第六話 月光


 今日は、春の満月だそうだ。
 昇陽では、冬ではなく春に観月する習慣があるらしい。春の満月に願掛けすると、ひとつだけ叶えてくれるそうですよ。古くからの言い伝えなんです。いつも一緒にいる宮女三人組が、そう教えてくれた。

 珠月しゅげつは、寝支度を済ませて宮女が退出したあと、部屋の明かりをすべて消した。そして、寝台に上がって南側の窓を開ける。

 珠月の部屋は紫永宮しえいきゅうの一番奥に位置していて、本殿と渡り廊下でつながる離れのようになっている。広大な庭に囲まれ、景観を阻害するものは何もない。
 月の光が、柔らかな光線を描いて差し込んでくる。とても神秘的で、願えば本当に叶いそうな気がする。

「詞華の暮らしが、一日も早くもとに戻りますように」

 胸の前で両手を合わせ、珠月は月に向かって祈った。
 陽王ようおうは、あの日の翌朝に紫永宮を出てから、もう十日も帰って来ない。那濫ならんの話では、司将軍ししょうぐん緋尚ひしょうのことや政務のあれこれで外廷を離れられないのだとか。
 食事はちゃんと摂れているのだろうか。休めているのだろうか。寝所を出て行ったときの陽王の顔を思い浮かべては、そんなことが気になってしまう。

 ――あんなことさえなければ、互いを想い合う夫婦になれたのかしら。

 誰よりも幸せにしたかった。陽王の震えた声が、まだ耳に残っている。彼も苦しんでいた。一年もの間、どんな心持ちで冷たい表情を作り、この身に触れていたのだろうか。陽王の心情を推し量ろうとすると、哀れで悲しくて心臓をぎゅっとつかまれるような痛みが走る。

 ――もし、最初から真実を話してくれていたなら……。

 いいえ、と珠月は首を横に振る。陽王こそが敵だと思い込んでいたのだもの。絶対に信じなかった。それどころか、罪を免れるために嘘をつくなと、ひどい言葉で彼を罵ったかもしれない。

 今宵は、とても静かな夜だ。
 庭の葉がさわさわと擦れる音が耳に心地よい。今夜はこの窓を開けたまま眠ろうかしら。珠月は、窓枠にひじをついた。
 庭に敷き詰められた雲母うんもを含んだ砂が、月の光を反射して硝子片ガラスへんのようにきらめいている。その上に木の葉の影が落ちて、風に揺れ、感性を揺さぶられるような幽玄の世界が目に飛び込んでくる。
 なんて美しいの。そうつぶやいたときだった。

 かたん。

 廊下の方から物音がして、珠月は扉の方を向いた。
 静かに寝台を降りて履物をはく。そして、足音を忍ばせて扉の前に立った。しばらくじっと息を殺して外の気配をうかがう。

 ――気のせいだったのかしら。

 その場を離れようとすると、また音がした。そっと扉を開けて、珠月は大きな目を丸くする。そこには、手燭てしょくを持った陽王が立っていた。いつも頭頂で一つに丸めている髪をおろしているせいで、一瞬、誰だかわからなかった。

「何だ、起きていたのか」

 陽王が、珠月を手燭の明かりで照らす。そして、ぷっと吹き出して笑った。


「なんて顔だ。そんなに驚かなくてもよいだろう」
「あっ、いえ、お越しになられると思っていなかったので」
「今夜も王宮には戻れないと思っていたから使いを出さなかった」
「そうでしたか」

「明かりが消えているが、もしかして休むところだったか?」
「いいえ、月を見ていました」
「それは良かった。一緒に眺めようと思ってな。中に入っても?」
「は、はい」

 手燭の火を吹き消して、陽王が部屋に入る。珠月は扉を閉めて佇んだ。宮女を呼んで、火を灯してもらった方がいいだろうか。ひとり迷っていると、陽王は勝手知ったる様子で南側の庭に通じる扉を開けて軒下に出て行った。

「良い日和だ。そなたもこちらへ来るがよい」
「はい」

 珠月は、急ぎ足で陽王のもとへ行く。
 軒下には、二人がけの椅子が置いてある。昼間に、ここで書物を読んだり宮女と話をしたりする。広い庭を一望できるこの場所は、珠月のお気に入りだ。
 陽王が、そばの台に手燭を置いて椅子に腰をおろす。座れと言われて、珠月は陽王の表情をうかがいながら隣に座った。

 凛々しく整った眉に奥二重の目。高い鼻梁の線は美しく、薄く形の良い唇の下に引き締まったあご。月光に照らされる陽王の横顔は、精悍せいかんでとても男らしい。珠月の目が釘付けになったのは、優美に微笑んだ口元だった。以前のような冷たさはない。それがとても嬉しく思える。

「長くお戻りになれなくて、お疲れではないですか?」
「なに、爺たちの退屈な話を聞いて判を押していただけだ。大事ない。それよりも、あんなことがあったのに十日も放っておいて悪かった」
「い、いいえ」
「月を眺めながら言うことではないが、気になっているだろうから話しておく。緋尚には辺境で労役してもらうことになった。八つ裂きにしてやろうとも思ったが、辺境送りの方がより過酷だからな」
「……そう、よかった。ありがとうございます。正当に処してくださって」

 緋尚の笑い声が頭に響く。珠月は、首を振ってそれをかき消した。緋尚が悔い改めてくれるといいけれど……。けれど、それは期待しない方がいい。

「ところで、月に願ったか?」
「はい」
「何を願った?」
「内緒です」
「私に言えないことか?」
「そうではありません。その、詞華しかのことを……。みんなの暮らしが早く元通りになればと思って」
「そなたらしいな。心配せずともよい。その願いは、私が必ず叶える」

 陽王が肩をくっつくけるように体を寄せ、背後の壁に投影されたふたりの影がひとつになる。
 珠月は背筋をぴんと伸ばして硬直した。頬と耳たぶが熱い。それに、鼓動が速くなっていく感じがする。胸をおさえようとした左手を陽王の右手にさらわれて、顔が一気に熱をはらんだ。反対に、緊張で指先からは血が引いていく。
 手が冷たいと、陽王が上衣を脱いで珠月の肩にかけた。それから、また身を寄せて手を握る。
 屈辱には耐えたのに、恋人にするようなことをされるとどうしていいのかわからない。ちらりと横を見ると、陽王と目が合ってしまった。鼻の先がつきそうな距離。鼓動が、耳の近くでどくんどくんと響く。

「あ、あなたは何を願うのですか?」
「また来年も、こうして一緒に眺めたい。その次の年もその次も、ずっと」

 冬よりも少し橙色が強い、あたたかな色をした春の満月。その輝きを、水分を含んでかすむ春の空気が和らげる。凍りついた冬をゆっくりと溶かすような優しい月明かりが地に注ぎ、ありとあらゆるものを照らしている。あまりに穏やかで、時の流れさえ止まってしまいそうだ。

「命をかけて幸せにする」

 珠月は息をのんだ。
 陽王の影が顔にかかり、そっと唇が重なる。反射的に閉じたまぶたが震えた。呼吸を忘れてしまうほどのとても優しい口付け――。
 陽王は、悲運に飲み込まれる度、独り耐えてきた。これからも、命の限りそうやっていきていくのだろうか。それは、あまりにも残酷で悲しい。
 暗闇のような世界から連れ出してあげたい。けれど、同情や傷の舐め合いはしたくないし、陽王もそれは望んでいないと思う。だから、ふたりで築いていけたらいい。本来、そうなるはずだった未来を。

 珠月は、陽王の首に腕を回した。それに応えるように、陽王が珠月を抱き寄せる。薄い唇が、角度を変えて食むように下唇を挟む。息継ぎをしようと開けた口に舌が滑り込んできた。

「ん……っ」

 あっという間に舌を絡めとられ、唇の隙間から甘い声が漏れる。息が乱れはじめ、体から力が抜けていく。そこで、ちゅっと音を立てて唇が離れた。
 目を開けると、陽王が熱のこもった瞳でじっと見ていた。
 何度も体を重ねたけれど、こんな目を見たのは初めてだ。自分が目を逸らしていただけで、陽王はいつもこんなに熱い眼差しをしていたのだろうか。
 もう一度、軽く口付けをして、陽王が珠月と呼ぶ。そして、静かに言った。

「抱きたい」

 もう何も考えられなくなってしまった。
 珠月はこくりと小さく頷いた。
 まるで生地獄。物も言わずに抱いてくれた方がましだと思う。このままでは、体を巡る血が沸騰してしまう。今にも顔からは火が、頭からは煙が出そうだ。
 唯一の救いは、照明が消えていること。よかった、明かりは月の光だけ。みっともない顔を見られずに済む。少し安堵して一息ついたとき、体がふわりと浮いた。

「あの……っ」
「何だ」
「じっ……、自分で歩きます」
「大人しくしていろ」

 珠月を抱きかかえて、陽王が一直線に寝台を目指す。
 ふたりとも、夜着を纏っているだけだ。珠月の緊張をあおるように、衣を通して陽王の体温や硬い体の感触が伝わってくる。

「扉を閉めないと」
「誰も来ない」
「でも……」

 何か話していないと、心臓が爆発してしまいそうだった。
 珠月を寝台にそっとおろし、陽王は珠月の髪を結っている組紐を解いた。そして、その組紐で自分の髪を襟首の辺りで器用に束ねた。
 珠月が、束ね損ねた横髪を耳にかけてやる。陽王は珠月の手首を捕まえて、手の甲に口付けた。そして、じっと、さっきよりも熱を増した瞳で珠月を見つめる。

「愛している。愛している、珠月」