第21話 掌に包み月

 まだ茜さす刻。
 沙那は、白木の廊下に伸びる下襲の裾と影を踏まないように、少し離れて八条宮の後をついてゆく。そして、腕の中で欠伸をするナギの頭を撫でながら笑みをこぼした。

 早く帰って来てくださるといいな、と思ってはいた。けれど、まさか明るいうちにお戻りくださるなんて。そのお気遣いが嬉しくてたまらない。


 わたしとは無縁の宮中なる聖地で、依言様はどう一日をお過ごしだったのかしら。今日は何をなさったのですか? どなたとどのようなお話しを? 込み上げる感情のままに、お尋ねしたい事が山ほど。

 ああ、依言様のお話しをお聞きしたい。うっとりするお声で、心地よい口調で、宮中で見聞きなさった事をわたしに教えてくださったなら、きっと絵巻物よりも素敵な物語に出会えそう。
 まぁ……、いろいろと理由をつけて一緒にいたいだけなのだけれども。


「依言様」


 沙那が呼びかけると、八条宮が歩みを止めてゆっくりと振り返った。優しいまなざしで「何?」と言葉を返してくれる背の君。沈みかけた西日に照らされたその顔があまりにも穏やかで、沙那は頬を赤く染めて「いいえ、何でもありません」と俯いた。

 いけない、落ち着かないと。舞い上がって、つい自己中心的な欲望に駆られてしまった。
 依言様はお優しいから、頼めば一緒にいてお話しにも付き合ってくださると思うの。でも、ご迷惑になるといけないから……。


「どうしたの?」
「いいえ、本当に何でもありません」


 笑って誤魔化すと、八条宮は訝しむような顔をしたあと廊下の端に寄って東の空を仰いだ。昼と夜が入れ替わる時刻の、藍と橙の明暗の比コントラストが絶妙な空。ちらほら星も輝き始めている。


「じき、冬だね」


 空に目をやったまま、八条宮がぽつりと言う。沙那は、八条宮の隣に立って同じように空を見上げた。日ごとに短くなっていく昼と長くなっていく夜。秋の夕暮れは、綺麗だけれど他の季節には無い寂さを伴って少し不穏な不気味さを感じる。

 それまで大人しく抱かれていたナギが、不意に耳をぴんと立ててするりと腕からすり抜ける。沙那が「あっ、待って」と言う間に、ナギは廊下の欄干を身軽に跳ねて、鈴をちりちり鳴らしながら庭を走り去ってしまった。

 もう夜になってしまうのにと、沙那はナギの姿を必死に目で追う。すると、すぐ近くで衣擦れの音がして「沙那」と静かに呼ばれた。声の方を向くと、夕暮れの景色が霞んでしまうような美しい笑みがこちらを見下ろしていた。


「ナギなら心配いらない」
「お腹が空くか寒くなったら、ちゃんと帰ってきますものね」
「うん」

「では、わたしは北の対屋へ戻ります。依言様もごゆっくりなさってくださいね」
「ねぇ、沙那。風も無し、天も美しいから、今宵はふたりで観月にでも興じようか」

「……お月見」
「ほら丁度、美味しそうな餡子餅もある」


 八条宮が、持っていた螺鈿らでんの細工が見事な黒い手箱の蓋を少し開いて見せる。その中に隙間なく収められているのは、雷鳴壺の女房が詰めてくれた餡子餅だ。思いもよらないお誘いに、沙那の大きな眼がきらきらと輝く。


 如何に天のお月様と言えども、この世に依言様より美しき物は無し。さりとて、早く帰って来てくださった上に、ふたりで月を見よう(餡子餅付き)だなんて……。今日は、なんて良い日なのかしら!


「支度ができたら迎えを寄越すよ。夜は冷えるから、暖かい格好をして俺のもとに来て」
「はい、わかりました!」


 良い返事だね、と笑いながら手箱の蓋を閉めて、八条宮が主寝殿へ向かって歩み出す。沙那は、遠ざかる八条宮と餡子餅にひらひらと小さく手を振って、その姿が廊下の角を曲がって見えなくなると同時に、喜びに諸手を挙げて北の対屋へ続く廊下を疾走したのであった。

 その様子を、八条宮が廊下の角からこっそり覗いて笑っていた事は、本人のために伏せておいた方が良いだろう。



 かくして、八条院は静々と夜の帳に覆われた。
 主寝殿の女房たちが、八条宮の言いつけ通りに東を向いたひさしに畳を敷いた御座をふたつ並べて、廊下を塞ぐように風避けの几帳を御座の両側に立てる。それから、御座の背に唐絵からえが描かれた四つ折りの金屏風を置いて、火鉢に火を入れた。
 空には三日月とたくさんの星屑が煌めいて、あとは当人ふたりが御座に仲良く座れば優雅な観月の席の完成である。


 沙那は、女房たちが丹精込めて用意してくれた夕餉を食し、身を清め、小梅が選んでくれた冬のきぬを羽織ってその時を待った。
 薄桃色や朱色に、大人びた濃い紫の重ね。小梅は昔から色彩感覚が優れていて、小梅の手にかかると絶対に似合わない高貴な紫色も難なく着こなせてしまうから不思議だ。


 鏡台の丸鏡を覗き込んでひたいを覆う前髪を指先で整えて、檜扇を開いたり閉じたり。迎えを待つ時間は悠久の時のよう。
 沙那がそわそわと落ち着かない様子で待っていると、ようやく主寝殿から女房が北の対屋へやって来た。

 小梅と今やすっかり顔なじみの女房たちに見送られて、沙那が主寝殿の女房と設えられた観月の席に行くと、そこには既に八条宮の姿があった。


「ここに座って」


 御座に胡坐をかいた八条宮が、左手で畳をとんとんと軽く叩く。八条宮は、単衣姿に重ねた袿を着ただけの格好で冠も烏帽子も載せておらず、寝支度万端といった様子だ。殿方がもとどりを見せるのは、そういう時と相手だけだから妙に緊張してしまう。

 沙那は、そそっと御座に上がって言われた通りにする。本当はくっついて座りたいけれど、鬱陶しいと思わるのは嫌だから少し間を空けて。


「寒くはない?」


 そう尋ねながら、八条宮が高足の膳台から黒文字と餡子餅の乗った小皿を手に取る。それを沙那の前の膳台に置くと、控えていた女房が火鉢に掛けていた鉄瓶の湯で抹茶を淹れた。


「寒くないですよ。風が無くて、本当に穏やかな秋夜ですね」
「そうだな」


 燭台の明かりは夜闇には心もとないが、夜空を引き立てるにはそれがいい。沙那が空を見て「きれい」とつぶやくように言うと、八条宮が女房をさげてふたりの間合いを詰めた。


「寒いのですか?」
「そうではない。あなたに引っ付きたかっただけ」
「ひぇ……?」


 空から視線を下げて恐る恐る隣を見れば、八条宮がこちらを向いてにんまりと笑っていた。途端に、沙那の左胸が躍り狂い出す。もはや、お月様どころではない。お月見開始早々、もはや、最早だ。

 流石、恋多き遊び人だわ。素人のわたしが越えられない壁を、難なくひょいっと飛び越えて来る。本当は、わたしから先にくっつきたかったのに……っ!



 って、あれ?
 今、わたしに引っ付きたかったって言わなかった?



 沙那は、八条宮の左腕に自分の腕を絡ませると、えいっと勇気を振り絞ってもたれ掛かった。そして、伽羅の上品な香が焚き染められた衣に頬をすり寄せる。


「餡子餅は食べなくてもいいの?」
「思う存分、依言様に甘えてからいただきます」

「そう」

「依言様。……大好き」
「うん」


 八条宮は、絡ませた腕にぎゅっと力を入れる沙那の頭を空いた右手で撫でた。
 待ち伏せに百夜通いまでして妻になりたいと迫ったのに、沙那からは積極的に近付いて来ない。今日も、誘わなければあのまま北の対屋に戻ってそれきりだった。沙那の事だから、自分の思いよりも相手を気遣って引いてしまうのだろう。


 沙那に好きだと言われると嬉しく、沙那が離れると寂しい。この気持ちを伝えたなら、もう少し懐いてくれるだろうか。


「沙那、右手を貸して」


 沙那は、名残惜しそうに八条宮から離れて「はい、どうぞ」と右手を差し出す。すると、八条宮がその手をてのひらが上になるように自分の左手に乗せて、右手に蝙蝠かわほりを握った。


「何をなさるのですか?」

「心を込めてあなたに歌を贈ろうと思ってね。そうだな、あなたはよく池に映る月を眺めているから……。水面みなもに揺れる月の代わりに、あなたがこの世で一番好きなものを捕まえてあげる」


 信じられないというように驚いて、沙那はそれからすぐに蛍火のように柔らかで心から嬉しそうな笑みをこぼした。

 「書くよ」と八条宮が、蝙蝠の柄を筆代わりに握って掌の上に歌を詠む。さらさらと、その迷いのない筆先は、沙那が二度瞬きをする間に三十一の文字を書き上げた。
 流れるような速さだったので、情けなや、目と皮膚を圧される感触で正確に追えたのは最初の「月」一文字だけだった。


「ええっと……」


 沙那が真剣に掌を見つめていると、八条宮の両手に右手を包まれた。横を向くと、琥珀色の瞳が優しいまなざしをこちらに向けている。恥ずかしいような嬉しいような、包まれた手から頬に熱が集まって来る。



 ――依言様は、何を捕まえてくださったのかしら。



 春に咲く花が好き。良い香りのお香が好き。甘い食べ物だって大好き。父上や小梅、実家の女房たちに八条院の女房たち。この世に好きなものなんて数えきれないくらいある。だけど、わたしがこの世で一番好きなのは――。


「俺はね、沙那。朗らかで優しくて、懸命なあなたが愛おしい。天の月よりあなたの近くにいて、あなたを想っているよ」

「依言様……」
「今あなたの手の中に俺の気持ちを書いた。ほら、これで俺の心はあなたのものだ」


 沙那は、八条宮の目と握られた手を交互に見て、そのまま硬直してしまった。
 春のうららかな日。父上と参内した宮中で、依言様の御姿を御簾越しに見てその透影すきかげの美しさに感性を奪われた。たったそれだけの事でと笑われるかもしれないけれど、一方通行の恋はその瞬間に始まったの。

 夜闇への恐怖にくじけず百夜通いを続けられたのは、依言様が毎夜声を掛けてくださるようになったから。御人柄に触れる度に好きになって、夏姫様の事を知って大切にしなくちゃって……。


「もしかして、この世で一番好きなものが他にあった?」


 八条宮の手が沙那の顔に伸びて、戸惑いながら頬に触れる。夜空のようにきらきらと輝く沙那の目から、ぽたりぽたりと雫が落ちた。

 琥珀色の瞳がわたしだけを映して、低い声がわたしだけに好きだよと囁いてくださる日を夢見てる。一方的に好意をぶつけておきながら、わたしは浅ましくも依言様の心を望んでいた。


「依言様より好きなものなんてありません。けれど、宜しいのでしょうか。わたしが依言様の御心をいただいても」

「あなたなら、慈しんで大切にしてくれると思うから」

「大切に……、大切に致します、依言様。きっと……」


 ありがとう、沙那。
 八条宮がそう言って、沙那の透き通る涙を指で拭う。そして、伽羅の芳香が鼻の奥をくすぐった刹那、温かくて柔らかな感触に唇を奪われた。

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