第19話 秋陽に燃ゆ



「ねぇ、沙那。少し……、脚の力を緩めて」


 唇を食みながら、八条宮が動き始める。腹の、どこかわからない奥まった深い場所を掻き回されて、体に恐ろしいくらいの熱が蓄積していくのを感じて、沙那はより一層強く八条宮にしがみついた。こうするより他に、遣り様が分からないのだから仕方ない。
 唇が離れて、吐息に紛れた優しい声が聞こえた。名前を呼ばれたのだと思う。



 ――大好き。



 そう言いたいのに、口から出るのは恥ずかしい喘ぎばかり。呼吸が苦しくて、何がどうなっているのか理解できなくて、痛くて、気持ち良くて、嬉しくて……。
 体を揺さぶられる毎に、意識が伽羅の香りと耳元に聞こえる細切れの吐息に包まれて、徐々にもやの中へ散ってゆく。

 やがて沙那は、体をびくんと震わせたあと、八条宮にしがみついたまま意識を手放した。気をやっても八条宮を手放さないあたり、さすが沙那である。





◆❖◇◇❖◆





 朝鳥の甲高い鳴き声に、沙那はうっすらと目を開けた。朧な視界に白木の梁が見えると同時に、全身の鈍い筋肉痛とあの場所にはっきりとした違和感を感じる。体が、水底に沈んだ鉛のように重たい。それに、下腹部が月の障りの時みたいに痛む。

 両手で円を描くように下腹部をさすって、ゆっくり深呼吸する。すると、蟀谷こめかみに何かがこつんと当たって、沙那は大きく瞬きして体を硬直させた。



 ――そうだった。



 昨夜の事がありありと思い出されて、寝起きの心臓がばくばくと暴れだす。
 蟀谷にくっついているのは依言様の御鼻で、すぐ近くに聞こえるのは依言様の寝息。それに、上掛けの袿を被っているから見えないけれど、胸の上には依言様のものと思われるしなやかな腕が乗っかっていて。言わずもがな、ふたりとも全裸で……。あと、依言様側の大腿骨のあたりに当たっている、異質な感触のモノの正体には……、うん、触れずにおく。



 ――あぁ……。とうとう、わたし……!



 恥ずかしくてどうしようもないが、体の気怠さや痛みは名実ともに妻になれた証だ。沙那は、胸の上に置かれた八条宮の腕にそっと手を添えると、ふふっと嬉しそうな笑みをこぼした。実に喜ばしく、真に幸せな朝だった。


 その日、八条宮はいつもより遅い刻に目を覚まし、共寝の余韻もそこそこに、慌ただしく身なりを整えて八条院を出て行った。御所へ馳せ参じるよう、帝の使いが八条院を訪ねてきたのだ。沙那は、束帯姿の凛々しい背の君をにこやかに送り出して、女房たちと縫物に勤しむ事にした。

 秋の更衣が済むと、数日虫干しした夏の衣を女房たちがひと針ひと針丁寧に直していく。これは沙那がすべき仕事ではないのだが、手先を使う作業が好きだし、女房たちとのお喋りはとても楽しいので、沙那はいつもこうして女房の輪に加わっている。

 たたみ積まれた衣の山から八条宮が夏に着用していた束帯の袍を手に取って、沙那はほんのりと頬を染めた。

 雲鶴の紋様が織り込まれた、向こうが透けて見える軽やかな黒染めの顕文紗けんもんさ。目を閉じれば、射干玉ぬばたまの黒き御衣みけしを身に装って、宮中を優雅に歩く依言様の姿が浮かぶ。



 ――今日は、早く帰って来てくださるといいなぁ。



 どうしよう。依言様を好き過ぎて、袍まで愛おしく思えちゃう。
 八条宮の衣を抱きしめる沙那に、小梅や八条院の女房たちがあたたかな視線を向ける。さらりと乾いた風に乗って、どこからか覚えのある香りがやんわりと漂ってきた。食欲をそそる、桜餅に似た香りだ。

 沙那が目を開けて部屋を見回すと、文机の上に摘んだ藤袴が活けてあった。沙那は、群なす紫の小さな花弁に秋の深まりを感じながら、裁縫道具の針山に手を伸ばした。



 同じ時分、八条宮といえば。中殿の御座おましで、帝と向かい合っていた。繧繝縁うんげんべりの畳に座す帝が、ふぅと重たいため息をつく。繧繝縁の畳に座れるのは、帝と神仏だけである。いつもは仏の如く穏やかな御顔をなさっている帝だが、今日はいつもと様子が違う。脇息に肘をついて頭を抱え、眉間に皺まで寄せておられる。

 悩んでおられるのか、不機嫌なのか。いかがなさいましたと、ひと言尋ねればよいのだが、人払いをしてある御座の空気が重たくて、何となく言い出せない。八条宮は、主上が話し始めるのを待つ事にした。

 しかし、いくら待っても、帝は時折ため息をつくばかりで一向に口を開かない。沈黙の時間が続くうちに日差しが強まって、部屋がほのかに温まってきた。昨夜の余韻が抜けきれない体に、睡魔が忍び寄る。そしてついうっかり、八条宮は大きな欠伸をしてしまった。


「疲れているようだね、依言」
「あ、いえ」


 八条宮が居住まいを正して「大変失礼を」と頭をさげると、先ほどまで険しかった帝の顔が緩んだ。


「構わない。私とそなたの仲ではないか。確か……、昨日は物忌みだったね」
「ええ、まぁ……」


 たおやかな所作で御笏おんしゃくの先を口元に寄せた帝は、バツが悪そうに目を伏せる弟宮を真っ直ぐに見て、さらに表情を崩して軽やかに笑んだ。その表情に、八条宮はどきっとする。真面目で柔和なご尊顔に浮かぶは、げに意地の悪い企みの影。兄宮は時々、人を困らせる悪戯いたずらを思いつく。


「疲れているのなら、雷鳴壺かんなりつぼで一休みするといい」


 雷鳴壺とは内裏にある七殿五舎のひとつで、正しくは襲芳舎しゅうほうしゃという。
 今上帝に妃は三人しかいない。先帝の御代では八条宮の生母が賜っていた藤壺を過ぎて、さらに梅壺の先。帝のお住まいから離れた場所にある雷鳴壺は、当代では未だ主に恵まれないまま、今上帝に許可された古参たちの曹司ぞうしとなっている。


「そなたが宮中から遠のいていたひと月、雷鳴壺の姉君たちが華やぎに欠けると嘆いていたよ。昼寝ついでに顔を見せてあげなさい。きっと喜ぶ」


 雷鳴壺の古参は、帝や八条宮が幼かった頃に花盛りだった者たちで、今は要職を退いてのんびりと日々を暮らしている。気心の知れた者ばかりだから余計な気を回す必要がなく、若い女官が古参たちを恐れて滅多に近付かないので、我が邸のように気兼ねなく寛げるのだ。

 時々、帝もそこへこっそりと逃げ込んでは、白髪の姉様方に愚痴のようなものをこぼすのだとか。
 もちろん、宮中に於いての守秘義務は厳守されていて、古参たちは八条宮にさえ主上の愚痴の内容までは語らない。


「宜しいのですか?」
「宜しいから進言申し上げているのだよ、依言」


 帝の笑みが気になる。しかし、程よい陽射しがさしこむ刻に、雷鳴壺の畳に寝そべって微睡むのは大変心地よいだろう。八条宮は、有難く兄宮の好意に甘える事にして、主上に深々と一礼して席を立った。御前を辞する八条宮の背に、書類の整理が済んだら私も雷鳴壺へ行くよと帝が言った。


 中殿を出てひさしの端から空を仰ぐと、清々しい秋晴れの青が果てしなく広がっていた。次いで庭に目をやると、夏色から乾いた褐色に変色した植木が見えた。

 中殿から北は、帝の妃が住む区域だ。檜皮葺ひわだぶきの重たい色合いの屋根を被った白木造りの殿舎が並び、殿舎と殿舎がろうで結ばれている。

 なぜ禁裏をこのような造りにしたのか、幼い頃は不思議で仕方がなかった。しかし、八条院に移った今では、それもどうでもよい事だ。先帝の御意思で親王となったが、主上が皇子に恵まれれば御役御免。元より帝位を望まなかった身である。今後、ここに住む予定もつもりも一切ない。


 ――梅壺を通ってゆくも良いが、折角だから秋めいた庭をそぞろ歩いてみるか。


 八条宮は典侍ないしのすけくつを用意するよう申し付けて、中殿のきざはしをおりた。そして、右手に持っていた象牙のしゃくを懐中に挟んで、床に引きずっていた下襲したがさねきょを左腕に掛ける。

 しばらく待っていると、典侍が沓を手に戻って来た。典侍とは帝に近侍する高位の女官であり、普通の公卿が「沓をここへ持て」などと気軽に頼める相手ではない。
 典侍が、宝玉か何かのように白布に乗せた沓を階の袂に置いて、八条宮が履きやすいように向きを揃える。


「襲芳舎へ参られるそうでございますね。主上にお聞き致しました」
「ああ」
「わたくしが裾をお持ち致しましょう」
「必要ない」
「されど、親王様がそのような成で内裏をお歩きになられるのは、はしたのうございまする」


 典侍の言う通りだ。しかし、八条宮は典侍を無視して沓を履くと、庭におりて雷鳴壺を目指した。弘徽殿の前を通って、次に藤壺の方へ向かって植木の間を脇道にそれる。本当は花々を愛でながらゆっくりと歩きたかったのだが、八条宮に気付いた女官たちが騒ぎだしたので、結局は秋を満足に堪能できないまま雷鳴壺についてしまった。

 帝が先触れを出していたようで、雷鳴壺では古参たちが顔をそろえて八条宮を待ち構えていた。平緒を解いて飾剣をはずし、袍まで脱いで、日当たりのよい離れの局にごろりと横になる。
 本当はもう少し楽な格好になりたいのだが、下襲まで脱いでしまうと「愛妻家」の文字が刺繍された下穿きを古参たちに披露してしまうので我慢した。



 ――効果抜群の浮気対策だな。



 古参が用意した上掛けの袿を肩まで被って、目を閉じる。今頃、沙那はいつものように女房たちと仲良く縫物でもしているのだろうか。いや、もしかしたら俺と同じように昼寝をしているかもしれないな。昨夜を思い出して、ついつい顔が緩んでしまう。

 朗らかで優しくて。何をするにも一生懸命で、必死で。沙那を思う時、浮かぶのは笑顔ばかりだ。早くに母親を亡くしたと言っていたが……。
 昼寝に最適の気候が、意識を眠りへと誘う。八条宮は微睡んで、すうっと眠りに落ちていった。


 八条宮が寝入って、どれくらい経っただろうか。局に、ひとりの女が入って来た。古参たちは皆、八条宮の昼寝を邪魔しないように離れた部屋にいる。女は周囲を警戒するように見回して誰もいない事を確認すると、横たわる八条宮のそばに腰をおろした。


月宮つきのみや


 安らかな寝顔に向かって、女がか細い声で呼ぶ。数年ぶりに間近で見る八条宮は、記憶の中の彼とは違ってすっかり大人になっていた。
 椿餅を辿って、会いに来てくれると思っていたのに。大納言の姫君と、何事もなく夫婦めおとになれたという事かしら?

 目を覚ましてほしい気持ちと、このまま眠っていてほしい気持ちが拮抗する。こうして顔を見るはもちろん、言葉を交わすも許されない。だから、庭をひとり歩く月宮を見て、千載一遇の機会だと思った。

 女が身を低くして、美しい顔を八条宮の顔に近付ける。
 その時だった。背後で衣擦れの音がして、女は動きを止めた。そして、命婦が呼びに来たのだろうと振り返る。しかし、そこにいたのは命婦ではなく、白い御引直衣おひしのうしに身を包んだ帝であった。帝の険しい御顔に、女の喉がひっと息を詰める。


「何をしている、弘徽殿」

guest
2 書かれた感想
Oldest
NewestMost Voted
Inline Feedbacks
すべてのコメントを見る
タイトルとURLをコピーしました