story 07

「低血糖で倒れちゃいそうだよ。ほら、彩さんもこっちに来て」

 仁寿は彩に微笑んで、買い物袋を片手にリビングへ向かった。後ろから足音がついてくるのを確認して、リビングの照明をつける。

 危ない、危ない。
 「今日はもう帰る」どころか、ふられそうな流れだった。普段の彼女を見ていればわかる。相手が誰でもダメなことはダメだって毅然と言うし、中途半端に機嫌を取ったり迎合したりしない。

 セックスしたからって、簡単に事が運ぶほど彩さんは簡単じゃないんだ。だから、彼女が初めて見せた隙を逃したくない。絶対に。

「ソファーにでも座って。こっちのテーブルでもいいよ」

 キッチンで手を洗いながら仁寿が言う。彩はハンドバッグをダイニングテーブルの椅子に置いて、上着を背もたれに掛けた。それから、カットソーの袖をまくって仁寿の隣に立つ。

「彩さんって、気遣いが上手だよね」

 彩は、何のことかわからずにきょとんとした。泡まみれの手をぬるま湯で流した仁寿が、立ち位置を彩に譲って新しいタオルを後ろの棚から取る。

「ほら、さっきの。病院でもそうだけど、彩さんって声を掛けるときのトーンとか表情をちゃんと考えてるよね。普段の颯爽とした雰囲気が嘘みたいに、すごく優しい」
「そうですか?」
「よく気が付くし、思いやりを行動に移せるって素晴らしいよ」
「たいした事じゃないです」
「誰にでも出来ることじゃないと思うけどな」

 はい、と渡されたタオルを受け取って洗った手を拭く。その阿吽の呼吸というか、自然な感じが何だかむず痒い。

「ハイボールは、お風呂あがってから作るね。グラスを冷凍庫で冷やしておくよ」
「いえ、今日はもう」
「北川先生とたくさん呑んだ?」
「2杯しか呑んでないですよ。酔ったんじゃなくて、もう時間が遅いので」
「まだ8時半だよ。少しくらい、いいじゃない。もうそろそろお湯張り完了のアラームが鳴るから、彩さんはお風呂入って来なよ。僕はその間にご飯を食べようかな」

 仁寿がごそごそと、キッチンに置かれた半透明のレジ袋からウイスキーとライム、玉葱、豚のこま切れを順に取り出す。

「先生、自炊してるんですか?」
「うん。高校の時から一人暮らししてるから結構するんだよ、料理」
「へぇ……、高校の時からですか?」
「高校が実家から遠くてさ、とても通学できる距離じゃなかったんだ」
「寮とかは?」
「あったけど、何となく嫌でね。父に頼んで部屋を借りてもらって……って、あれ? もしかして彩さん、僕に興味津々?」
「ちっ、違います。変な言い方しないでください」

 短いメロディーが軽快に流れる。彩が思わず後ずさりすると、ゆっくり浸かって来てねと満面の笑みが返ってきた。

 数日前と同じように、体を洗って髪を洗って、湯船の中で膝を抱える。
 一人暮らしの男性の家に行ったのは、大学生のときが最後だ。狭いワンルームは物が散乱していて、小さなキッチンもユニットバスも掃除がまったくされてなかった。トイレに座るのにも気が引けて、一刻も早く帰りたいって思ったのを覚えてる。

 それから相手の部屋なわばりには立ち入らない誓いを立てて不眠を解消してきたから、その他は知らない。

 でもここは、新しいマンションだというのを抜きにしても、玄関も廊下もリビングも、余計な物がなくてきれいに片付いてる。病院にいる時間の方が長いはずなのに、一人暮らしをするには広いこの家をいつ掃除してるんだろう。

 そうじゃなくて……。
 考えなきゃいけないのは、先生の生活じゃない。どうやって切り出せばいいんだろう。かびひとつ生えてない浴室を見回して、彩は深いため息をついた。

 浴室を出て、彩が髪を乾かしてリビングに行くと、仁寿は食器を洗っている最中だった。あれこれ考えて長湯している間に、彼は夕食を作って食べ終わってしまったようだ。

 ――おかず、何を作ったのかな。

 彩はキッチンカウンター越しに、造り付けビルトインのIHクッキングヒーターに乗ったままのフライパンを覗く。

「待ってね、すぐハイボール作るから」
「いえ、別に急かしているわけでは……」
「彩さんの好みの分量は?」
「1対2でお願いします」
「了解」

 洗いだ食器を水切り棚に立てて、仁寿が冷凍庫からグラスを出す。鮮やかな青いマーブル模様が印象的な可愛いグラスだ。

「素敵な色ですね。きれい」
「彩さんは、青が好きなの?」
「そうですけど……。どうして分かるんですか?」
「バッグも青だし、彩さんの家も小物とかカーテンとか青が目立ってたから」
「単純ですよね」
「そんな事ないよ。クールな彩さんに似合ってる。このグラスはね、スウェーデンで見つけて一目惚れした物なんだ。彩さんに出会う前……、高校生の時の話だから、運命的なものを感じるね」

 彩の目の前で、仁寿が手際よくライムを切って手で搾る。ごつごつとした指の間から染み出した果汁がグラスに滴って、柑橘の爽やかな香りが漂った。搾り終わると、果汁の上に丸氷が落とされた。
 スコッチ・ウイスキーを入れてマドラーでかき混ぜる。そして、炭酸水をグラスの淵に這うようにそっと注いで、最後に一回だけ縦にマドラーを動かす。
 素人がハイボールを作ると、大抵は順序が滅茶苦茶になったり炭酸水の注ぎ方が雑になるのだけれど、仁寿の手順は完璧だった。

「ハイボールの作り方をよくご存知ですね」
「まぁね。はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「ソファーでゆっくり呑んでて。僕はお風呂に入って来るね」

 ソファーの端に座ってだだっ広いリビングでひとり、ぎんぎんに冷えたハイボールを口にする。ウイスキーの芳醇な香りが、鼻腔を突き抜けた。冷たさも炭酸の弾け方も、お店で飲むものと遜色ない。いや、それよりもはるかに美味しい。

 仁寿は、20分くらいでリビングに戻って来た。普段の服とは違って、部屋着姿に心臓がどくんと脈打つ。ウィスキーのアルコール濃度が高い所為よ、と彩はグラスに半分残ったハイボールをぐいっと喉に流し込んだ。

「北川先生から酒豪だって聞いてはいたけど、ペースが早いね」
「酒豪って……。先生、由香とどんな話しをしてるんですか?」
「まぁ、それはいいじゃない。2杯目いれようか?」

 そう言いながら、仁寿が彩の隣に座る。
 ソファーもっと幅ありますよね、とつっこみたくなるほど近くに座られて、思わず不自然に横に移動する。

「いえ、もう結構です。とっても美味しかったです。ご馳走様でした」

 彩は、グラスを片付けようと立ち上がった。すると、手首をつかまれて、後ろに倒れるようにソファーに尻もちをついた。驚いて、心臓がバクバクとおかしな律動を刻む。
 仁寿が彩の手から空のグラスを取って、テーブルの上に静かに置いた。

「ねぇ、彩さん。キスしてもいい?」
「だめです」
「ごめん、言い方を間違えちゃった。キスするね」

 え? 状況と先生の言ってることがよく理解できない。
 待ってください、と言いかけて、逃げる間もなく顎をつかまれる。AEDの講習で気道確保された心肺蘇生訓練用人形みたい上を向かされて、荒々しく口を塞がれた。

「……ふっ、んんっ!」

 一度目の優しいキスとは全然違う獰猛さに、彩は息を乱しながら仁寿の胸を叩く。けれど、下顎挙上法で首を急角度でロックされて、抵抗しようにもできない。

 ――何これ、こんな事に使っちゃいけない技じゃないの!

 卑怯者! と心の中で叫んでもがいている間に、歯列を割って舌が口の中に滑り込んできた。腰を引き寄せられて、舌が絡んだままソファーの上で体が仰向けに倒れた。