story 06

 仁寿のマンションに着いたとき、雨はすっかり上がっていた。
 車を降りた仁寿が大きなリュックサックを背負って、彩の荷物とウイスキーなんかが入った買い物バッグを両手に持った。
 彩は、仁寿のリュックサックに医学書や資料がぎゅうぎゅうに詰め込まれているのを知っている。以前、医局のテーブルに置かれていたそれを動かそうとして、その重さに驚いた事があったからだ。

「自分の荷物は自分で持ちます」
「いいよ、気にしないで。彩さんはそのバッグだけ持ってよ」
「でも」
「いいから」

 バックシートからハンドバッグを取って、彩は「すみません」と小さく謝った。

「彩さん」
「どうしました?」
「僕のポケットから鍵を出してくれないかな。両手が塞がっちゃって」

 こっちの、と仁寿が上着の右ポケットを顎でさす。
 だから荷物は自分で持つって言ったのに……。そう心の中で思いながら、相手の好意を無下にするようなことは言いたくなくて、言われた通りにポケットに手を入れた。

 深いポケットの奥で、指先に硬い金属が触れる。体温で温まった鍵。近い距離に緊張してしまう。

「あった?」
「はい。ご、ごめんなさい」

 何で謝ってるんだろう、わたし。
 慌てて鍵をつかむ。そんな彩を見て、仁寿が嬉しそうな笑みを浮かべながら「行こう」と言った。

 エントランスのひとつ目の自動ドアを通って、両手が塞がった仁寿の代わりに彩がオートロックを解除する。その先にある、ソファーと椅子、それからテーブルと観葉植物が置かれた広いホール。暖色の照明が照らす空間は上品で、まるで都会のホテルのよう。

 ふたりが中に入ると、集合ポストの前にスーツ姿の女性が立っていた。両腕に買い物袋と大きなバッグ、そして2歳くらいの子供を抱きかかえた若い女性だった。

 ちょっと待ってね。ごめんごめん、はいはい。
 グズる子供をあやしながら、女性はポストの中を必死にまさぐっていた。

「大丈夫ですか?」

 彩が声を掛けると、その女性は一瞬だけ驚いて申し訳なさそうにポストに視線を移した。どうやら、大きな茶封筒がポストの角に引っ掛かって取れないようだ。彩はそれを取ると、女性の了解を得て彼女の腕にさがった大きなバッグに入れた。

「ありがとうございます。助かりました」
「いえ、大変ですね。エレベーター、押しましょうか?」
「1階なので……」
「あ、そうですね。ごめんなさい」

 ポストに書かれた部屋番号を見て彩が気恥ずかしそうに笑うと、女性は「いいえ、いいえ」と笑顔で眉尻をさげた。
 涙目の子供が「ばあばい」と彩に向かって小さな手を振る。女性は何度か彩に会釈して、角を曲がって行った。

 可愛い男の子だった。だけど、ただ可愛いと思えるのは他人だからで、ママは大変なんだろうなと女性が消えて行った廊下を見つめる。

 見た目からは、年の差を感じなかった。もう8時を過ぎている。これから食事を作るのだろうか。仕事をして子供の世話をして家事をして。見ず知らずの人だけれど、頭の下がる思いがする。

「彩さん」

 仁寿の声に、はっと我に返る。彩は、慌てて仁寿に駆け寄った。

「悪いけど、僕のポストも開けてくれる?」
「はい、わかりました」
「番号はね、748だよ」

 言われた通りにダイヤルを回してポストを開けると、中には封書とはがきが数枚入っていた。職業柄、個人情報に触れるのは良くない気がして、住所や差出人を見ないようにそれを手に取る。

「ありがとう」
「いいえ」

 ふたりはエレベータで8階に上がった。そして、足音とビニール袋が擦れる音がこだまする廊下を、南の角部屋に向かって無言で歩いた。

「どうぞ」
「……お邪魔します」

 パンプスを脱いで、玄関の端にそろえる。
 二度目のはずなのに、まるで初めて来た場所のような感じがする。記憶はしっかりあるのに、景色とか時間とか、そういったものが曖昧でよく思い出せない。

「荷物は寝室に置くね。空いてる部屋はあるんだけど、掃除してないから今日は我慢して」
「今日は?」
「家の中、遠慮しないで好きに使ってもいいからね」
「……は、はい」
「彩さん、そこのスイッチ押して。浴槽って書いてあるボタン」

 彩の着替えなんかが入ったバッグを寝室に置いて、仁寿が向かいの壁を指差す。彩は、つい条件反射で「これですか?」とボタンを押して、しまったと内心で焦った。
 不眠で眠れないときは思考回路がおかしくなってしまうけれど、今はそうじゃない。ハイボールをジョッキ2杯飲んだけれど、それくらいじゃ酔わない。

「10分くらいでお湯がたまるから、先にお風呂入ってね。それまで、リビングでゆっくりしてよ」
「あの、先生。部屋に来ておいて今さらなんですけど」
「何?」
「……本当に、あの日のことは忘れていただけませんか?」

 彩さん、と気落ちした顔で仁寿が肩を落とす。ちくりと胸が痛んで、彩は深く反省した。
 わたしの優柔不断な態度が先生を傷つけてしまった。最初から間違っていた。セックスなんてしちゃいけなかったし、今日だってちゃんと断るべきだった。ちゃんとここで、はっきり言おう。

 ごくっと喉を鳴らして、彩が「先生」と呼ぶ。同時に、仁寿が鳩尾みぞおちをおさえながら顔を上げた。

「僕ね、すっごくお腹が空いてるんだ」

 ああ、そうか。わたしが由香と食事している間、先生は仕事をしていたんだ。一瞬、申し訳ない気持ちになって、すぐに思い直す。

 ちょっと待って。
 会話が噛み合ってないんですけど!