第20話 日宮と月宮

 朱染めの長袴と真っ白な御召し物の裾が床板の上を滑り、するするさらりと清か流水の如き衣擦れが近付く。


 ――なぜ……。


 弘徽殿女御は、帝の挙動を凝視したまま微動だにできずにいた。
 局の敷居を踏んだ帝が、天に向かって立ち上がる御冠おんかんむりえいが障らないよう、御簾を右手の甲で押し上げて首をかしげる。

 こうして弘徽殿女御が帝を近くに拝すのは、いつ以来だろうか。八条宮の婚儀のあたりから、帝は麗景殿れいけいでんの女御にょうご宣耀殿せんようでんの女御にょうごばかりをお召しだった。

 御簾をくぐった帝は、上げられた格子から昼下がりの陽光さす局を一望すると、険しかった御尊容をいつもの穏やかな仏顔に変えて寵姫のもとへ歩み寄った。



「良い天気だ。秋の和らぎが心地よいね」



 険しい表情を見たあとだからか、いつもと変わりがないように窺えるその御顔が、なだらかな声色が、そこはかとなく恐ろしい。



 なぜ、帝がお出ましに?
 中殿にこもって、蔵人頭くろうどのとうと山積みの文書もんじょを裁いておられるのではなかったの?



 月宮つきのみやを見かけた直後、典侍に尋ねたら確かにそう言っていたのに……。
 典侍がわたくしに嘘をついた? いえ、それはあり得ない。典侍には、そのような事をする理由が無いもの。



 息の詰まった喉の奥で、ごろっと得体の知れない塊が転がる。弘徽殿女御は目前に立つ帝の御顔を見上げて、やっとの思いで「はい」と声を絞り出した。


「そなたひとりか? 命婦はどうした」
「命婦は……、命婦は弘徽殿におります」


 帝は弘徽殿女御の顔をじっと見つめたあと、視線をその後ろへと逸らした。
 古参の物と思しき落ち着いた色味の袿に包まって、弟宮は気持ち良さそうに寝入っている。特異な髪色と肌の白さ、そして彫像のように整った貌が相まって、本当に月読尊ツクヨミノミコトが横たわっているようだ。

 先ほどの光景が、目に焼き付いて消えない。凛子が依言に顔を近付けて、触れているように見えた。しかし、依言の口元に紅が移っている様子は無い。錯覚か……、見間違えであったか?


「我が……、君」


 らしからぬ震えた声に呼ばれて、帝の視線が弘徽殿女御に戻る。
 いつも自信に満ち溢れて堂々としているのに、今は動揺を隠す余裕を持てないらしい。やはり、見られてはならぬものを見られてしまった、という訳か。帝は、寵姫の声や顔色をそう解釈した。

 宮中とは、華やぎに満ちた絢爛な見せかけの裡に権力の抗争や画策の蠢く所。同時に、男と女が雅やかな恋を愉しむ社交場でもある。一介の女官ならば咎めはしない。だが、凛子は女御だ。私の――。


「弘徽殿」
「はい、我が君」


 帝が、身を屈めて耳元で「声を潜めよ」と囁くように命じる。しんと身に刺さるような冷たい響きに、弘徽殿女御は顔を青くして「お許しを」と袿の袖で口元を覆った。

 我が君と呼べば何時も慈愛を込めて呼名してくださったのに、今はそれをなさらない。それが何を意味するのか、弘徽殿女御が帝の御心を推し量るには充分だった。


「立ちなさい」
「……はい」


 立ち上がろうとする弘徽殿女御の腕を掴んで、帝がその身を引き寄せる。弘徽殿女御が長袴を踏み損ねてよろけると、帝の腕がしなやかに細腰を抱いた。


「お……、恐れ多くございます」


 弘徽殿女御が顔を上げ、帝が下を向く。静かに絡み合うふたりの視線。そして、互いに声を潜めながら、空気に溶けてしまいそうな密やかな会話が続いた。


「命婦ではなく、そなたこそが弘徽殿におらねばならぬ御人ではないか?」
「い、いかにも。仰せの通りでございます」

「麗景殿を召そうと思っていたが、気が変わった。今宵は弘徽殿に渡る」
「……え」

「返事は?」
「麗景殿に知らせを出しておいでなのでは?」

「それは、そなたが気にかける事ではない。返事は?」
「慎みまして……、お待ち申し上げております」
「宜しい」


 行きなさい、と体を解放された弘徽殿女御は、足音を忍ばせて急ぎ早に局を出て行った。
 帝は、八条宮の足元を通って高麗縁こうらいべりの畳に上がると、御召し物の裾野を広げるようにして腰をおろした。そして、脇息にもたれかかって女物の檜扇をはらりと開き眺める。

 先程、弘徽殿女御の体を引き寄せた時に女御の腰から抜いた物だ。絵柄の色彩が褪せていないところを見ると、新調したばかりのようだ。

 局に乾いた風が吹いて、几帳の帷子かたびらがひらりと舞う。程なくして、八条宮が大きく身動いだ。仰向けになって、手足を伸ばして、はふぅと欠伸をして、虚ろにまぶたが持ち上がる。琥珀色の瞳が何度か夢と現を行き来したのち、帝の姿を映した。


「まだ寝足りないようだね、依言」


 笑いを含んだ帝の声に、八条宮は急いで身を起こす。それから、束帯の袍を脱いだ事を思い出して被っていた古参の袿に袖を通した。


「重ね重ね、ご無礼を」
「昨日は物忌みと言っていたが、その様子では大納言の姫君とどうかあったのかな?」


 帝の冷やかしに、八条宮は困った顔で笑うしかなかった。沙那があまりにも可愛く面白いので、つい遅くまで励んでしまったのだ。沙那が意識朦朧だったのをいい事に。


「そういえば、主上。ひどく悩んでおられる様子でしたが」
「ああ……。そなたの健やかな寝顔を見たら、もうどうでもよくなった」
「八条院に使いを寄越して呼び出すほどの悩みだったのでしょう?」


 すまなかったね、とたいして悪く思っていない様子で、帝が檜扇で口元を隠して軽やかに笑う。


「主上が女人の扇をお持ちとは珍しいですね」
「私らしくない? それとも見覚えがあるの?」
「まさか。深い意味も見覚えもありませんよ」

「では、依言。そなた、そろそろ官職に就かないか?」
「異なことを。どうなされたのです?」
「そなたが官職に就いてくれたら、心強かろうと思ってね」


 檜扇を静かに閉じて、帝が格子の向こうへ目を向ける。八条宮は、居住まいを正した。
 兄宮は、幼い時から真面目で勤勉な御方だった。一日中遊びに興じる月宮と違って、じっと座して勉学に励む日宮ひのみや。よく、太陽と月が逆だと揶揄されたものだ。

 思慮の深さも知識の量も、何一つ兄宮には敵わない。夏と添い遂げたくて先帝の願いに背いたが、その実、兄宮こそが帝位に就くに相応しい御方だと思っていた。

 皇家には、常にしがらみがつきまとう。帝になれば、内と外で見えない鎖に縛られるのだ。兄宮の御心労たるや幾ばくか。推し量るも心苦しい。


「俺が官職を賜れば、政局が乱れます。先帝が俺を正一品の親王としたのは、帝位を見据えたのではなく万が一をお考えだったからです。主上が皇子に恵まれれば、要らぬ存在。どうか早く御子をもうけ、二度とそのような事を仰らないでください」

「それは、そなたの本心か? 先帝がそなたこそを東宮にと望んでいたのは周知ぞ」

「俺は嘘が嫌いです。先帝の御意思で主上は東宮となられたのですから、過去を気にする必要がありましょうか。それに、俺が再び内裏に住む事になれば妻が悲しみます」

「大納言の娘が悲しむ? そなたが東宮ないし帝位に就けば、身分に不足なし、大納言の娘は妃となれるのだから喜ぶのでは?」

「いいえ、妻は悲しみます。俺がたくさんの妃を持てば、泣き通して身を露にしてしまうかもしれません。妻と八条院で静かに暮らせたなら、それこそ本望です」


 八条宮は、自分の股間に目をやって小さく吹き出した。どのような方法で浮気を封じられているのか主上が知ったら……、と思うと真面目な話の最中なのに可笑しくてたまらない。

 格子の向こうを見ていた帝が、俯いている八条宮の顔を覗く。帝は、弟宮の心を探り、疑うような問いかけをしてしまったと内心で反省した。
 凛子の事で心乱れたのは事実だが、弟宮はここに凛子がいた事すら知らぬ様子。その上、大納言の娘を心から慈しんでいるようだ。


「意地の悪い質問をして悪かったね。許せ、依言」
「誰にも言えない弱音を聞かせてくださるのは、俺を信頼しての事と存じています」

「うん。私にとって、そなたはかけがえのない存在だよ」
「身に余りある御言葉です」

「それにしても、名うての遊び人であるそなたが陶酔するとは。どのような御方なのだろう。私も会ってみたい。菊見の宴に、大納言の娘を連れて来なさい」
「……は?」


 思いもよらない主上の命令に、八条宮は目を丸くして顔を上げた。


「しかし、妻はとても奥ゆかしく」
「そうであったな。では、とても奥ゆかしき姫が昨夜、そなたを寝かせなかったのか?」

「い、いえ、それは……!」
「そう慌てるところを見ると、ますます興味が湧くよ」


 主上の意地の悪い笑みを見て、八条宮は中殿で感じた嫌な予感はこれであったかと呆然とした。
 その日の夕刻。八条宮は主上を見送ったあと、雷鳴壺の古参たちに餡子を包んだ餅などを手土産に持たされて御所を発った。

 都を真っ直ぐ貫く大路が、真っ赤な夕日に燃えている。禍々しい血色のようで、しかし鮮明な赤が美しい。

 ごとごとと牛車に揺られて都を下り、八条院に帰り着くと、ナギを抱えた沙那が寝殿の御車寄せで待っていた。牛車をおりた八条宮は、「お帰りなさい」とはにかむ沙那に「ただいま」と微笑んだ。

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