第39話 あたたかな手に引かれて

 気が引けると立ち尽くすアユルの横で、コルダが「ごほほん」とわざとらしい咳をする。すると、驚いた女官たちが蜘蛛の子を散らすように壁際に退いた。
 
「おかえりなさい、アユルさま」

 王宮にはまだ、外での出来事は伝わっていないのだろう。血なまぐさい向こうとは違って、こちらは常春の浄土だ。心からそう思えるのは、愛情と信頼で結ばれた生涯の伴侶を得たからに他ならない。
 アユルは、花のほころぶような笑みに誘われるようにラシュリルのそばに立って「衣装選びの続きを」と言った。

 カデュラスの夏は、灼けるように暑い。暑さに耐性のないラシュリルには、殊に酷だった。普段は、単衣ひとえと赤い袴の上に透けるほど薄いしゃの袿を羽織るだけの軽い装いで暑さをしのぐのだが、正式な場に出るとなるとそうはいかない。幾重にも重ねた絹織りの色目の美しさや華やかさを魅せて楽しむのが、この国の美意識なのだ。

「そこの袿を取れ」

 アユルが指差すと、カリンが床に広げられた白い袿を急いでかき集めるように抱えて手渡した。

「私が合わせてやるから、後ろを向け」

 ラシュリルは、言われた通りに後ろを向いて姿見の前に立った。壁際に並んだ女官たちが、絵巻物でも眺めるかのようにうっとりとした眼差しをふたりに注ぐ。陛下と貴妃さまの仲の良さは女官の口から口へと伝わって、今では王宮に勤める誰もが知る事実となっていた。

 肩に純白の衣が掛けられる。ラシュリルがそれに袖を通すと、アユルが姿見を見ながらその衿を整えた。それすらも、女官たちの目には想い合う者同士の阿吽の呼吸に見えてしまう。

「次はあちらの青いものを」

 ラシュリルの黒髪を袿の外に流して、アユルがカリンに言う。同じようにそれを三回繰り返して、最後に桐箱に仕舞われていた葡萄色えびいろの衣が肩に掛けられた。それは、山葡萄やまぶどうの実のような深い赤紫色に白い丸牡丹の文様が入っていて、絹のなめらかな光沢が輝く美しい逸品だった。

「とてもきれいな服……」

 ラシュリルの表情が驚きと感嘆に満ちて、よく似合うとアユルが耳元で囁く。すると、ふたりの睦まじい雰囲気に水をさすように、女官のひとりが「陛下」と顔を引きつらせた。心なしか、その声は震えているようだった。

「葡萄色のお召し物は、王妃さまにのみに許される高貴な身分の象徴でございます。何かの手違いで紛れ込んでしまったようでして」
「手違いではない。私が工房の者に命じておいたものだ」
「さ、さようでございましたか。ですが、掟に反することですので何卒……」

 女官が、身を低くして訴える。しかし、アユルはそれを無視して「袖を通せ」とラシュリルに言った。

「でも、王妃さましか着てはいけないものだって今」
「時代が移るうちに正妃へ下賜するのが通例となっただけのこと。皆、その通例を掟と思い込んでいるようだが、元々は意味合いが違う。本来は、王が選びし者に下賜されるべきもの。誰にこの色を与えるのか、決めるのは私だ。さあ、袖を通してみろ」

 ラシュリルは、困惑しながらも「はい」と素直に従う。女官もそれ以上食い下がるようなことはしなかった。
 背後で、アユルが後ろ髪を掬うように手に取って、それに合わせるようにコルダがかんざしが並んだ盆を持った。

「髪を結って……。そうだな、髪飾りは控え目のものが良い。派手な装飾は、かえってそなたの美しさを妨げてしまうからな」

 姿見に映るアユルの表情に、ラシュリルはどきっとする。盆からかんざしを選んで掬った髪に当てて、これではないとまた別のかんざしに手を伸ばす。真剣で、どこか楽しそうで、見ているだけで幸せな気持ちが胸にあふれる。

「この宴が、私たちにとって重要なものだと言ったのを覚えているか?」
「はい。妃としての威厳が必要なときもあるっておっしゃっていましたね」
「私が主催するとなれば、高家の者がこぞって顔を揃える。そして皆、必ず娘を同伴するはずだ」
「それは、その……、アユルさまとお引き合わせするために、ですか?」

 そうだ、とアユルが頷いて、姿見の中でふたりの視線がきつく交わる。アユルは髪飾りを置いて、不安げに瞳を揺らすラシュリルを後ろから抱き寄せた。その人目をはばからぬ行動に驚いた女官たちが、一瞬ぽかんと開口して赤くなった顔を慌てて伏せる。

「正念場だぞ、ラシュリル。私はそなた以外に触れたくはないし、そなたも同じ思いでいると信じている。私がどこにも行かずに済むように、そなたがしっかりしなくては」
「しっかりって……、どうやって?」
「私たちの間に他の者が入り込む隙などない。そなたこそが私の妻であると、皆に知らしめてやろう」
「まさか、そのために宴を?」
「察しが良いな。私は、意味のないことは絶対にしない。仮病で日を稼いだところで、そう遠くないうちに王妃を迎えろと迫られるからな。臣下たちが正妃の話を持ち出す前に先手を打ったという訳だ。いろいろと煩わしいことが続いたあとに邪気を払う儀式などと言えば、もっともらしいではないか」

 鏡越しに向けられる不敵な笑みに、とくんとくんと左肩辺りに規則正しく伝わってくる静かな心音。ラシュリルは、鏡の中のアユルを見つめる。

 アユルさまはいつも堂々としていて、この世におそれるものなんてないみたい。
 それに引き換え、わたしはどうなのかしら。
 いつもアユルさまに守られてばかり。自分は役に立たないって諦めて……。大好きなのに、大切なのに、いつまで卑屈でいるのだろう。

 ――二度と悲しい雨の夜が来ないように、アユルさまを守りたい。

 ラシュリルは、アユルの腕の中でくるりと身をひるがえすと、顔を上げて微笑んだ。そして、以前お断りしたろくを少しだけいただけませんか、と言った。

***

 がやがやと、華やかな賑わいが奥室まで聞こえてくる。
 支度を終えたラシュリルは、姿見の前でどきんどきんと激しく高鳴る胸をおさえた。守りたいと意気込んで覚悟を決めたのはいいけれど、カデュラスの高官たちの前に出るのは、やはり尋常ではない緊張を伴う。

「とてもお綺麗ですわ、貴妃さま」

 ラシュリルを取り囲む五、六人の女官が満足そうに頷く。その横で、カリンもにこやかに笑っている。
 少し顔の向きを変えると、結われた黒髪に挿された銀細工のかんざしから垂れる飾りがちりちりと小さな澄んだ音を立てた。

 日が高くなって強烈な日差しが庭に注ぎ、風が部屋に熱気を運んでくる。じっとしていても、汗ばむような暑さだ。

「陛下がお見えです」

 コルダの声に、心臓が口から飛び出しそうなくらい跳ねて緊張が頂点に達する。ラシュリルはその場に座して、女官と同じように床に両手の指をついた。

「支度は済んだか?」

 アユルがつかつかと部屋に入ってきて、半分ほど下ろされた御簾を掻い潜る。足音がものすごい速さで近付いて、ラシュリルの前でぴたりと止まった。

「堅苦しい礼はよい。立て、ラシュリル」

 ほら、と差し伸べられた手を取って、ラシュリルはゆっくりと立ち上がる。
 アユルの思惑により行われることになった儀式とは言え、れっきとした国事。アユルは純白の礼服に身を包んでいて、いつにも増して気品と威厳に満ちていた。

「思ったより時間がかかりましたね」
「ああ、祈祷師が念を入れて邪気を払ってくれたからな。あとで盛大に賞賛して、褒美をやるとしよう」

 アユルが、うんざりしたと言わんばかりの顔をする。アユルさまのために心を込めたのでしょうにと、ラシュリルは内心で祈祷師に同情した。

「それはそうと、指先が冷えているな」
「身分の高い方ばかりがお越しになっているのかと思うと、やっぱり落ち着かなくて」
「狸が並んで行儀よく座っていると思い込め」
「狸?」

 私はいつもそうしている、とアユルが真顔で言うものだから、ラシュリルは可笑しくなって吹き出してしまった。
 コルダが、御簾を上げて「そろそろお時間になります」と言った。アユルは、ラシュリルの手を取ったまま広間へ向かった。ふたりの後ろを、コルダとカリンがついて来る。その五歩ほど後ろに、茶器や器を持った女官が続く。

 広間では、かしこまった服装の貴人たちが席について、王のお出ましを待っていた。王の到着を告げる太鼓が鳴ると共に、奥室まで聞こえていた賑やかなざわめきがぴたりと止む。

 襖が開いて、ラシュリルの喉がごくっと小さく上下する。その音すら大きく聞こえてしまうほどの静寂の中、アユルはラシュリルの手を引いたまま広間に入った。
 驚くような顔をした者、眉をひそめる者、様々な表情とすべての視線がふたりに向けられる。再び高まる緊張と不安。

 ――わたしは、受け入れてもらえるのかしら。

 真夏の酷暑が嘘のように背筋がぞっとして、手の平が汗で冷たく湿る。すると、アユルが握る手にぎゅっと力を入れた。まるで、私がそばにいるから案ずるなと勇気づけるように――。

 一段高い上座にふたつの膳が並んでいて、アユルとラシュリルがその席に着くと高官たちが深々と上座に向かって頭を下げた。
 アユルが「面を上げろ」と命じて、皆が姿勢を正す。
 ラディエを筆頭に左右にずらりと並ぶ高官たちと、その間に色鮮やかな衣装を着た若い女性たち。
 宴は、雅で和やかな雰囲気に包まれて始まったように見受けられた。しかしそう時間が経たないうちに、ラシュリルの耳に貴人たちの密やかな声が聞こえてきた。

「異国の者が陛下と並んで高座たかくらに上がるとは」
「ご寵愛が過ぎて、清殿に住まわせておられるのだとか」
「何と、それが事実ならば許しがたきこと。それにあの衣の色……。代々王妃様が身につけてこられたものであるぞ。陛下は何を血迷っておられるのか」
「大事に至る前に、何としてでも陛下に正妃を娶っていただかなくては」

 怖い。胸にじんわりと広がる恐怖心を打ち消すように、ラシュリルはタナシアの仕草を思い出しながら優雅に檜扇を広げた。そして、声をひそめる貴人たちと同じようにそれで口元を隠して、アユルの耳に顔を近付ける。

「アユルさま。高家の姫さまたちに焼き菓子クッキーをご用意したのです。お召し上がりいただいても宜しいですか?」
「構わないが……。ああ、なるほど。それで禄をもらいたいと言ったのだな?」
「はい。カデュラスでは材料が高いので、これだけの人数の分を作るとなると手持ちが足りなくて」
「当たり前に禄を受け取れば良いものを」
「いいえ。普段は困ることはありませんから、あんなにたくさんの額は……」

 ラシュリルと会話をしながら、アユルの目がちらりと貴人たちに向く。すると貴人たちは、慌てて口をつぐんだ。無礼なことを言っている者がいると、ラシュリルがアユルに告げ口をしているとでも思ったのだろう。

「まったく、我が妻は稀代の貧乏性だな」
「真顔でそう言われると、結構、心が傷つくというか恥ずかしいというか」
「真顔で言わねば、あの者たちに気取られてしまうだろう。そなた、いつの間にそのような技を身に着けた?」
「アユルさまにも聞こえていたのですか?」
「当たり前だ。まだ続けるようなら、宰相を呼んでつまみ出してやろうかと思っていた」
「そんなことをしたら宴が台無しです。せっかく、姫さまたちと仲良くなろうと思っているのに」
「仲良くとは、どういう意味だ」

 焼き菓子の甘さは毒のように怖いのだと、ラシュリルは神妙な面持ちでアユルから離れて扇を閉じる。
 高家の娘たちを見ると、それぞれが可愛くて美しくて、顔見知り同士で言葉を交わす仕草などが故郷の幼馴染みたちを彷彿とさせる。

 管楽の調べが響いて、庭の白砂の上で若い貴公子たちの舞が始まった。
 ラシュリルはカリンをそばに呼んで、この場にいる女性たちに焼き菓子と苺の甜茶を振る舞うように言った。清殿の女官が、手分けして手の平に乗るくらいの千代紙の包みを姫たちに「貴妃さまからです」と手渡していく。

 暑さを忘れてしまうような爽やかな薄青色の包みを開くと、中には指先で掴めるくらいの大きさの菓子が入っていた。丸い形、星の形、花の形。不揃いでいびつなそれらは、ひとつひとつ丹精込めて作られているとひと目でわかる。
 そのうちのひとつを頬張ると、カデュラスの菓子とは違った香ばしい甘味が口いっぱいに広がった。

「美味しい」

 あちらこちらから感嘆の声が上がって、幸せそうな笑顔が咲く。さらに、冷たい苺の甜茶が彼女たちの心を鷲掴みにした。
 舞が終わるとすぐに、姫たちがわらわらと高座の前に集まってきた。彼女たちはアユルに挨拶をしたあと、焼き菓子と甜茶の礼もそこそこに、身を乗り出すようにラシュリルに詰め寄った。

「あれは何と言う菓子なのですか?」
「貴妃さまが手ずからお作りになったのですか?」
「キリスヤーナには、他にどのような菓子があるのですか?」
「あのお飲み物は一体……!」

 彼女たちの勢いに気圧されるラシュリルの横で、アユルが声を立てて笑う。
 あわよくば我が娘を王妃に、などと目論んでいたであろう官吏ちちおやたちは、示し合わせたように目を点にして魂が抜けたような顔をしている。
 いつの間にかカリンや女官たちまで加わって、ラシュリルたちは長いこと会話を弾ませた。

 その夜、ラシュリルはカリンに髪を乾かしてもらいながら、宴で言葉を交わした姫の名前と笑顔を思い返していた。結局、話が尽きることはなく、日を改めて茶話会に彼女たちを招待することになった。

「良かった、みんな優しい人ばかりで」

 アユルが妻と言ったとき、ラシュリルは嬉しくてたまらなかった。
 守るとは言っても、誰かとアユルをめぐっていがみ合い、争うようなことはしたくない。できることなら、皆が笑顔になれる方がいい。そう思ったとき、真っ先にラシュリルの頭に浮かんだのは、故郷でのティータイムの光景だった。あの時間だけは、厳格な伯爵夫人も別人のように優しい顔つきになった。もっとも、故郷のやり方がここで通用するのか自信はなかったのだけれど。

「ありがとう。あなたたちのお陰で、とても楽しい一日になったわ」

 ラシュリルが、昨日一日、暑い中焼き菓子作りを手伝ってくれたカリンと女官に礼を言うと、わたしたちも楽しかったと満面の笑みが返ってきた。
 些細で意味のない努力かも知れないけれど、一歩を自分の足で踏まなくては。この国で、王宮で一生を過ごすと決めたのは自分なのだから、とラシュリルは自身に言いきかせる。
 そのとき、コルダが部屋に入って来た。

「貴妃さま、陛下がお待ちでございます」