story 08

 キスは深くなったり浅くなったりを繰り返して、彩が息も絶え絶えになった頃にようやく唇が離れた。
 はぁ、はぁ。キスの後に、こんなに色気のない呼吸をしたのは初めてだ。先生が相手だと、自分が段々と変になる。

「どんな彩さんも好きだけど、余裕のない彩さんはすごく可愛い」
「恥ずかしいことをさらりと言わないでください」
「ねぇ、彩さん。そうやって顔を赤くされるとキスだけじゃ済まなくなるよ。僕は今、必死に理性を保ってるんだからね」

 仁寿が彩の腰に腕を回して、ゆっくりと体を一回転させる。視界が反転し、二人の体がソファーからフローリングに転がり落ちた。
 彩は、「いたたたた」と体を起こしてぎょっとする。きっ、騎乗位――! いや、脱いでないし未挿入だから、跨っているだけなんだけど。落ち着け、わたし!

「ああ、いい眺め」

 笑顔の仁寿に、下から腰で小突かれる。ふたりの間で、仁寿のはすっかり硬くなっていた。

「やっぱり、わたしのことを軽い女だって思ってるんですね」
「何でそう思うの?」
「だって……」
「6年も片想いするほど好きな女性ひとがそばにいるんだよ。抱きしめたいしキスしたいし、セックスもしたい。それって、自然なことだと思うけど?」

 どうして、セックスって愛の行為と翻訳されるんだろう。
 うんざりする。好き、彼女、そんな言葉を免罪符に、ただ性欲を満たすだけじゃない。

 行きずりの男たちは、後腐れがなくていい。二度目は無いと思うと、思いっきりセックスに集中できる。どんなに恥ずかしくてイヤラシイことも、時には痛みすら、すべてが疲れ切った頭と体、心を無にしてくれる。本能に備わったセックスで得る快感は、人畜無害の睡眠薬。病院に行く時のように税金だって使わないし、避妊さえちゃんとしてれば……。

 ――最低。

 わかってる。誰よりも自分が一番、最低な事をしてるってわかってる。他に不眠を解消する方法があるのならやめたい。そして、また誰かを好きになって恋愛をしてみたい。だけど、怖い。好きっていう胸が熱くなるような言葉を信じて、誰かに寄りかかって、またそれを失うのがとても怖い。

「ねぇ、彩さん」

 仁寿が彩を乗せたまま、よいしょと上半身を起こして「いつ、手術したの?」と言った。意味が分からず、彩は目を見開いた。

「どうして、知ってるんですか?」

 右の卵巣に腫瘍が見つかったのは2年前の梅雨。
 初めての婦人科で、緊張してドキドキしながら子宮頸がん検診を受けた。こっちの恥ずかしさを完全に無視して、機械的に開脚させる内診台に危うく失神しそうになった。

 父と変わらない年頃の医師が、カーテンの向こうで膣に器具を突っ込んで粘膜を採取する。それから子宮と卵巣も見ると言って、エコーを挿れた。エコーの先端でぐりぐりと中を探られるのは、正直言ってちょっと痛かった。
 その後の診察で医師に言われたのは、子宮頸がんの検査結果が出るまでに日数がかかることと、右の卵巣が少し腫れているという事だった。

「若い女性に多いんですよ。子宮内膜症のひとつでね、右の卵巣に嚢胞のうほうができてる。大抵、問題は無いんだけれど、念の為に大きな病院に紹介しますね」
「嚢胞って何ですか?」
「血液とかが溜まった袋です。手術してそこだけくり抜いてしまえば、卵巣自体は取らなくて済むから心配しなくてもいいですよ」

 自覚症状なんて無かったし、婦人科でも心配しなくてもいいと言われていたから、紹介された病院を受診したのは検診を受けてから2ヶ月くらい後だったと思う。そこで造影CTとかMRIとか、詳しい検査をしてもらったら、ただの嚢胞じゃなくて腫瘍だった。

 悪性ではないけれど、良性でもない。今は基準が細かくなったから、良性と判断しても問題ない程度だけどね、境界型でした。あと半年、1年後だったら深刻だったかもしれない。早く見つかって良かった。
 手術した医師が、退院する前日の病状説明でそう言った。
 病気のことは、両親と親友の由香、それに職場の上司と総務の人しか知らないことだ。

「由香に聞いたんですか?」
「北川先生は、絶対にそんなこと教えてくれないよ。彩さんの部屋に検査の予約票があったから」

 しまった、と内心で後悔する。根城アパートは、時々、気心の知れた女友達が遊びに来る程度の完全なプライベート空間だ。予約票の存在なんて、気にも留めてなかった。

「……そう、ですか。でも、先生にお話しする必要はないですよね」
「きついこと言うなぁ」
「……すみません」
「夕飯食べながら、予約票に書かれてた病名を調べたんだ。傷、目立たないね。全然気が付かなかったよ。腹腔鏡で手術したの?」

 彩が、こくりと小さく頷くと「そっか」と抱きしめられた。
 おおらかで優しくて、笑顔なんて可愛らしいと思ってしまうのに、力も体つきも男らしくて年下だということを忘れてしまう。

 由香が言っていた通り、先生はすべてを受け止めてくれるのかもしれない。でも、そんな聖人君子みたいな人って存在する? それに、先生はこれからたくさんの人に出会って、必ずふさわしい人を見つける。
 わたしは、どうしたらいいんだろう。

「彩さんから僕と同じ匂いがする」
「それは……、シャンプーとかいろいろ、図々しいと思いながら使わせていただきましたから」
「幸せだなぁ」
「大袈裟じゃないですか?」
「そんな事ないよ。毎日こうやって彩さんを抱きしめられたらもっと幸せなんだけど」
「先生がどう思っているのか知りませんけど、わたしは良い人じゃないですよ。毎日一緒にいたら、きっとすぐに嫌いになります」

「試してみる?」
「はい?」

「来月から院外研修だから、彩さんと離れ離れになるでしょ? 面談とかで顔を合せることはあるんだろうけど、仕事のほんのちょっとした時間しか彩さんに会えないなんて嫌だし、丁度いい機会じゃない」
「おっしゃってる意味がちょっと……」
「一緒に住もうよ、ここで」
「嫌です」
「どうして嫌なのか、理由は聞かない。ねぇ、彩さん。僕から逃げるなんて無理なんだから、もう諦めてよ。ね?」

 待って、待って。頭が全然追いつかない。
 彩は、慌てて顔を上げて仁寿を見た。くしゃっとほころんだ顔。仔犬のように可愛くて優しい先生。病気の重たい話をしたはずなのに、服越しに触れる股間は相変わらず臨戦態勢で。
 恋愛についてのシリアスな我が心の声が、間抜けに思えるのは間違いない。それに、えっと、一緒に住むってどういう事?

 ごくん。
 生唾を飲み込んだ拍子に、首が上下に揺れる。

「もう寝る時間だ。彩さんの了承も得たことだし、ベッドに行こうか」

 違うんです、先生。了承の頷きじゃなくて生唾を、なんて説明文は声にならないまま喉の奥に流れていった。