファユやエフタルの手足となっていた武官、ハウエルの使節になりすました者たちも同様に処されることとなった。
途中アユルは、王妃であったタナシアだけは王宮で直々に処するとの意向を示したが、予想に反してそれに対する異論は一切出なかった。
それもそのはず。見せしめのようなアユルの厳しい制裁に、官吏たちはいつになく緊張した面持ちでただただ身を竦めているしかなかったのだ。中には不正に加担した覚えでもあるのだろうか、玉汗を浮かべる武官文官も見受けられる始末だった。
それぞれの刑を執行する日が告げられて、朝議は日が沈んだころにようやく終わった。
「おかえりなさい、アユルさま」
奥室に戻ったアユルを、ラシュリルが出迎える。ラシュリルは何か良いことでもあったかのように、にこにこと上機嫌な様子だ。アユルは不思議に思って、何事かと尋ねた。
「今日のお昼過ぎに、女官長さんがこちらにお見えになりました。わたしと年が近い方をここの女官にしてくださるそうです」
「それで嬉しそうにしているのか」
「はい。カリンもわたしとふたりきりでは退屈でしょうし、皆さんと仲良くできたら楽しいのではないかと思って」
「良かったな」
ふたりが会話をしている間に、コルダが手際よくアユルの服を着替えさせる。ラシュリルは、アユルの身の回りのことに手を出さないと心に決めている。アユルに真心を尽くしているコルダの役目を奪うようなことはしたくはないからだ。
「そうだ、ラシュリル。近々、清殿で宴を開くことになった。都から王家直轄の工房の者を呼ぶから、女官と一緒に衣装などを選べ」
「持っているものではいけませんか? 今わたしが着ている服だって、とても高価なのでしょう?」
「いつものそなたも好ましいが、妃としての威厳というものが必要な時もある。私たちにとって重要な宴だ。華やかに着飾ってくれないか?」
「……はい。でも、似合うでしょうか」
「さぁ、見てみないことには分からないな。楽しみにしている」
数日のち、星読みの師が半月後が吉日だと告げた。
王宮では邪気を払う儀式と快気の宴の準備が始まって、女官たちが忙しなく勤しんでいる。王が主催するとなれば、王妃が取り仕切る歓春の宴とはまるで規模が違う。しかも、少ない日数で抜かりなく準備し終えなくてはならない。女官たちの気の入れようは凄まじかった。
そんな中、二十人ほどの女官が清殿付きとして選定されて清殿にやって来た。アユルは酷く迷惑そうだったが、ラシュリルは喜び勇んで彼女たちを歓迎してすぐに打ち解けた。
王宮の賑やかさとは反対に、外廷では刑の執行が淡々と行われていた。十日ほどをかけて罪人たちは順に首を刎ねられて、いよいよエフタルをはじめとするアフラム一族が刑場にずらりと並んだ。
アユルは刑場に赴いて、冷ややかな目でエフタルを見下ろした。地下牢に閉じ込められて、すっかり精神が衰弱したと聞いていたが、エフタルは殊の外しっかりと自我を保っている。
「……若造めが」
呻る獣のような声で言いながら、エフタルがアユルを睨む。隣からラディエがエフタルを咎めようとするのを制して、アユルはエフタルに冷笑を返した。
「余は、お前があの世でも万死の苦しみに喘ぐことを切に願っている」
「おのれ……。四家の身分を、アフラムの家門を軽んじた報いを受けるがいい」
エフタルの視線が、ゆっくりとアユルの斜め後ろに逸れる。
アユルは、ラディエが手に持っている刀の柄を掴んで素早く鞘から引き抜いた。そして、「その侍従は」とエフタルが口を開くと同時に、磨かれた刀身が閃光を描いて空を切り、胴から離れた首が高く飛んで地面に落ちて転がった。瞬きにも劣る刹那の出来事だった。
「宰相」
「……は、はい、陛下」
「この者を埋葬すること許さず。朽ち果てるまで荒地に晒せ」
「お、仰せのままに」
「どうした、声が震えているぞ」
エフタルの血で汚れた刀を投げ捨てて、アユルは「続けろ」と命じて刑場をあとにした。その足でアユルは王宮の裏門に向かい、コルダは牢へ急ぐ。
朝からどんよりとしていた空から、ぱらぱらと小雨が落ちて来た。コルダは独房の武官にアユルの書簡を見せてタナシアの身柄を預かると、人気のない庭を通って裏門を目指した。
裏門は妃や女官の遺体を王宮から運び出すための門で、一歩出ると、そこにはどこへ続いているのか分からない道と木々が鬱蒼と生い茂る雑木林があるだけだ。昼間も日が当たらず、いつもじめじめとした不気味な雰囲気が漂っている。普段は施錠されて開くことはなく、用もないのに不吉の門に近づく者はいない。
アユルが古い枝垂れ桜の下で待っていると、コルダが早足で向かってきた。コルダはタナシアを筵に座らせて、アユルに礼をとった。
その背後で、タナシアがおぞましいものを見るように表情を凍りつかせる。アユルの顔や薄い水色の着物には、赤い物が飛び散っている。それが血であることは明らかで、タナシアは迫る死に体を震わせた。
滅多に人が来ない場所ではあるが、油断はできない。アユルは、恐怖に戦くタナシアに言葉をかけることもせず、腰に差していた短刀をコルダに手渡して静かに命を下す。
「この者の髪を切り落とせ」
「はい」
タナシアは呆然と座ったまま、何が起きているのか理解できずにただただ目を丸くした。
死罪になると伝えられてから、今日が来ることを覚悟していた。父上と共に、一族を道連れに罪を償うのだと。けれど、切られたのは首ではなく髪……。
「……陛下、これは」
「タナシアと言う者は、今ここで余が処した。お前はこの門を出て、外で待つ者と辺境の地へ行け」
「……わ、わたくしをお許しくださるのですか?」
「まさか。余は、裏切る者を絶対に許さない」
「では……、では、どうして」
「仔細は外の者に聞くがよい」
アユルが、コルダに切り落とした髪を宰相に届けるように言って歩き出す。雨足が強まって、アユルの顔についたエフタルの血が水に薄まる染料のように流れた。
「陛下!」
叫ぶように声を張り上げて、タナシアが立ち上がる。
「わたくしは、陛下に背いたことを心から悔いております」
「悔いているから何だ。余は、お前に一寸の情もなく交わす言葉も持ち合わせていない。未練を捨て、二度と余の前に現れるな」
アユルは、タナシアに目も暮れず冷たくそう言い放って清殿の方へ足を向けた。玉砂利の音を奏でながら遠ざかる背を、記憶に焼きつけるようにタナシアが見つめる。しかし、次第に視界が涙で歪んで、アユルの姿は幻のように消えてしまった。
「タナシア様、お急ぎください。人目については騒ぎになります」
コルダが裏門の鍵を開けて、黒塗りの門を開く。タナシアは、コルダに「ありがとう」と言って門を出た。そこには、地味な色目の直衣を着たカリナフが、傘をさして立っていた。
カリナフは、空を見上げてにこやかに微笑んだ。重たい灰色の雲が切れて薄い光が見える。
「ご覧、タナシア。もうすぐ雨は止みそうだよ」
***
「それよりもこちらが宜しいですわ」
「あら、そうかしら。貴妃さまには派手過ぎるのではなくて?」
『これ』
「さすが宰相さまのご令嬢ですわ、カリンさま。やはり貴妃さまは、薄桃色がお似合いになられますものね」
湯殿で身を清めてアユルが奥室に行くと、部屋一面に衣装が広げられて、女官たちがああでもないこうでもないと言いながらラシュリルを取り囲んでいた。あまりにも楽しそうなその雰囲気に、アユルは声を掛けるのを躊躇って部屋の入口に佇んだ。
「私は邪魔か?」
「いいえ、そのようなことはございません。アユル様も一緒にお選びになられたら宜しいのです。きっと心が弾みますよ」
「あの輪に加われと?」
「ささ、アユル様。早く貴妃様のお近くへ」
