第四話 黒幕


 起居を共にせよ。
 翌朝、陽王ようおうの一言で詞嬪しひん紫永宮しえいきゅうの一室が与えられ、すぐに明夷宮めいいきゅうの宮女が身のまわりの荷を運んできた。珠月は、腫れて重たく目にかぶさるまぶたを指で持ち上げた。

「何をしている」

 配膳を終えた宮女をさげ、陽王が珠月の顔を覗きこむようにして言う。
 何をしているのかなんて、こちらが聞きたい。もしかして、夢でも見ているのだろうか。珠月は一度目を閉じて、ゆっくりと開けてみた。しかし、状況に変わりはない。泣きすぎたせいで、視界はせまく少しかすんでいる。そこに見える豪華な宮廷料理。どうやら、本当に陽王と朝食の席に着いているらしい。

「食せ」
「は、はい」

 食せ、と言われても。生薬を煎じた甜茶てんちゃを口にするのが精一杯だ。

「いつもそうなのか?」
「はい?」
「食が細いのかと聞いている」
「い、いいえ。そうでは」
「ならよい」
「あの……」
「何だ」
儒積じゅせきは」
「今日、詞華へ戻るそうだ」
「そう……、ですか」

 機械仕掛けのような会話はそこで途絶える。しょんぼりと珠月が肩を落とすと、それきり、陽王は食事が終わるまで喋らなかった。
 この日から、寝台を起き出てから就寝するまで、陽王が紫永宮にいるときは常に一緒に過ごさなければならなくなった。陽王が政務で留守にしている間は自室でゆっくりできたが、常に三人の宮女がそばにいて、一人きりになる時間はない。そうか、と珠月は納得する。明夷宮に閉じ込めて衛兵に見張らせるより、自ら監視しようという魂胆なのだ。

 紫永宮に暮らし始めてもうすぐ三ヶ月が経とうかというある日。
 珠月はいつものように寝所に入り、寝台に座って書物を読んでいる陽王の隣に腰掛けた。ふと、自分から香油の匂いがして少し距離をとる。後宮の習わしなのだろうが、宮女たちが用意する香油はいつになっても好きになれない。
 そばの燭台しょくだいにふっと息を吹きかけ、陽王が寝台に横たわる。そして、珠月と呼ぶ。珠月はゆっくりと上半身をひねって振り返り、陽王と視線を合わせた。陽王は、ふたりきりのときだけ名を呼ぶようになった。

「明日から那濫ならんをそなたに預ける。那濫と一緒なら、王宮を好きに歩いてもよい」
「好きにって」
「言葉の通りだ。暖かくなってきたことだし、私が政務の間は自由にしてよい。ただし、王宮の外には行くな」
「あの、では、明夷宮に戻ってもよろしいでしょうか?」
「ならぬ。紫永宮ここで起居せよと命じたはずだ」
「いえ、そうではなくて。あなたの侍衛と一緒に」
「……あ、ああ、それならよい。今宵は冷える。早くこちらへ」

 一つに束ねた長い髪を左の肩にかけ、陽王の隣に仰向けになる。無様に泣きじゃくったからか、陽王は触れることもしないしとぎも強要しなくなった。目を閉じてじっとしていると、すぐに規則正しい寝息が聞こえてくる。隣で朝を迎えるようになって、彼は寝付きが早いのだと知った。

 昇陽の王宮では、王が妃の宮へ通うのが通例である。
 陽王が紫永宮で詞嬪と寝食を共にしていることは、噂好きな宮女たちの恰好の餌となった。噂は王宮の外まで広がり、牢獄の門番まで野暮な話をする有様だ。
 緋尚ひしょうは、詞嬪とは詞華の王女のことかと牢番に尋ねた。三人の牢番は、牢の格子に手足を鎖でつながれた囚人を馬鹿にするように指をさして笑った。

「よかったな。奥方が陽王に取り入って、お前を助けてくださるんじゃないか?」
「いいや、それはないだろう。陽王はこいつに怒り心頭だからな」
「そうは言うが、詞嬪様へのご寵愛は格別だって噂だ。詞嬪様がねやで頼めば……」

 下品に笑う門番を尻目に、緋尚はぎりぎりと奥歯を噛みしめる。
 貧しい国の王子に生まれたのが不幸だった。司将軍のもと詞華で贅沢な暮らしを謳歌するはずが、鎖につながれ、餌のような飯を食い、下級の門番に笑われる畜生に成り下がってしまった。

 それにしても、珠月は幸運な女だ。戦火を生き延びたうえに昇陽王の妃におさまるとは。こんなことになるのなら、優しい夫など演じずに抱いておけばよかった。陽王は、けがれた女を妃にはしないはずだ。くそっ。
 げらげらと笑っていた牢番が、慌てて姿勢を正す。武官を引き連れて、陽王がやってきた。

「これはこれは陽王」

 ぼさぼさで不潔な黒髪に隠れた顔に卑屈な笑みを浮かべ、緋尚が格子越しに陽王の豪華な深衣をつかもうとする。だが、両の手首に掛けられた鎖が引っかかって手が届かない。陽王の精悍せいかんな顔立ちを観察するように、緋尚は目をこらした。

「麗しい陽王よ、珠月にご執心だそうだな」
「貴様には関係のないことだ」
「我が妻を横取りしておいて、なんて言い草だ。珠月に会わせろ」
「妻だと? 女には情を持たぬくせに。それに、残念だが貴様は処刑されたことになっている。どうやって死人に会わせろと?」
「さすが、昇陽の王だな。我々と違ってやることが周到だ。だが、俺のお陰で珠月の純潔をいただけただろ? そこにひれ伏して俺に感謝したらどうだ」
「そう噛みつくな、緋尚。貴様への礼として、今日はよい知らせを持っきてやったのだ。詞嬪の代わりといっては何だが、司将軍に会わせてやろう」
「司将軍だと? まだ生きておられるのか」
「ああ。嬉しくて言葉も出ないだろう」

 陽王の笑みに、背筋をぞっと寒気が走る。嫌な予感は昔から外れたことがない。こいつは、”ことになっている”を現実にするためにここに来たのだ。
 陽王が目配せすると、牢番たちはびたように笑って緋尚を後ろ手に縛った。そして、暴れて抵抗する緋尚のみぞおちを殴って牢の外へ引っ張り出した。

「詞嬪様、どちらへ?」
「明夷宮へ行きたいのです。荷の中に陽王の上衣うわぎがなかったので」
「上衣?」
「ええ。随分前にお借りしたままになっていて」
「そうでしたか。では、ご案内いたしましょう」
「ありがとう」

 珠月は、那濫について紫永宮を出た。
 木々の枝が新しい芽をつけている。もう季節は春間近のようだ。せっかく良い気候ですので、と那濫が遠回りをして王宮を案内してくれた。いらかを争うように、意匠を凝らした美しい宮が並んでいる。どの宮も立派な門構えで、まるで王都の貴人たちが住む街並みを見ているかのようだ。
 いくつかの宮を通り過ぎたとき、珠月はふと足を止めた。人の気配が全くないことに気付いたからだ。

「いかがされましたか、詞嬪様」
「他の妃たちはどちらにお住まいなの?」
「他の妃とは? 陽王の妃は詞嬪様だけですが」
「明夷宮の宮女に聞いたのです。陽王には、わたしの他に六人の妃がいるのだと」

 那濫は眉間にしわを寄せる。そして何かを思い出したように、ああと言った。
 確かに、他国の王族から献上されて六人の姫が入宮したことがありました。ですが、その日のうちに陽王の命令で国に戻されました。陽王は、人質を使うやり方をとても嫌っておられますので。

 那濫の答えに、珠月は呆然とする。どういうことなの。それから明夷宮に着くまで、珠月は上の空で歩く羽目になった。

「陽王にも人の心があったのね」

 明夷宮の宮女から上衣を受け取り、紫永宮へ向かいながら珠月が言った。那濫は、黙って珠月の前を歩く。
 迷路のように植木が並ぶ庭にさしかかったとき、那濫が寄り道をしましょうと言い出した。珠月がきょとんとすると、那濫は答えを待たずに紫永宮とは真逆の方向へ曲がった。

「とんだ食わせ者だな、陽王」
「ほら、愛しい司将軍との再会だ。いつまでもねてないで、素直に喜んだらどうだ。何なら、縄を解いてやってもよいぞ。皆が見ている前で、熱い抱擁でも交わすか?」
「くそっ」

 緋尚が連行されたのは、四方を不気味な赤い壁に囲われた広場だった。閻魔えんまの台座と揶揄やゆされる、罪人を裁いて処する場所だ。緋尚はごくりと生唾をのむ。ここに連れてこられたら最期、生きては帰れない。
 衛兵に背を押されて石畳の上に転げると、そこには同じように両手を縛られた司将軍が座っていた。緋尚が、司将軍にすがりつくように身を起こす。司将軍は緋尚を無視して、陽王の姿を目で追った。

「陽王よ、なぜ俺を生かしておく。さっさと殺せ!」

 司将軍が、かっと目を見開いて叫ぶ。
 陽王は無表情のまま司将軍に近づき、身をかがめてその髪を乱暴につかんだ。もはや兄でも将軍でもない。この男はただの裏切り者。私利私欲を満たすために詞華を滅ぼした下衆だ。

「わめくな、兄上。見苦しい」
「ふん。お前を討とうと企んだ俺を、まだ兄と呼ぶのか? やはりお前は、王の器ではない! お前のような下賤で軟弱な男が、大国を治めるなどできるはずがない!」

 怒りで手が小刻みに震える。
 愚かな二人のせいで、故郷ともいうべき詞華を失い、珠月との間には決して埋まることのない溝ができた。しかし最も愚かだったのは、兄を信じて全軍の兵権を与え、緋尚と珠月の婚姻を阻止できなかった自分だ。我が子のように目をかけてくれた詞華王に報いることができなかった。陽王は怒りをこらえ、司将軍から離れた。

「待ちなさい、那濫。ここは王宮の外ではないの?」
「はい」
「引き返しましょう。王宮を出てはいけないと言われているのですよ。陽王に知られたらどうするのです?」
「そのときは私がとがめを受けます。どうしても、詞嬪様に知っていただきたいのです」
「何を」
「真実をです」

 那濫のあとをついて、珠月は木の枝をかき分ける。高くそびえる塀伝いに歩き、小さな門から外に出る。そこは、白い石畳の広場だった。衣についた葉を払い落とし辺りを見回す。

「詞嬪様。ここからは背筋を伸ばして堂々とお歩きください」
「どういうことです?」
「私は陽王のもとへ詞嬪様をお連れする侍衛です」
「はあ……」

 言われた通りに、妃らしい身のこなしで那濫の後ろを歩く。しばらくすると、衛兵が近付いてきた。那濫は、陽王の命で詞嬪様をお連れしたと何喰わぬ顔で言い、広場をまっすぐ進んだ。
 朱塗りの小さな門をくぐる。すると、向こうにたくさんの役人が並んでいて、その手前に陽王と後ろ手に縛られてひざまずく二人の男が目に入った。赤い壁が何とも気味が悪い。
 陽王が気付いて駆けてくる。少し間を置いて、ひざまずく二人の男が振り返った。

「珠月!」

 片方の男が叫び、自由のきかない体をよじって立ち上がろうとする。

 ――嘘。

 珠月は驚きのあまり口を抑えた。聞き間違えるはすがない。夕焼けの空色のように儚げで上品な面影は全くないが、毎夜手を握って眠ってくれた夫の声。そして夫の隣にいるのは、両親の首をはねた司将軍だ。

「那濫! なぜ詞嬪を連れてきた!」

 陽王が鬼のような形相で那濫に詰め寄り、すぐに紫永宮に詞嬪を連れて行けと声を荒らげる。珠月は震える手で陽王の腕をつかんだ。

「こ、これは何事なのです?」
「知らぬほうがよい。すぐ紫永宮へ戻れ」
「いいえ、お願いです。なぜ、処刑されたはずの夫がそこで罪人のようにひざまずいているのか、わけを教えてください」

 陽王に食い下がる珠月を見て、緋尚が笑いだした。気が触れたかのような笑い方に、その場にいた者たちが一様に怪訝な顔で緋尚に視線を集中させる。ひとしきり笑い終えた緋尚は、顔をゆがめて口を開いた。

「知らぬほうがよい。いえ、教えてくださいだと。おいおい、見せつけてくれるなよ。こっちが恥ずかしくなる」

 茶化すように陽王と珠月の言葉を真似て、緋尚が再び大声で笑う。記憶の中の夫からは想像もできない姿に、珠月は唖然として言葉を失った。
 衛兵たちが緋尚を取り囲み、暴力的に押さえつける。

 ――あれは、誰。

 珠月の足が、がくがくと震える。陽王が、青ざめた珠月を支えるように体を寄せ、衛兵に向かってやめよと言った。

「優しい方、だった……のに」

 珠月の虚ろな一言に、緋尚が唾を吐く。緋尚は芋虫のように石畳の上を這い、首をもたげて珠月を見上げた。

「俺がなぜ罪人のようにひざまずいているのかだと? 詞華王をそそのかしてお前の夫になり、司将軍を手引きした罪人だからさ」

 世間知らずの王女め。緋尚は、面食らって顔を硬直させる珠月をあざ笑った。そして、陽王の制止に逆らって大声を上げる。

「詞華王は、陽王を王女の夫にと望んでいた。二人の間に男児が生まれ、いずれその子が詞華を治めてくれるなら、詞華は昇陽の一部になっても構わないと愚かな夢を語っていた。だから、司将軍と共に謀ってやったのだ。誰もが欲しがる豊穣な詞華の大地を手に入れ、陽王を討つためにな!」

 緋尚の笑い声が頭の中で反響する。天が崩れるようだった。立っていられないほど地が大きく揺れ、視界が暗転し、身体から力が抜けていく。そのまま珠月は、糸がぷつりと切れるように意識を失った。