story 01

 眠れない夜が、定期的にやってくる。

 ベッドに入っても寝つけず、やっと微睡まどろんだかと思ったら体がびくっと大きく震えてはっと目が覚める。決まって悪夢を見たときのような気持ちの悪い動悸がして、枕元の目覚まし時計を見ると30分も経っていない。それからしばらくは目が冴えて、また微睡んで……。それを繰り返して、ベッドの中でじっと朝を待つ拷問のような夜。
 当たり前だけれど、不眠は疲労となって確実に体と心に蓄積していく。

 専門の病院を受診して、カウンセリングも受けたし様々な種類の睡眠導入剤も試した。しかし、どれもまったく効果はなかった。

 おとといから、また不眠にさいなまれている。疲れて眠たくて、寝たいのに眠れない。心因的なものなのか器質的なものなのか。何であれ、睡眠不足を理由に仕事を休むわけにはいかず、業務は間違いと滞りのないように淡々とこなさなければならない。
 眠れないことが日々の疲れとストレスに増幅加算されて、体と心は限界に近付いていた。
 実は、不眠を解消する方法を、経験からひとつだけ学んでいる。

 それは、男と寝ること。

 セックスの後は、不眠の苦しみが嘘のようにぐっすり眠れる。
 不眠になったのは大学1年のときで、セックスが不眠を解消する手段だと気付いたのは大学卒業を控えた二月のことだった。たまたま不眠のときに、当時付き合っていた彼氏とセックスをしてそれを知った。

 自分は、セックス依存症とか何か特異な性質を持っているのかもしれない。そう本気で悩んだこともあった。けれど、カウンセラーによれば、それは否定的との事だった。

 心身の限界が近付くと、まともな思考を保つのが難しくなる。体調が悪くなる。感情をコントロールできなくなる。体と心が、手に握った砂漠の砂のようにさらさらと粉になるような恐怖に駆られる。
 どこかの国で戦時下に「眠ることを禁じられたとき人はどうなるのか」といった極めて非人道的な人体実験が行われたそうだが、その被験者の想像を絶する苦痛がよくわかるような気さえする。

 ――助けて。お願い、眠らせて。

 藁をもつかむ思いとは、まさにこのことだ。
 今夜は、小洒落たバーで相手を探そうと思っていた。睡眠導入剤よりも効果のある男。それも、お互い名前も連絡先も知らず、一回きりで終わる関係がいい。会話もそこそこにホテルへ行って、相手が先にシャワーを浴びるときもあればこちらが先のときもある。今夜は相手が先だった。

 ただ、この方法にはルールがある。
 相手の部屋なわばりには入らない。自分の根城アパートに連れこまない。日常の生活で関わりがある人とはしない。
 今まで、自分を守るための鉄則に違反したことは一度もなかった。それなのに、ここは相手のマンションの寝室で、よく見知った男に組み敷かれている。

「先生、やっぱりやめませんか?」

 廣崎ひろさきいろは、男の目をまっすぐに見すえて言った。思いっきりにらみつけてやったのに、先ほどから嬉しそうな笑みばかりが返ってくる。
 
「彩さんのその鋭い目、すごく好き。ぞくぞくしちゃう」

 くしゃっとほころんだ顔が、仔犬みたいにかわいい。
 彼が生まれ持った人徳のひとつだと思う。もとから親しみやすい雰囲気だけれど、笑うとたちまち他人の警戒心を解いてしまう。なんとも不思議な天性の魅力だ。

 いや、待って。仔犬ってなに。かわいいってなに。この状況で何を考えてるのよ、わたし!
 彩は正気を保とうと、両手で顔を覆って首を横にふった。

「手が邪魔だな。縛っちゃおうかな」
「……へ?」

 し、縛る? 見かけによらずサディスト気質なの? そんなこと、というか、女性関係の噂すら一度も聞いたことはないけれど……。
 困惑している間に、男が彩の両手首をブランド物の青いネクタイでひとつに縛って、満足気に頷いた。

「これでよし」
「……よ、よっ、よくありません! ほどいてください!」

 彩は全身で抵抗する。
 しかし、相手は細身とはいえ、180センチある25歳の健康な男子だ。力で敵うわけがない。ベッドが重たくきしんで、縛られた両手を簡単に頭の上で固定されてしまった。

「そうだよね、こんな面白くもなんともない縛り方じゃよくないよね。彩さん、ごめんね。次までにいろいろな縛り方を習得しとくよ」
「ち、違います。そうじゃなくて……。縛り方なんて習得しなくていいですから、その向上心は別で使ってください。それに、次ってなんですか?」
「嬉しいなぁ。いつもクールな彩さんしか見ないから、こういうの新鮮でいいね」

 話、通じず。

 彩は、ごくりと生唾をのむ。動揺のあまり失念していた。藤崎ふじさき仁寿じんじゅが、超ポジティブで鋼鉄の心を持っている、規格外に手強い男だということを――。

「……わたしたち、こんなことしちゃいけないと思うんです」
「僕たちだから、いいんじゃない。彩さん、僕の気持ちを知ってるでしょ?」
「それは……、半年前にはっきりお断りしたはずですけど」
「そうだったっけ?」

 記憶にございませんと、仁寿が白々しくとぼけながら服を脱ぐ。
 なに自然な流れで裸になってるのよ! と彩は心の中で叫んだ。そんな彼女も、素っ裸にバスタオルを巻いただけの格好なのだけれど。

 彩が仁寿からつき合ってほしいと言われたのは四月。彼が、新卒の臨床研修医として彩の勤める病院に入職してきてすぐのことだった。

「先生。わたしのこと、軽い女だって思ってません?」
「どうして?」
「わたしが、セックスの相手を探すなんて言ったから」
「嫌だな、僕をみくびらないでよ」
「みくびってはないですけど……」
「僕はね、6年も彩さんを想ってるんだよ」
「だからそれは」
「一度断られたくらいで簡単にあきらめられないし、嫌いになんかなれないよ」

 仁寿が、真剣なまなざしで彩を見つめる。
 彩は視線を絡めながら、仁寿を観察した。整った目鼻立ち。でも、かっこいいよりかわいいと形容したくなる顔。3歳年下で弟っていう感じなのに、今はどきっとするほど男らしい顔つきになっている。

 スイッチが入った獰猛どうもうな男の目。それに、ほどよく引き締まって均整のとれた男らしい体躯。性的衝動リビドーを刺激されて、体の奥がもぞもぞとしてじんわり熱くなる。

「僕の気持ちは少しも変わらない。彩さん、好きだよ」

 頬にやさしいキスがおりてくる。
 反射的に目を閉じると、下唇を軽く吸われた。小さな音を立てながら、ついばむように何度も吸いついて離れる。彼の唇は、とても気持ちがいい。ほとばしるような欲望を向けられるのも嫌いではないけれど、大切に慈しむような感じが彼らしくて安心する。セックスのときに、こんなに穏やかなキスをされたのは初めてかもしれない。ああ、と彩は納得する。

 ――これが、好きな人にするキスなんだ……。

 密着した唇の間から、舌が口の中に忍びこんできた。同時にごつごつとした男の手が、体に巻きつけたバスタオルをはいで脇腹をなでる。くすぐったくて、縛られた両手がぴくりとはねてしまった。彼の手は、そのまま肌の上を滑るように乳房に触れた。そっと包みこむように揉んで、指の腹で円を描いて乳首をいじる。

「……ふ、んっ」

 舌を絡めとられて、吐息につやのある声が混ざる。次第に乱れていく呼吸。その間も、手が肌をくすぐって、敏感なところを刺激して、時々じらしながら体を焚きつける。

 ちゅっとかわいらしいリップ音を立てて、唇が離れて順に体へおりていく。首から鎖骨。鎖骨からふたつの膨らみへ。そのすぐあとを追うように、硬い髪が肌をくすぐる。彼の髪からラベンダーと柑橘がふわりと香って、彩は深く息を吸いこんだ。