第三話 糸口


「息災であられましたか、姫様」
「驚いたわ。あなたが、まさかあなたが陽王ようおうの客人だなんて!」

 昇陽の兵が迫る中、王宮の裏門で別れたのが最後だった。よかった、無事で。爺のしおれた手をにぎって、珠月しゅげつは顔をほころばせて目に涙を浮かべた。

「積もる話もございましょうて、椅子に掛けてもよろしいかな? すっかり老いてしまって歩くのがやっとだ」
「ええ、儒積じゅせき。こちらに掛けて」

 手をひいて、儒積の足取りに合わせてゆっくりと席へいざなう。
 彼は、亡き詞華王が幼少のころから王宮に仕えていた侍従じじゅうだった。博識で、天候や星の動き、動植物のこと、ありとあらゆることを教えてくれた。柔和な人柄で誰からも慕われる好々爺こうこうやだ。

「一人でここへ?」
「いいや、若い衆も一緒だよ。他の者は今、蕾怜殿と話をしている。早く姫様に会ってやって欲しいと蕾怜殿が言うものでな」
「らいれい?」
「はて、姫様は陽王の御名をご存知ないのかな?」

 ええ、と珠月は頷いた。名どころか、年齢も何も知らない。茶を注ぐ宮女にちらりと目配せして人払いをすると、珠月は儒積の小さな眼を見据えた。

「陽王から客人の相手をするようにおおせつかったわ。どういうことなの? 陽王とあなたは……」

 ふむ、と儒積はくぼんだ目を細めた。そして、茶を一口のみ、しばらく思案して口を開いた。

「姫様は、蕾怜殿から詞華のことを聞いておられぬようだの」
「陽王は詞華を滅ぼした張本人よ。わたしに詞華の話などするはずがないでしょう?」
「蕾怜殿が詞華を滅ぼした? とんでもない。姫様は誤解しておられる」
「何を言うの、儒積。陽王の兄である司将軍がお父さまとお母さまをしいし、昇陽の軍が詞華の全てを焼いたのよ。陽王の命令なしに司将軍や軍が動くわけがないじゃない!」

 思わず語気が強くなり息が上がる。
 珠月は、ひざの上でぎゅっと拳をにぎって怒りをこらえた。それに気付いた儒積が、珠月の肩に手を置いて落ち着かせるように優しく二度たたく。

「あの日、あなた達と裏門で別れて、わたしは命を絶とうと塔へ上がったの。でも、身を投げようとしたときに陽王に見つかってしまったわ。あの人の剣も衣も、全部が血まみれだった。詞華の民を斬ったのよ」

 唇をかみしめて目に涙をためる珠月に、儒積は黙って首を横に振る。
 蕾怜殿が斬ったのは詞華の民ではなく、詞華の民を襲う昇陽の兵だ。きっと、姫様を悲しませないように事の詳細を伏せているのだろう。なんと哀れなことか。誰よりも詞華王の志を理解している蕾怜殿が、姫様のかたきになってしまっているとは。
 儒積はにこりと笑って、珠月の肩から手を離した。

「昇陽が雨季の間、姫様は蕾怜殿に会ったかな?」
「い、いいえ。それがどうかして?」
「蕾怜殿は、わしらと共に作物を収穫し、焼けたままになっていた畑を耕していた。王宮に残してきた姫様がふさぎこんでいるのではないかと気にかけながらの」
「ねぇ、儒積。わかるように話してちょうだい」

 ふむ、と儒積は茶を飲み干した。そして、深いため息をついて、ゆっくりと話し始めた。
 陽王が幼少期を詞華で過ごしたこと。詞華王と王妃を実の父母のように慕っていたこと。生まれた珠月を可愛がっていたこと。儒積の思い出話は、耳を疑うようなことばかりだった。
 それが本当なら、陽王は真の修羅だ。親しんだ国を無情にも滅ぼしたのだから。やはり残忍な人だと珠月が言おうとしたときだった。宮女が陽王の来訪を告げた。

「姫様、続きはまたの機会にお話して差し上げよう」
「ええ」

 間もなく、陽王が部屋に入ってきた。政務を終えてそのままこちらに来たのか、黒地に金糸の刺繍が施された豪華な深衣姿に、思わず珠月の目がとまる。陽王に会うのは夜ばかり。くつろいだ装いしか見たことがない。

「待たせたな」

 陽王が隣の椅子に腰掛ける。儒積に向けられる親しみのこもった眼差しと優しい口調。陽王の横顔が、少年のような笑みで満たされている。

「詞嬪も大義だったな」

 ふいに目を向けられ、珠月はとっさに顔をそむけてしまった。陽王と儒積は、まるで師弟のように話を弾ませた。腹の奥から、気持ちの悪いものが上がってくる。疎外感というと大袈裟かもしれない。だが、二人の間には強い絆があるようだ。わけがわからない。

「陽王」

 珠月が呼ぶと、陽王は儒積の話を遮って、どうしたと答えた。

「席をはずしてもよろしいでしょうか。少し、気分が優れないのです」
「ならば、私が部屋まで連れて行こう」

 儒積に待つように言いながら、陽王が席を立つ。
 どこまでも狡猾な男だ。人質ではなく、妃として大事に扱っていると思わせるための演技までするとは。さあ、と伸びてきた陽王の手を振り払って、珠月は立ち上がった。険悪な様子にうろたえる儒積に一礼し、急ぎ足で部屋を出る。そして、少し廊下を進んで足を止めた。

「一人では、右も左もわからぬだろう? だから、私が部屋まで連れて行くと言ったのだ」

 くすくすと、小馬鹿にしたような笑いが背後から聞こえる。かっと頭に血がのぼった。同時に、目の奥が熱くなる。腹立たしい。悔しい。違う。悲しいのだ。一人、あの日に取り残されていることが。

「宮女に案内させます。お構いなく」
「生憎だが、皆さがらせた。私で我慢しろ」

 風が通り過ぎるような軽やかな動きで、陽王の手が珠月の手をつかむ。陽王は、そのまま珠月の手をひいて廊下を左に折れた。小庭園を周回するように、廊下が対屋たいのやに続いている。
 陽ざしのあたたかさを、ひゅっとした冷たい風が一瞬で奪う。庭の木々は風に逆らうこともなく、丸裸の細枝を揺らしている。あんなふうに従順になれたなら、少しは心が軽くなるのかしら。けれど、わたしは風に身を任せる細枝にはなれない。
 珠月が手をほどこうとする。しかし、陽王はかたくなに離さない。よほど前世で悪行を積んだのだろう。親の敵と手をつないで歩かなければならないなんて。

「儒積殿から何を聞いた?」
「あなたが詞華で暮らしたことがあると」
「他には?」
「雨季の間、詞華に行っていたそうですね」
「儒積殿は口が軽い」

 ははは、と陽気な声を立てて笑う陽王を睨みつけて、珠月は歩みを止める。冷淡な顔しか見せなかった陽王が、今日は目まぐるしく表情を変える。それも、今までとは違う明るい表情ばかりだ。

「儒積は、あたなが詞華を滅ぼしたのではないと言っていました」
「そんなことまで。後ほど儒積殿に注意しておこう」
「本当なのですか? あなたではないというのは」
「そう怖い顔で睨むな」

 陽王が、再び手をひいて歩き始める。
 対屋の手前で廊下を曲がってしばらく歩くと、部屋の前に那濫ならんが立っていた。嬪には無愛想でも、主には忠実であるらしい。那濫は珠月に目もくれず、陽王に礼をとった。

「儒積殿を皆の所へお連れしろ。余の客人ゆえ、丁重にな」
「かしこまりました。すぐに戻ってまいります」
「余は夜宴まで詞嬪と過ごす。呼ぶまでさがっていてよい」
「はい」

 那濫が去ると、陽王は部屋に入って珠月の手を離した。見覚えのある部屋だ。そう、昨夜ここで……。

「日の高いうちから寝所に連れ込むとは。あなたには恥もっ、……きゃっ」

 両足が床から離れ、体が宙に浮く。防衛本能とは実に恐ろしい。憎い敵であっても咄嗟とっさにしがみついてしまうのだから。

「おっ、おろして!」

 一瞬のうちに横抱きにされ、両足をばたつかせて必死にもがく。しかし、抵抗むなしく寝台に放り投げられた。慌てて上半身を起こす。寝台に打ちつけた腰をさすりながら見上げると、いつもの冷淡な陽王が見下ろしていた。

「たわけ。私とて、愚王と後世で笑われたくはない。気分がすぐれぬと言うから、休ませてやろうとしただけだ」

 言い返す言葉を失って、珠月は黙りこんだ。恥ずかしさでほおが熱くなる。陽王が寝台に腰掛け、珠月の足首をつかんで履物を脱がす。横暴なのか親切なのか、残忍なのか優しいのか。陽王の人柄がわからない。自分に向けられる陽王の態度と儒積へのそれとの違い。誤解とは、一体何のことなのだろう。

「答えてください」
「何に?」
「先ほどお尋ねしました。詞華を滅ぼしたのはあなたではないというのは本当ですか?」
「気分がすぐれぬとは偽りだったのか。私に嘘を言うとは」

 珠月は、はぐらかそうとする陽王の腕をつかんで詰め寄った。知りたい。儒積の言葉の意味を。

「陽王、あなたは……」

 珠月の真剣な眼差しに、陽王の瞳がかすかに揺れる。
 塔から身を投げようとしたとき、陽王があらわれた。司将軍は詞華王の血を根絶やしにせよと叫んでいたのに、陽王は生きて従えと言った。詞華を滅ぼすのが本懐だったのなら、なぜ陽王はあのとき殺さなかったのだろう。ただはずかしめるためだけに生かすだろうか。答えを待つ珠月の鼓動が早くなる。

「全て私の未熟さが招いたこと。だから、私が詞華を滅ぼしたも同然だ」
「あなたの、未熟さ?」
「質問には答えたぞ。休め」

 謎かけのような答えはいらない。珠月が身を乗り出す。どうして両親は死ななければならなかったのか。どうして祖国は滅びなければならなかったのか。争いごととは無縁の平和な国だったのに――。

「そのように健やかなのなら、妃のつとめを果たすか?」

 不意をついて、陽王が珠月を組み伏せる。ふざけたような意地の悪い笑顔。真剣に答えてくれる気はないらしい。涙で陽王の顔がかすむ。好きにすればいい。詞華の民を盾にこの体をもてあそび、もがき苦しむ姿を見て喜べばいい。どうせ、わたしは――。

「珠月」

 陽王がやさしい声で名を呼び、珠月を抱きしめて横たわる。
 嫌がって、珠月が抵抗すると、身動きできないほどぎゅっと強く抱きしめられた。涙を吸った陽王の深衣から、焚きめたお香の匂いが立つ。この香りは大嫌いだ。体と心が痛めつけられる夜、いつもこの匂いがするから。

「悪ふざけが過ぎた。許せ」

 今さら、やさしく名前を呼ばないで。力強く抱きしめないで。柄にもなく謝らないで。
 嫌。この男の胸で泣くなんて。でも、あの日から孤独に耐え抜いた心に、陽王の体温が染み込んでくる。
 嫌。これでは、すべてを奪った男に屈してしまう。苦しくて、硝子ガラスが砕けるように心が割れてしまいそう。
 陽王の手が、幼子をあやすように頭をなでる。その手があまりにもあたたかくて、涙が止まらなくなった。