第16話 宮様の愛猫(3)



❖◇



 泣き腫らした沙那のまぶたが本来の色味と二重をどうにか取り戻したのは、主寝殿に燃ゆる赤い西日がさし始めた頃だった。

 夏のやしきから、八条宮と沙那が帰って来てかれこれ一刻ほど。
 沙那は主寝殿に留まって、八条宮の傍で縫物に没頭している。特製の下穿きが思いのほか八条宮に好評だったので、早く六枚目を仕上げようと驚異の集中力で針を動かす。

 八条院の主寝殿に勤める女房というのは、八条宮が内裏を離れるに際して、先帝が女官の中から選りすぐった者たちばかりだ。当然、彼女たちは八条宮が元服した当時をよく知っている。しかし、親王の穢れに触れるは一大事と心得て、あの夜の出来事や夏姫についてのあれやこれやを口にする不届き者はひとりもいない。

 そして何より、彼女たちは気配りと心遣いの達人プロだった。沙那が北の対屋に戻らずに主寝殿に留まったのも、彼女たちからの進言があったからだ。

 北の対屋には小梅がいる。今朝、空っぽの御帳台を見た小梅は、姫様がいなくなったと取り乱した様子で右往左往していたのだとか。騒ぎに気付いた主寝殿の女房が、北の方様は宮様の御寝所におられると知らせてどうにか大事おおごとにならずに済んだという。

 そんな彼女が沙那の涙の跡を見たら、心痛で倒れてしまうのではないかと主寝殿の女房たちは案じた。それで沙那を主寝殿に留め置いて、北の対屋に裁縫道具一式と縫いかけの下穿き第六番を取りに行ってくれたという訳だ。


 一方の八条宮はというと、難しい顔でひとしきり考え込んだあと、一心不乱に文などをしたためている。

 沙那の涙と洟水はなみずに濡れたお気に入りの袿は、年配の女房が呆れた顔で持って行ってしまった。
 八条宮は単衣ひとえ指貫さしぬきだけの格好で、部屋を素通りするように好き抜ける秋の涼し風に吹かれている。着るものなど他にも沢山あるのだが、今は少し肌寒く感じるくらいが丁度よいのだ。

 八条宮の視界の隅っこで、沙那の手が止まって顔がこちらを向く。


「あの、依言様」
「なに?」
「……真剣な顔をして、どなたに宛てて書いているのですか?」


 沙那が盗み見るように文机を覗くと、八条宮が筆を置いて「あなたに」と紙の向きを変えた。沙那は持っていた布地と針を置いて、目を輝かせながらすすっと二、三歩膝を進める。そして、文机に両手を伸ばして紙を手に取った。


「これは……?」


 紙には、山桜の花と「淡泊」という文字が書かれている。


「刺繍の図案だ。あなたの浮気対策に、微力ながら協力しようと思ってね」
「真面目な御顔で……、まさかこのような物をお書きになっていたなんて」

「なかなか難しいものだな。あなたの機転には敵わないが、どうであろう。淡泊な男は敬遠されるだろうし、俺も自尊心が傷つくから誰にも見せたくない」

「自尊心が傷つくって……。えっと、淡泊というのはどういう……」
「深くは考えずともよい。これは、単なる下穿きの刺繍なのだから」


 ふふふ、と沙那は紙で口元を隠して笑い声を上げた。墨のほのかな香りが、清々しく鼻の奥に流れて来る。笑ながら「採用いたします」と言うと、八条宮はまんざらでもない様子で頷いた。


「それにしても、依言様は絵心もあって御姿どころかお手蹟まで美しい……。こちら、いただいても宜しいですか?」
「あなたに書いたのだから、構わないよ」

「わたし、待ち伏せを始める前に半年くらい御文を依言様に送り続けたのですが、一度もお返事を頂けなくてですね……。いつか依言様直筆の御文をもらえたらって夢見ていたのです。なので、こちらを宝物に致します」

「……そうだったのか。それは悪い事をしたね。実は……、女性から八条院に送られてくる文は、俺の手元には届かないんだ」

「どうしてです?」

「左近に、受け取ったらすぐ燃やせと言い付けてある。どうせ、中身は鬱陶しい恋歌だろうから読むのが億劫でね」



 ぐっさーっ。



 これは刺さる。む、胸が痛い。刺さるどころか、乙女心が一瞬で一刀両断よ! 無慈悲と辛辣を極めて鍛え上げられた、強靭な言葉の刃だわ!


「だが、あなたの文は読んでみたかったな。きっと、にわかファン達とは一味違ったのだろうね」
「え、あ……、そっ、それはもちろん……」


 鬱陶しい恋歌ばかりを書きまくりましたよ。確かに、その辺のにわかファンと一緒にしないでと言ったけれど、書くに決まってるじゃありませんか。好きなんだから……っ!



 くうっ。



 淡泊と言う文字を見つめる目が、じんわりと熱くなる。半年間、一日も欠かさずに送り続けたわたしの文は、依言様の目に触れてもいなかった。だから、一度も返事が来なかったんだわ……。切ない、泣きそう、と意気消沈して沙那はふと思う。


「ということは、依言様が御文を交わしたのは夏姫様だけ?」


 思わず、心の声がそのまま口から出てしまった。沙那が「すみません」と肩をすくめると、八条宮が優しい声で「そうだよ」と答えた。



 なんだ。



 目の奥に集まっていた熱が引いて、沙那の顔に華やいだ笑顔が浮かぶ。恋の噂は数えきれないほど耳にしたけれど、なんて誠実な御方のかしら。やっぱり、依言様は素敵よ。

 沙那は、慈愛のまなざしで図案を見つめる。すると、沙那の笑顔をしばらく堪能した八条宮が、女房を近くに呼んで床入りの用意をするよう申し付けた。

 そうだった……。夏の邸で囁かれた言葉を思い出して、沙那の頬がぽっと赤く染まる。


「沙那。北の対屋で食事をして、身を清めたら俺の寝所においで」
「……は、はい」

「迎えは寄越さないから、あなたが良いと思う頃合いに」
「宜しいのですか? 少し……、お待たせしてしまうかもしれません。こ、心の準備が……」

「構わないよ。あなたは、ずっと俺の帰りを待っていてくれただろう? それに比べれば、どうということは無い」


 沙那が北の対屋に帰って少し経った頃、今度はナギが主寝殿にやって来た。
 外を歩いていたのか、体のあちこちに枯れ葉がくっついている。八条宮はナギを抱えると、きざはしをおりてくつを履く。そして、薄暗くなった庭を、夏の邸に向かって歩いた。


「みゃぁ」


 足の先を舐めて、ナギが鳴く。
 日が沈むと、秋はぐっと深みを感じさせるように外気を冷やす。単衣と指貫だけの軽装では、さすがに寒い。

 夏の邸に着いた八条宮は、火付けの道具と手燭、それから夏と交わした文を仕舞ってある文箱ふばこを持って庭に立った。何気なく空を見上げると、澄んだ空気に秋らしい月が煌々と輝いていた。


「みゃお」


 ナギが甘えるように鳴いて、八条宮の足元に体をすり寄せる。ナギは、夏が二条の河原で拾った猫だった。親とはぐれたのか、橋の袂で「みゃぁみゃぁ」とひっきりなしに鳴いていたそうだ。


 『ほら、見て。この子、月宮つきのみや様と同じ瞳の色をしているの』


 ナギを抱いた夏が、そう言って嬉しそうに笑ったのをよく覚えている。夏は、ナギをとても可愛がっていた。夏によく懐いて、夏の傍を離れなかったナギ。元服当夜、ナギは夏と一緒に淑景舎しげいしゃに来ていた。そして、出来事の一部始終を金色の眼でしっかりと見ていた。


「お前が人の言葉を話せたなら、夏を害した者をあの場で捕らえられたのに……」
「みゃお」
「だが、今となってはどうしようないな」


 死ぬまで、胸に秘めておく事もできた。椿餅の秘密を話したかったのだが、夏の存在を知って沙那は傷ついただろう。

 八条宮はしゃがんで手燭に火を灯すと、文箱から夏姫の文をひとつ取って火にかざした。西日のような赤い炎に炙られ燃えて、炭になった紙の破片がひらひらりと、死者の魂を富士の尾根に導くと言う黒蝶の羽ばたきのように宵の宙を舞う。夏姫の文は無重力にふわりと浮いたあと、あっという間に散り散りになって消えた。



 ――今でもあなたが恋しいよ、夏。



 あなたを忘れる日は絶対に来ない。けれど、あなたへの未練を断とう。沙那は、あなたのために泣いてくれた。あなたを想いながら沙那を抱くのは、沙那の純真を踏みにじる蛮行だと思うから。

 今ここで、あなたと永遠とわの別れをするよ。神仏の怒りを買って、もう二度とあなたとは巡り合えないかもしれない。それでも、これ以上沙那を傷つけたくないんだ。

 思い出の欠片が、ひとつ、またひとつ、喪色の花弁になって散ってゆく。
 八条宮は、文をひとつずつ時間をかけて燃やした。その間、ナギは八条宮の傍らに香箱座りをして、その様子をじっと見ていた。空っぽになった文箱の蓋を閉めた八条宮の手が、ナギの頭をくしゃりとと撫でる。


「この前は餌を抜いて悪かった。お前には、礼を言わねばならないのに」
「にゃあ」
「あの夜、お前が沙那を驚かしたお陰だ。ありがとう、ナギ」


 文箱に押し込められていた文は、片手に乗るくらいの灰と化した。それに庭の白砂を被せると、八条宮は文箱を邸内に仕舞って夏の邸をあとにした。

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